未来に残したいアナログの記録はありませんか?こちら(タイムトンネルADC)へどうぞ。
第1章 第2章 第3章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 第11章
第四章 日記抄-昭和十七年-

 本年は、次の事項を実践に努力したい。
  一、健 康
  一、反 省
    一月二日 (金曜日)
  マニラ陥落。故佐藤鉄太郎閣下の言。
 「世界の平和は決して英雄に依って得られるものではなく、聖人によって得られず、徳に依って得らるるにも非ず。富に非ず。兵にも非ず。智に非ず。之を得るものは一種霊妙なる作用を有する御稜威による」と。又、ゲッベルズ宣伝相は「必勝の信念は御稜威を信ずると云う事により起こり、そこに不思議なる力を発揮する」と云っている。
 御稜威の旗風の靡く処必ず皇恩の渥きに感泣せざる者なし。今こそアジア人がその本姿のアジア人たらんが為に、アジアの敵を東洋より駆逐して東洋人の東洋を建設せんがために蹶起したのであると。
 正月早々でも来る者は来る。アッペが入院、夜は手術で機械係。案外早く終った。
  一月四日 (日曜日)
 今日は「軍人の賜りたる勅諭」 の発布の日。
 朝奉読式が挙行された。でも俺は又アッペの入院で手術のため、列席出来なかった。
  一月六日 (火曜日)  
昨日は臨時入院患者のアッペ手術……。どうも俺が日直につくとアッペ患者が入院する。
 今日初めて氷作業に出た。
  一月七日 (水曜日)
 今日は痔ばかり四名手術。長谷川が手洗いをしたいと言うので俺は浣腸を担当する。
 午後は氷作業、外は寒い。二千六百年史届く。
   一月十二日 (月曜日)
 朝日がまだ輝いている営庭零下二十余度。寒中で基本体操に励む。今日も手術二回。
  一月十四日 (水曜日)
一生懸命看護した滝沢一等兵が午後一時四十分死亡した。男らしい立派な最期であった。或は何時俺が滝沢の様な運命をたどるようにならないとは断言出来ない。その場合、俺は滝沢の様に従容たる態度で死に臨むことが出来るであろうか?

(註)戦争に反対し、軍隊の飯は食わぬと初心を貫き、死に至った滝沢二等兵。
飛行隊より夜中臨時入院した。全身打撲傷やら裂傷やらで、息絶えだえといった異様な兵隊であった。後程、軍医殿よりの話で、滝沢は当時珍しく大学卒のインテリであるが、戦争反対主義者で平和主義を強行に主張し、譲らず、遂には軍隊の飯は食わぬと最後迄自己主張を貫き、班内で殴られ、小隊で諌められ、隊長の説得にも主張を曲げず、遂には憲兵隊に移され、種々の肉体的制裁に対しても自説を貫き折檻されて半死半生の体にて遂に入院したと聞く。滝沢は入院翌日死亡したのであるが、病床日誌には「クループ性肺炎にて死亡」と書かれてあった。家族には戦病死と公報されたことと思うが、当時の検閲を受ける日記などにこのようなことは書けることではない。

憲兵に連行されし兵ひとり入院一夜にあはれ果てたり

軍隊の飯は食はじと貫きて看護りかひなく兵の果てたり

反戦を貫き入院せる兵の果てし病名「クループ性肺炎」

 一月二十二日 (木曜日)
高橋班長殿と吉崎(旧)班長殿が栄転で他部隊に転属されることになった。吉崎班長殿は、初年兵時代特にお世話になったので、別離の情一入である。高橋班長殿は、俺が外科室勤務以来、実務について教えて貰った。甚だ残念だが命なれば仕方がない。両班長殿の前途の多幸を祈る。
一月二十三日 (金曜日)
午後木村が腹痛を訴え入院。アッペで手術の結果は、虫様突起が穿孔していて重症であった。手術が終了して兵舎に帰って床についたのは十一時半頃であった。
一月二十八日 (水曜日)
重態で一時は危ぶまれた木村が昨日頃より回復の兆しが見え、滝沢主任殿よりもう心配ないと言われた。木村はうちの兵隊(初年兵) だし、心配した。最近の患者で木村ほど心配した者はいない。一般患者と差別するわけではないが、吾が班内の兵隊となれば特に情の移ることもやむを得ないと思う。
今日は日直。もう大丈夫だ。
二月二日 (月曜日) 晴
今日は目出度い日だ。井田上等兵(鳥取市二階町出身) が兵長に小林、中野、山内古兵が上等兵(何れも召集兵) に進級する。
二月十一日 (水曜日) 晴
今日は紀元節。午前九時宮城に向かって遥拝。続いて聖旨令旨の伝達式あり。十時祝宴。外出は金も無く中止。シンガポール市街の一角に突入との臨時ニュースを聞く。
二月十二日 (木曜日) 晴
午前十時、娯楽室で杏樹、倭骨(ワイコウ)在住者の徴兵予備検査あり。助手を勤む。俺達にもこんな時が在った。
l一月十三日 (金曜日) 晴
午前中陰嚢水腫の手術あり。初めての手術に立ち合った。午後は雑務。夜は不寝番だが寒稽古。今日は最後なので参加。福島、小新、石原、最後に岡本と試合をして終る。

航空魚雷発射後の機の火達磨となり突入の命尊ぶ

傷病の兵の命を司る吾れらの実務演習はなし

   二月十六日 (月曜日) 晴
シンガポール昨十五日陥落。同日十時停戦の報あり。吾が司令官は山下奉文閣下とあり。勃利で初年兵時代閲兵を受けた日の顔を思い出し感無量である。

面影を忘ることなし将軍のシンガポールの攻略なれり

   二月十八日 (水曜日) 晴
また夜の杏樹駅を出発し、満一年振りで弥栄村へ牛乳受領に出発した。街は変っていなかったが、雪が降り、杏樹より寒いと思った。匪族の襲撃を今年も受けた由。労働者を奪ってゆくらしい。武装移民の苦労も大変だ。
戦友の福島が風邪を引いたようだ。あまり強い体質でないようだ。気をつけてやろう。
三月一日 (日曜日) 晴曇
三月というだけで暖かくなった感じがする。
大阪の柿より小包が届いた。三郎に頼んでいた火野葦平の『我が戦記』と姉の子供と妹節子の写真が入っていた。
三月五日(木曜日)曇 (+)十度
昨日より今日も引続き暖かい。氷がどんどん解けてゆく。兵舎の前は解けた氷の水で湖の様に流れ、夜になっても凍らない。狂ったような此の頃の天侯だ。電報公用で五四六部隊に七カ月振りで行く。
九カ月振りに大阪の慰問団が来て六時開演。歌謡曲、浪曲、漫才、患者と一緒に見る。
三月九日 (月曜日)
熊沢蕃山警句集より抜粋。
<人の見て善とすれども神の見て善からざることはせず。人見て悪しとすれども天の見て書きことを為すべし>
<小人は己あるを知りて人あるを知らず>
<濁るは水の本然にあらずと雖も水に非ずというべからず>
<人の性は善なりと雖も悪もまた性に非ずと言い難し>
<雲のかかるは月のため、風の散らすは花のため、雲と風と在りてこそ月と花とは尊けれ>
<聖人は俗と共に遊ぶ、衆と共に行う以て大道となす>
三月十四日 (土曜日) 晴
スケート場の氷が解けて小さい湖の様だ。三度目の満州の春を迎える。野火の煙が一日中立ち込めている。やがて土筆が出る。草の芽がふく、鈴蘭が咲く。満洲にも大分馴れたが今一度内地の土を踏む日が来るであろうか。
三月二十二日 (日曜日) 晴
退院された進藤少尉殿より電話有り。入院中飛行機を見物させてやると約束していたが実現するわけだ。
外出を申し出て飛行場に向かった。広い飛行場には多数の飛行機が並び、倉庫にも格納されていた。
軽爆撃機、戦闘機だ。戦闘機の一機に少尉殿と搭乗(と言っても地上で) してあれこれ説明を聞いたが分かる筈はない。「今日は日曜だから飛べないのだ。平日に来たら空を飛んでやるよ」と言って下さったが、平日の外出は駄目だから諦めるしかない。操縦席に坐って動かない本物の戦闘機の操縦桿を握った事で満足して帰った。
三月二十三日 (月曜日)
七カ月振りで又、庶務室勤務に戻った。元居た机に座るので、格別の感動も涌かなかったが、初年兵時代と比べると余程気安く自信も感じられた。特に東准尉殿の下での勤務だから尚更だ。又、軍事郵便屋さんに戻る。
三月二十八日 (土曜日)晴
十一時三十分、東准尉殿と、栗林曹長殿に随行。三人で勃利に出張のため、貨物列車ではあったが仕方がない。勃利到着。三協ホテルで公用の済むのを待ち、栗林曹兵殿と第二三三部隊に行った。同年兵、二年兵、久しく見ぬ間に変っていて名前すら思い出せぬ者が多い。夕食後勃利の街を散歩したが寒くて見物処ではない。雑誌を買って帰る。井筒飯店に山崎博正少尉殿を知っている者がいた。
四月五日 (土曜日)晴 (+)十度
昨日に比べると余程暖かい。気温十度と言っていた。午後初年兵が入隊するというので駅まで出迎えに行く。今年の初年兵は小粒の感じがする。二度目の初年兵を迎えて三年兵になってしまった。可愛い初年兵達。
四月十一日 (土曜日)
井田兵長殿が今日も就寝で、野戦局に二度通ったら午前中掛かった。四月十一日と言えば、内地は桜の季節と思うが、杏樹では桜どころか一尺近い雪の原だ。容易には寒さが抜け切らぬ。

桜咲く季見はるかす杏樹野のはたては空につづく雪原

時ならぬ雪原にして初年兵の達磨作りの中に混ざりぬ

   四月十五日 (水曜日)
営庭の初年兵達と造った雪達磨が解けて首が飛び、見るかげもない。ルーズベルトもチャーチルも、蒋介石も此の様に崩れて流れて消えるとよい。

為すなくて国境守備の三千里陰膳欠かさぬ母吾に在り

   四月二十日 (月曜日)
召集兵殿が明日は帰国する。思えば入隊以来御世話になった。昨年二月には高橋戦友殿を送ってあれより一年経過している。あと一年過ぎると俺達も帰国出来るだろうか?
タンポポが咲いて鈴蘭が咲き、桔梗・向日葵・薊・コスモスが咲き、野原が枯れ野と変り、氷が張って、それが解けそめると一年が過ぎる。その時は……。
四月二十八日 (火曜日) 曇
兵舎の前の箒木草が薄赤い芽を出した。広い野原は薄縁の草の芽が見え出した。いよいよ春だ。でも今日はどす黒い雲に覆われ、一雨来そうな気配だ。
死に対する覚悟を今日もまた考えて見た。万一捕虜になったとしたら、伝えられる物語の様に、落ち着いて自若として死ねるだろうか?
自信は持てないが、国を売る様な恥かしい死に様だけはしたくないと考える。派遭先から吉岡が私物を送ってくれと三度も便りをくれているので明日は送ってやろう。
(検)紺野
四月二十九日 (水曜日)曇
今日は目出度い三度日の天長節。式後兵舎で祝盃、久し振りで外出。鈴木兵長殿に出合った。皆と杏樹の街を散歩。『ツバサ』『敷島』と『音楽』でコーヒー、紅茶、それと酒を呑む。五円余の有り金全部使い果した。スッカラカンになってサバサバした。負け惜しみでなく、金が有れば又外出したくなる。来月の俸給までおとなしく過ごす気だ。
四月三十日 (木曜日)
内地よりの便りでは、東京の空襲は新聞の記事より余程被害が大きいようだ。
今日は靖国神社大祭。朝から月末の報告で仕事が積っているので登庁する。三時頃終った。関看護婦が内地へ帰るというので、いろいろ御世話になっていたから、岡看護婦と共に見送るために外出した。暖かくなって、金は無いが気分朗らかで矢張り春だなと思った。
五月一日 (金曜日) 晴 (+)三十度
やっと寒さから抜け出した感じの此の頃だ。白楊(ドロヤナギ)の芽が大分ふくらみ、間もなく鈴蘭も咲くことであろう。門衛が三十度あると言っていた。

春雷の遠のきしあとの杏樹原迎春花の芽のあちこち青し

   五月四日 (月曜日)曇 雨 一時小雪
昨日の寒さより今日は尚更だ。朝降っていた雨が霙に変り雪になった。二センチ位も積ったが、最後の雪であってほしい。野戦局に行く手がかじかんで弱った。
五月十六日 (土曜日)
井田兵長殿が夜警勤務だったので、代って野戦局に行った。途中戦闘機が雲間にトンボが舞うように、もつれ合って戦闘訓練をしていた。白揚が僅かに葉を出して濡れた様な艶やかしい薄葉が陽に映えていた。草原を歩く時、鈴蘭を探して歩いた。今日は車廻しの処で可憐な葉を出していた。
五月二十一日 (木曜日) 晴
今日は軍紀訓練日、良く晴れた白雲の空を仰ぐ、漸く青くなってきた広原をまっしぐらに銃を片手に走っては止まる。久し振りの野外戦闘教練は気持がよい。庭の車廻しの杏の花が真っ盛りだ。梅の花に似て白い小さな花は心の底までうるおいが滲み透るように感じる。

匍匐して突撃前のたまゆらを土とまぎれぬ草の匂へり

すぐる日に看取りし兵の街角に言葉親しく語りかくるも

かへらじと心定めし故郷に居て満州を恋ひたるは夢

報ゆべき何物もなき身に賜ふ従軍記事御賜の煙草

醜草の命一つを捨つるべき日のいつならむ身に賜ふ品

  五月二十四日 (日曜日) 晴後雨
昨日の注射(四種混合) のせいか微熱と頭痛がつづく。午前中は営内で戦友と写真を写した。久々でうまく写っているかどうか。午後になったら雨。此の頃の天候は内地の秋のように移り易い。そろそろ国民文学の歌稿をまとめねばならぬ。茄子やトマトの苗も程良く伸びて来た。間もなく定植せねばなるまい。
(検)紺野
五月二十六日 (火曜日) 晴後雨
忠臣蔵の大石義雄の心事につけて、吉川英治は次の様にのべている。
「私はそんな人間ではない。不当な褒め方だ。私の心事を打ち割って言えば、大野九郎兵衛と同じ思いもある。祓園伏見で酔った心は、計略でもなく心から酔い、心から遊んでいたのだ。あの儘山科で気楽に山水を楽しんでいたらと言う気持ちも多分にあった事は間違いない。唯、私の血液の中に思っていてもそれを跳ね返して士道の心に立ちめぐる強いものがあっただけの事だ」 とある。九軍神となるも、忠臣義士となるも亦大野九郎兵衛となるも、人間の心にどれ程の差異があろうか。「思ってもそれを跳ね返す」実に紙一重の力の強弱によって人間の価値が定まるものと理解する。
戦陣訓にも「己に勝つあたわずして物欲にとらはるる者如何にか皇国の使命を果するを得ん」とある。「己に勝つ」紙一重の差が決するが、その僅差を跳ね返し得る精神を養う為に五日十日、否生涯かけて私達は修養に努めているものと思う。唯一度の死を選ぶためのみに・・・。
五月二十九日 (金曜日)
四種混合を注射したので宵から寝ていたが、十時頃岡本に起こされた。派遣されている吉岡が杏樹駅を通過するというのだ。まだ熱もあり頭痛、悪寒を感じていたが、無理をして起きた。十時十五分着の予定が一時間待っても到着しない。満州の汽車は内地のように時間通り運転されることはめったに無が、一時間待っても来ないので、其の間頭痛と悪寒に耐える苦しさは一通りではない。戦争ともなればもっと苦しい時でも耐えねばならぬぞ。そんな事を考えて耐えて耐えつづけた。「これ程にしてもお前は戦友に会いたいのか」心に反問して見た。「此のまま死んでも良い。会いたい」 そう言う言葉が帰って来た。「それでは忠義はどうするんだ、犬死になるぞ」「否戦友に会いたい。戦友を愛する心こそ、国を愛する心に通ずる」自問自答している内に汽車が到着した。貨物車の中から吉岡外五名が顔を出した。大方、一年振りの再会、待つ間は苦しかったが会えて良かった。十分程の短い面会ではあったが来てよかった。(面会者 - 吉岡・灘本・伊藤外)

十分間停車を待ちて耐ふ悪寒久々に会ふ戦友どもの顔

徐行する窓より覗く戦友の顔黒々ひかる夜の灯のもと

   六月一日 (月確日) 雨
今日から夏服着用。思えば二年前の昨日、当隊に転属したが、長くも短くもある二カ年である。『国原』の六月号が届いた。
六月七日 (日曜日) 雨
しばらく外出していないので、浜田と福島と青山と四人で外出。記念に写真を撮った。
帰りに「ライオン」跡に開店した「僕の家」と看板の変った店を覗いて見る。鮮人の女性が二人居た。街を一廻りして営外酒保で小林さんにうどんを御馳走になり帰営した。
面会に来てくれた電々勤務の菅原正枝さんは九日に内地へ帰るという便が釆た。健康上の問題らしい。仕合せであってほしい。
六月八日 (月曜日) 雨
今日は六回目の大詔奉載日。九時より式典……。昨日より雨。杏樹の広い野原は一面に流出した雨が低位に集まり、時ならぬ湖水化してしまった。降り積った雨で流出場所の無いまま広原が湖となる現象など内地では想像の及ばぬ現象である。
六月十七日 (水曜日)
山口軍医殿は耳鼻科専門と聞いたので、以前から肥厚性鼻炎と言われて可成り進行しているかと思われるので、手術を進められるまま決意した。
手術は簡単に済んだ。手術の時、機械を見ると駄目だから目隠しをする様言われたが、外科勤務の経験が有り大丈夫ですと答えたが、目隠しをさせられてしまった。          (検)紺野
六月二十一日 (日曜日)
鼻に挿入したガーゼが除かれ、気持が良い鈴蘭の花の匂い。うどんの香り。今迄、臭覚が殆ど無かっただけに、世の中が明るくなった様な感じ。臭覚をとり戻した生活は何ともうれしく楽しいものだ。
明日あたりから勤務についても良いと思う。
七月三日 (金曜日)晴
今日の暑さはもう夏のものだ。事務室で事務を執っていても汗が流れて仕方がない。石川さん(元軍属) より便あり。まだ俺が外科に居ると思っているらしい。溜っていた便りの返事を書く。
七月六日 (月曜日)
「綺麗に磨かれた靴を穿いている人間は注意深く用心して泥道を避けて歩く。が、一度足を踏み誤って靴を汚すと彼はもう前程用心しなくなる。すっかり汚れて仕舞ったと認めると、もう大胆に泥の中をジャブジャブと歩いて弥が上にも汚して仕舞う」 トルストイ。
「西洋の話に、天の悪魔は常に四人の眷属を派して世の人々を誘惑するという。その四人とは、一に(是れ位のことは) と言う眷属、二には(唯だ一度位は)、三には(人もやっているから)、四には(まだ先があるから) と言う四人の眷属だ」   新井石碑「四人の悪魔」より
七月七日 (火曜日) 支那事変記念日
『国民文学』七月号が届いた。俺の歌は三首しか載っていない。忙しいからと自分に断ってはいる
が、才能の問題であろう。唯一瞬のために幾年も幾十年も骨身を削るように訓練を重ねた九軍神の様に、死の唯一瞬の前に自分の思ったまま、感じた事を一首に盛り込むために歌を作る。その時までの総決算をした歌の一首を作らんが為の修練なのだ。

四千五百肺活量は衰へず夏痩せなどは憂ふに足らじ

二分五秒呼吸停止に耐へ居りぬ数十人の一人残りて

墜落の機内に起りし爆音は仮眠所の空轟きたりき

次つぎに撃墜さるる機の在りて覚めし仮眠所空の爆音

   七月十二日 (日曜日) 雨後曇
前日黒川に誘われ倭骨(ワイコウ)に魚釣りに行く事になっていた。岡本、松井、浜田、それに班長殿が主力になっている。朝二時に起床、雨が降っているので駄目かと思ったが倭骨駅に着いて、東が白む頃には止んで来た。葦の間の沼の様な所だが鮒がよく釣れる。黒川も浜田も皆よく釣り上げる。餌を付けるのが間に合わぬ位、一寸引かないと思って煙草に火を付けようとすると又引く。あまりよく釣れるのも面白くないものだ。満洲の鮒は馬鹿なのかも知れぬ。食事をと思って雑嚢を引き寄せた時、撒き餌と共に水中に転がったので黒川の飯を分けて食べた。十二時頃には餌も無くなり、魚も山積み、飽きて仕舞った。国久曹長殿の方はあまり釣れなかったようだ。石油缶に山盛り、慰問袋二ケに満員。重い袋と缶をさげて十三時二十分頃倭骨駅に向かった。
七月十六日 (木曜日) 雨降雹あり
蒸し暑さは午後迄続く、内地で想像付かぬかと思っていると物凄い雷鳴となり、凄い雨となった。
何か音がする様だと思ったら、蚕豆大の雹が混ざっている。一昨年の様に白く積る程でもなかったが、真夏の降雹は珍しく、手に乗せて眺め入る。

炎天は忽ち雷鳴とどろきて降雹屋根を叩き飛び交ふ

瓜茄子の畑気遣へど飛び交へる降雹手に乗せ溶くるを見詰む

   七月十九日 (日曜日) 晴
毎日の様に降っていた雨は止んだ。梅雨が上がったのかな? 『国民文学』を読み、作歌をと思ったが、誘われてキャッチボール、碁、銃剣術のあとビール。夜は兵舎で娯楽会。またオジャン。
新聞で国語を発音通りの「新かな使い」 に改めるとの記事が出ていた。
七月二十八日 (火曜日) 雨後曇
精神病患者二名転入。早速不寝番に当った。精神病患者の不寝番は初めてだが、案外おとなしいので助かった。
今日は満月の夜だが、雲も出ているし、月見どころではない。
七月二十九日 (水曜日) 雨時々曇
梅雨の様な天気が二、三日続く。時折り雲が切れて日差しが覗くと、露をたたえた薊の紫がキラキラ輝く。今年の薊は格別美しいようだ。
七月三十日 (木曜日)
六時起床。点呼、基本体操、食事、登庁、五時退庁、銃剣術、食事、読書、点呼、就寝。毎日同じ事を繰り返して三年経った。気持だけでも毎日新しく、向上、進歩を……。刺戟、探究を。そんな事を考えて、平凡な毎日より抜け出したいものと考える。或は戦争の唯中にでも飛び込めば、心の道がひらけるかもなどと思うのは贅沢かも知れぬ。
八月三日 (月曜日)
今日も胡瓜が大分獲れた。西瓜は子供の頭位の大きさに生育したが、其の後生育が止まったような気がする。トマトは青い。此の天候で熟れるかどうか。茄子も、今少し早く蒔けば良かったかな。キャベツばかりは上出来だ。炊事軍曹殿が喜んでくれそうだ。
八月七日 (金曜日)
此の頃は涼しくなったと感じる。入浴をしながら窓の外を眺めると、夕映えの光が咲き揃った薊の花にくっきりと片影を作っている。向日葵も咲き並び、遠い地平線まで続く広原の緑と和して、空に壮観な眺めでつい誘われて外に出た。馬鈴薯畑の花も咲き揃うと案外美しいものだ。茄子、西瓜、トマトも収穫を前にして誇らしく夕茜に染まっている。杏樹は果てなき薊広原である。
八月八日 (土曜日) 曇一時雨
ペン習字の講義録が届いた。
牡丹江から患者が転入するので、杏樹駅まで黒川と浜田と三人で出迎えに出た。良い天気だったのにぽつりぽつりと降り出した。日が照っていると暑いが、雨が降ると急に涼気が流れて秋を感じる。寒気はもう迫っている。

茄子畑に続く地平を流れ寄る朝霧いまだ及ぶことなし

朝の日は月とも白し霧の中音なく浮かぶ杏樹広原

さりげなき手術と告げて運ぶ兵回復叶はぬ気配を見せじ

絶望の命と諦め三日経て体力ややにやや持ち直す

   八月十三日 (木曜日) 晴
今日は実弾射撃。度毎に俺はあまり好成績ではない。射込み五発。六・五・三・三・一で五十点満点の十八点。初めての射撃という看護婦の成績が四点一名、三点一名に比べてまあ可としょう。本務ではないから……。
八月十六日 (日曜日) 晴
今日は杏樹神社の祭礼日。各飛行隊等、本科の各隊数百人単位の選抜選手と、百名に足りない吾が病院選手の吾等との銃剣術の試合である。
兼ねて今日の為に練習に励んだものの、各隊五名選抜の対等条件の不利は免れ難い。何糞やるぞ。然し結果は、黒川、松井、浜田、俺、皆負けた。班長は勝ったものの個人戦は完敗だ。然し、団体戦になって雰囲気に慣れたせいか、準優勝となった。角力は小林一等兵が三人抜き、五人抜きで土つかず。演芸の部も優秀だと褒められた。総合すれば予期以上の成績で引き上げた。

余熱まだ漂ふ煉瓦の建物に添ふ立哨の月の影踏む

巡視する吾が近づけば鳴くを止む闇の草間にすだく蟋蟀

蟋蟀にまぎれず鳴ける虫の声立哨の夜を慰めやまぬ

   八月二十三日 (日曜日)
日常の勤務時間。起床六時。点呼六時三十分。七時~七時三十分朝食。八時登庁~午後四時三十分
退庁。以下毎日の目標時間割。
退庁後四時半~五時=半使役・其の他
五時半~六時=夕食・入浴
六時 ~七時=運動・作歌
七時 ~七時半=ペン習字
七時半~八時半=日誌記入・其の他
八時半~九時(消灯)=自由
八月二十四日 (月曜日) 曇
今日は珍しく伝染病室日直、外を歩むと既に秋立つ風が作業衣を通し肌に伝う。宵になると蟋蟀のすだく声が聞こえる。今宵は確か十三夜と思うが月は見えない。
八月二十六日 (水曜日)
今日は昨日より余程暖かい。明日は徳勝屯に行軍らしい。今度は近いから行けそうだと思っていたら、東准尉殿は出張中だし、大下さんは運転だし、庶務室に残る者が居なくなるので残らねばならぬから、行軍には又参加できない。今夜は満月。雲が無ければ月見をしたい。
八月二十八日 (金曜日)
何時もの通り登庁したが、皆行軍に参加して広い庶務室に中田古兵と二人きり。月末が近いので、月報外仕事は忙しい。『赤十字歌集』が届いた。残業、不寝番。予定表通りに行事はなかなか守れない。
八月二十九日 (土曜日) 曇
清水と二人で外出する予定だったが、糧秣が届いたので駄目になった。藤定上等兵、小林上等兵と外出したが、二時半頃帰った。
鬱陶しい空模様で晩までもてばよいと思ったが降らなかった。涼しさを越えて日毎に寒いと思ふ日がつづく。今日は予定表を無視して遊んでしまった。
(検)滝沢・前田・紺野
八月三十日 (日曜日)
日記は自分の為に書くもので、人々に見せたり、他人の為に書くものではない。そう思うものの、周囲の状況などあって思う様に書けないものだ。人が何を言うとも、報われなくとも良い。形式的な出世より精神的修養を進める方が貴重である。損な性格で、オベンチャラが大嫌いで損をする。例え川底の石となって果てるとも、清純な、正しいと思ふ心を貫きたいと思う。晴れ渡る大空よりも広い心こそ望ましいものだ。

伸び競ふ杏樹の原に抽きて立つ向日葵の花露にかがよふ

   九月二日 (水曜日) 曇地震あり
午前四時五分、異様な物音に目が覚めた。不意に兵舎がグラグラ、ミシミシ揺れ出した。「地震だ」そう叫んだ。皆起きてきた。間もなく何事もなく、元の静けさに戻った。朝、地震を知らず寝ていた奴もいた。寝首を掻かれても知らない奴だ。確か二度目の地震だと思う。
九月三日 (木曜日)
衣を千仭の岡に振ひ、足を萬里の流れに濯ふ。大丈夫此の気節なかるべからず。海潤うして魚の躍るに従ひ、天空うして鳥の飛ぶに任す。大丈夫此の度量なかるべからず。月格桐の上に到り、風楊柳の辺に来る。大丈夫此の襟懐なかるべからず。                  (林羅山)
古い『ますらを』より抜粋。月報も一段落ついてほっと一息。
九月四日 (金曜日)
一から一を引けば零である。人生から愛を引けば何が残る。土地から水を引けば砂漠になる。武者小路実篤の人生論。愛は地上で最も美しい。子を持って知る親の恩とか、母の事を思うと胸のふさがる想いがする。

桑寵の中に西瓜をひそめたる母想ひ出る幼かりしよ

   九月八日 (火曜日) 雨
冷たい雨、もう秋だ。二重の窓に雨滴が斜めに流れる。八時の点呼はもう暗い。初年兵の第三期教育査閲の日だが、事務多忙で立ち合えなかった。夜の点呼で班長殿より、まあまあの出来との講評あり。二年前の俺達の査閲の頃を思い出した。
十八日は吾が部隊(病院) の開院記念日。記念演芸の劇をまた考えねばならない。
九月二十二日 (火曜日)

秋虫の声絶へだへに細りしを立哨寒気の夜に想ひをり

吾の死は何時ならむかも寒き夜の立哨星のひとつ流るる

星一つまたたく間より短くも軽き命か立哨つづく

暇ひまに植ゑたるトマト馬鈴薯の収穫まではとどまりゐたし

霜枯れし荊に止まり動かざる蜻蛤(アキツ)幾匹露に光れり

 藤定、村上(行雄) さんが兵長に、中田真宗さんが上等兵に進級された。(召集兵)
九月二十六日 (土曜日) 雨 氷雨あり
昨日は中秋の名月であったが、今年で三年、雲で眺めることが出来なかった。降ったと思うと止む雨。晴れるかと思ったら風が強くなり、霧が流れ出る。霙が降ってやがて氷雨に変る。転変激しき一日であった。
九月二十八日 (月曜日) 曇
林口から患者が○○名転入して来た。同じ列車で、関東軍慰問映画フィルムが届いた。
「甲斐路」入江たか子の主演、久し振りに見た。あと三日で短歌を二十首作らねばならぬ。じめじめと嫌な一日だった。 
(検)須藤
九月三十日 (水曜日)
松村英一先生が「説明的な歌はわかり易く、具象的なものはわかり難い」と言っておられる。
平板で余韻に乏しい。技巧も未熟だと思いながらどうにもならない。もっと核心にふれた歌を作りたいものだ。
十月四日 (日曜日) ○度
寒くなった。朝零度だと誰かが言っていた。又、昨年のように零下三十八度にも下がることだろう。
九時に登庁。五時退庁。午前は短いが、午後は長い気がする。退庁時間を待つようでは本当の勤務とは言えまい。内務の事についても色々の方面でいろいろの意見を聞く。三年兵がもっとしっかりしろと。本当の立派な兵舎内務班を作るよう努力しよう。

ほろほろと萩散る庭にこほろぎの声細りたり淡し月光(カゲ)

  十月七日 (水曜日) (-)一度
今朝は寒い。先月二十三、四日頃、山陰地方に水害ありと聞いた。干魃で桑や稲を心配して今度は水害。故郷の父母は被害に苦しんでいるのではと気にかかる。

コスモスの咲き揃はざる霜の原仰げば雁の既に羽搏く

熟れ初めて間なきトマトの一夜にて黒ずむあはれ昨夜(ヨベ)の早霜

雨透る軍靴の儘に炊飯し休止短く夜をいで発つ

軍衣の儘に屯(タムロ)して冷気身に沁む歩哨に立てり

演習を終へ帰営せし兵舎皆伸びるが儘の髭競ひあふ

ペーチカはまだ火の気なき班内の長き一日消灯を待つ

   十月十四日 (水曜日)
突然林口に出張命令。四十五分しか時間が無い。初めて林口駅に五時四十五分到着。川を越え、小高い山の稜線に着いたらもう暗くなった。一人の出張誠に心細い。

道問いて返る満語を持て余し人待つ山路既に夕ぐれ

尋ねあて宿りし兵舎出て立つに軍靴磨かれ見送りくるる

鯉濃(コイコク)を添へて賑はふ膳の上今年最後の魚釣りし夜

  十月十六日 (金曜日)
今日は靖国神社臨時大祭。神霊一万五千二十一柱と聞くが、戦友福井、福中も含まれている。安らかに眠れ。
十月十七日 (土曜日)
今日は神嘗祭、十時式典、明日転送患者の準備す。
十月十八日 (日曜日)
六号室の不寝番。宵番(午後五時~○時迄) と交代した時、既に手、足先がチアノーゼ症状。呼吸もかなり乱れている。早速週番の藤田軍医殿に診断を求む。ビタカンフル、安ナカ、ジギタミンを交互三十分間隔に注射するよう指示を受け、指示通り看護。一時小康が続いたが病態急変、持田班長、軍医殿を呼んで応急処置されたが空しく呼吸停止。俺の看護中の死亡は初めて。死後の処置を施しつつ悲しかった。
十月二十二日 (木曜日)雪 (-)十度
朝、二、三セソチの雪。十日にも降ったから二度日の雪だ。寒くなった。
十月二十三日 (金曜日)
滝沢少佐殿が南方に野戦病院を編成の為に転出されることになった。東准尉殿はじめ、我等兵舎にも選抜された○人が同行することになる。幸か不幸か俺は残留することになったが准尉殿と別れねばならない。
十月二十五日(日曜日)小雪 (-)十度

粉雪の朝氷点下十度とふ去手(コゾ)より遲し三度日の冬

   十月三十日 (金曜日)
寒積古が続いているが二、三日来寒い。昨年の記録を見ると零下十二度とあるから少し暖かいと言えよう。三寒四温だから、まだ暖かい日もあろう。
十一月一日 (日曜日) 雪
月報も提出した。歌稿も送った。今日は雪だが、珍しく内地の様な牡丹雪だ。夜汽車で高木の処に行った時も今日の様な牡丹雪が降っていたことを思い出す。
十一月三日 (火曜日)
今日は明治節。秋になると父が何処からか菊の鉢を持ち帰って眺めた事を思い出す。満州には菊を見ないので淋しい。九時、神宮の方向に向かって遥拝、黙祷。式後、部隊長殿(小田軍医中佐殿) より、病室の保清が良くないと注意があり、一日反省する様申し渡されて折角の祭日に外出禁止となる。二度と繰り返さないことだ。
十一月六日 (金曜日)
皆が「中村は本ばかり読んでいる」と言う。自分でも認めている。清水が持って来た『ここに道あり』を読んでいる。
「食うか食われるかと思う時は食はぬがよい。死ぬか死なぬかと思う時は死ぬがよい」 「武士道とは死ぬ事と見付けたり」葉隠れ武士道である。戦陣訓の「悠久の大義に生きる事を喜びとすべし」もこの理念より発することであろう。「人はともすると地位や権力を振り廻したがるもの。不遇で志を得ぬ時は謙遜し物分かりの良い人でも、地位や権力を与えると人が変わったように増長し思い上がる。
修業の足りない証しだ」      (葉隠武士道抜粋)
十一月九日 (月曜日) (-)十五度
いよいよ冬だ。スケート場の準備が始まるだろう。山岸中尉殿外三名転属で今日見送る。
東准尉殿も十一日に新京方面の部隊に転属の内定とか。一番勤務の上で密接で、毎日の事務は准尉殿の文書の清書役、公文書の発着整理すべて准尉殿の手となり足となって勤める現状を思えば別れ難い。

消灯の延期許可され南方に発つ戦友(トモ)と呑む最後とならむ

  (註)実は准尉殿転出以降、俺の運命に重大なる影響をもたらす結果となる。
十一月十日 (火曜日)
野火の煩がガラス窓に燃えるようだ。遠い野火が広野のあちこちに見える。

杏樹野の野火くだつ夜の雲すらも焼き尽さむかゆらめく焔

工兵と定まる弟入隊を待つとふ便り更けて読みつぐ

(註)弟三郎ビルマにて戦死
十一月十二日 (木曜日)
昨日東准尉殿を見送った。准尉殿の様に良くして戴いた人と別れるのは、運命なのかも知れないが、諦め切れない淋しさを覚える。
十一月十四日 (土曜日)
午後国久曹長殿の官舎で、井田さんと清水と福島と小林上等兵とで御馳走になった。
十一月二十七日 (金曜日)
種々噂が飛び出す。召集兵殿らの満期近し、そんな噂もある。
十二月五日 (土曜日)
国東軍派遣の慰問団が来た。舞踊、漫才、浪曲、ハーモニカ、ギターの軽音楽。十三時より三時間の熱演だった。
夜は召集兵殿の送別会。又、兵舎は淋しくなる。
十二月八日 (火曜日)
今日は大東亜戦争一周年記念日。一生を通じて真珠湾の戦果の感激は忘れられぬことと思う。
十二月十四日 (月曜日)
弟の入営待てる時にして兄正義の応召を聞く

二人目を身寵りし妻残し征く兄と弟発ちしならむか

(註)兄正義フィリピソにて戦死
十二月十五日 (火曜日) (-)二十度
外は風の無いせいか零下二十度を表示しているのに左程寒気を感じない。三沢千代さん(慰問袋の送り主) より二度日の週間朝日とサンデー毎日が届いた。変わらぬ御厚志に感謝する。
十二月十八日 (金曜日)
井田兵長殿(鳥取市)達が帰国してもう二週間になる。淋しくなった兵舎にも何時しか馴れてきた。馴れることはおそろしいことである。善にも悪にも。
十二月十九日 (土曜日)
年末もあと僅か。今年最後となるかも知れない外出をと誘ったが浜田は出ないというので、黒川と松田と三人で出た。出ては見たが寒いし、何処とて遊ぶ処もない。軍人会館が建設される由、そうなれば映画も見れるとか。寒い風を吸って帰っただけの外出だった。帰って浜田と碁を打ったが、負けてばかりだった。
十二月二十三日 (水曜日) (-)二十五度
今夜は満月で良い月だ。でも寒い月夜だ。
十二月二十五日 (金曜日)
大正天皇祭。日頃話題となっていた忘年会を実行することに決った。俺達同年兵のみで興亜飯店と思ったが、休日だったので音楽食堂にした。同年兵が全員揃って外出。忘年会は初めてだと思う。楽しい一日だった。
十二月二十九日 (火曜日)
年末が迫った。今年の年末年始の休業は取り止めとなった。でも今日は餅つきだ。事務の関係でやっと半臼搗くのが精一杯。内地での餅搗きを思い出す。
十二月三十一日 (木曜日)
今日は大晦日。捷報に明け、捷報に暮れた一年であったと思う。昭和十七年は平凡に暮れたようでもある。健康と反省を一年の目標としたのであるが、人間的進歩を期待したものの、如何程の向上が有ったであろう。振り返ると淋しい限りだ。人間の弱さとも言えるが、人間だから進歩があってよいとも思う。来年は良い年を迎えたいものだ。

匍匐(ホフク)して振り返り又匍匐しつ命令おそし尖兵われは

足裏をむしり取らるる痛みにも耐へたへ行軍ひたすらなりき

母の夢見たりき五分の休憩に眠りしや又行軍つづく

蚊の群に身を任せつつ攻め来る敵襲撃を待ちつつ久し

攻め寄する敵の近きか闇空に飛び立つ鳥の羽ばたき高し

無事なりと短く父母に書く便り思へることに触るることなく

母のふみ懐中にして立つ歩哨照らす此の月母も見つらむ

戦ひに来て戦はず病院(ミトリヤ)に再び新春ことなく迎ふ 
(二度日の新春)

向日葵はユラリと高く濡れて咲く今年は雨の続く杏樹野

点呼後の杏樹が原の夜の虹色褪せたれど大いなる橋

全機無事帰還したるや爆撃機ひねもす二重の窓ふるはする (航空隊の渡洋爆撃)

元日を何処攻むるや飛び立ちて編成整ふつぎつぎの音

親しみの言葉掛け来し満人に吾の満語は通じぬらしき

戦ひに此の身の果つる日は何時か春匂はせて暮るる杏樹野

戦ひの為に生れしはらからか弟二人も兵をめざせり 
(三郎現役入隊、寿男海軍去願入隊、共に戦死)

防寒具の要なき身軽の日となりて夕餉の兵舎声のあかるし

漢字をも覚えて記す妹の便り届けり三年(ミトセ)会はざる

春おそく芽ぶく枯原一斉にみどりひろがり花々の咲く (満州の春)

銃眼は草生ふる儘崩れをり十年経たる弥栄の村 (移民弥栄村)

出没の虎射止めしを手になづる弥栄移民のやすらかならず

天界の崩れ落つとも降りつづき杏樹の原は湖となる

ひねもすの雨まだ止まじ杏樹野の畑悉く湖なせる

真夏日の空を乱して忽ちに雹降りそめぬ白ひと色に (真夏の雹)

灼けし屋根叩きて落つる雹の玉兵舎囲みて忽ち白し

茄子西瓜トマト畑を気遣へど降りつぐ雹を清しみをりぬ

暑き日は既に還れど畑くまに溜りし雹のまだ消え残る

コスモスの咲き揃はざる広原をかりがね既に羽搏き鳴けり (早き冬)

勢(キホ)ひつつ過ごす日長く入営を待つのみといふ弟のふみ

稲刈りを吾に代りて励むとふ妹の文字大人びたりき (妹節子の手紙)

兄の夢久びさに見つ別れ住み長く会はねば顔の幼し (兄正義応召)

弟の入営兄の召集を告げ来たるなりいもうとのふみ

「十五日召集の兄」と妹の便り何れの戦地めざすや

産み月の妻を残して征く兄の如何なる思ひに立ちしならむか

二人目の産月とのみ知らせ来し兄は如何なる地に戦ふや   (註)フィリピンにて戦死