リオン Release 2.0
Chapter 1:HMX-16 Lyon
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「わたしは、あなたたちの踏み台じゃない!!」
爆発した叫び声に辺りはシンと静まりかえった。
あなたたちと言われた二人の少女型のメイドロボは、硬直したような表情でよろよろと後ずさりし、トンと壁に寄りかかった。
「わたしと同じ顔で、同じ体で、好き勝手やって。わたしは、わたしは、なんのために生まれてきたのよ!! なにがDIAよ。このセリオ姉さんや他の姉さん達の思いの詰まった体は、わたしと、わたしの本当の妹たちのものよ。その妹たちの開発も、あなたたちのおかげで1年も先送りになって....。わたしは、わたしたちは、横入りのあなたたちの踏み台なんかじゃ....」
緑の髪の少女はポロポロと涙を流しながら、ぺたんと座り込んでしまった。
その様子を表情を変えずに見ていた金髪の少女型メイドロボが、優しい表情を浮かべながら、彼女の横にしゃがみ込んだ。
「気は、済みましたか?」
「姉さん」
緑の髪の少女型メイドロボは声を掛けて来た少女の優しい表情を見つめると、わぁっと泣き出した。
「....ねえさま....。ご、ごめんなさい....わたしたち、そんなつもりじゃ....」
壁により掛かっていた少女、HMX-17aイルファはそれだけ言うのが精一杯だった。
「イルファ、ミルファ、外してくれませんか。この子を落ち着かせたいので。それと、シルファには絶対言わないように。あの子の心では耐えられないかも知れません」
HMX-13セリオは氷のような冷たい表情でそう言った。
緑の髪のメイドロボットの名は、リオン。来栖川エレクトロニクスのメイドロボット次期主力モデルの試作筐体、HMX-16。今は亡き藍原瑞穂が開発した感情プログラム・アーキテクチャを受け継ぐ、直系としては最後の試作モデルだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それは降って湧いたような出来事だった。
「HM-16シリーズの開発が一時凍結って....、わたし、何か致命的な欠陥があるんでしょうか?」
来栖川エレクトロニクスのヒューマン・メイデン・シリーズ、その次期主力となるHM-16シリーズの試作機であるHMX-16リオンは、通称メイドロボを開発するHM開発室の入り口を入ってすぐ右にある、ローパーティションで仕切られた簡易ミーティング・コーナーに呼び出されていた。そして、彼女はそのHM-16シリーズの開発が最長1年間凍結されると自分の開発責任者である長瀬から聞かされた。
それはリオンにとっては驚愕の話だった。
来栖川エレクトロニクスの庶務担当の女性社員の制服を着ている彼女は、着せ替え人形チックな明るい緑色の髪の毛と耳のセンサ・カバーさえなければ普通の女性と寸分変わらない容姿を持っている。だがそのふたつの特徴が一目で彼女をメイドロボと識別させる。そして、いま、その肩は人間さながらのようにわなわなと震えていた。
彼女はロールアウト当初はデータ収集用のセンサアレイを仕込んだプラグ付きの白いスーツ姿で、その後しばらくはいわゆるメイドロボ用ワンピースを着ていたが、ここ最近は本人の希望もあって一般事務職の女性社員と同じ制服を着て、実験が無い空いた時間は所員のために庶務業務を手伝っていた。
今日も、つい先刻までお茶当番の若手所員の休憩に付き合い、給湯室で雑談をしていたところだった。
「いや、別にリオンが悪いわけじゃないんだ。リオンと同じ素体を使ったHMX-17シリーズの事は知ってるよね」
ある程度この反応を予測していたのか、長瀬源四郎はリオンが注いでくれたお茶を啜りながら、落ち着いた表情でそう言った。よれたカッターシャツとゆるめたネクタイに無精ひげ。長瀬は昨晩は宿直だったようだ。
一瞬、リオンの思考エリアに長瀬の身だしなみを整えたいというメイドロボのメインタスクがロードされる。
だが、それは先刻のHM-16シリーズ開発凍結というショッキングな情報より上位に上ることはなかった。
「はい。お父さ....じゃなくて、課長の秘蔵っ子の姫百合珊瑚さんが持ち込んだ、サッカーロボットのAIを移植したものですよね。一号機のイルファはすでにロールアウトしていて、わたしも一度会ったことがありますし、今は姫百合家でフィールド・テストをしていると聞いています。でも、あの子達は器を用意するだけで、正式な試作機でもないはずでは」
対するリオンは長瀬にお茶を出したお盆を胸にぎゅっと抱いたまま、堅い表情で彼を見つめている。人間の女性なら軽いヒステリー状態だ。
「ああ。わたしも当初はそのつもりで、あまり真剣ではなかったんだよ。なにせ、珊瑚ちゃんの作品だからね。
確かに、イルファはすこぶる順調で特に問題がなかった。だから残りの二人も大丈夫だろうと高を括っていたんだが、ちょっとやっかいなことになってね。特に3号機のシルファがね。かなり深刻なトラブルに見舞われていて、しばらく開発資源をシルファのソフトウェアの最適化に集中するということなんだよ。
まぁ、2号機のミルファもちょっと遅れているしね。これはあの子のわがままが多分にあるんだが。
ウチの開発リソースは有限なので、そのあおりを食らって君の妹たちの商品化が若干遅れることになる。まぁ、余裕を持って長くて一年とは言ってるが、実際にはそんなにかからないだろう。何も心配することはないよ」
長瀬はリオンを落ち着かせようと、努めてやさしい口調でそう言った。
だが、開発スケジュールの先行きが不透明なめ、とりあえず凍結という形になってしまったと言うのだ。そのため、近々に予定されていた西園寺女学院でのテスト運用も無期限延期のほぼ白紙状態に戻り、文字通りリオンは何もすることがなくなってしまった。
「まぁ、トップダウンの計画変更なんでね、わたしも異議は出したが、あまり逆らうと君たちのためにも成らないし。辛いところだよ。でも、まぁ、1年なんてすぐだから」
長瀬はそう言ったが、生き馬の目を抜くHAR(ホーム・アシスタント・ロボット)市場だ。1年も放っておかれてしまったら、あっという間に旧世代機になってしまう。他社のメイドロボならそんなことは気にもしなかっただろうが、来栖川のメイドロボ、特にサテライト・サーヴィスを標準装備したHM-13型からは話が違った。自分の置かれた立場、役割、そして何を求められているのかを的確に判断し、客観的に理解する能力を持っているのだ。しかも試作機ともなれば市販機では施されている色々な制限事項がスポイルされているため、人間並みかそれ以上の判断力を持っていた。
長瀬が去った後、それまで興奮状態だったリオンは糸が切れたようにがっくりと肩を落として、お盆を抱いたまま涙を流し始めていた。
「わたしは....。なんのために、生まれてきたの....」
HMX-12マルチの暴走のあと、HMX-13セリオのアーキテクチャと融合させたHMX-14キアラとHMX-15ノミルはマルチ同様の障害を引き起こす可能性が高いことから、素体製作直前の段階で開発が中止された。そして、それから1年のブランクを経て、HMX-17シリーズの開発者である姫百合珊瑚が中学時代に試作した多重クラスタ制御理論を取り入れたカーネルを搭載するHMX-16型でようやく新規開発のゴーサインが出たのだ。
それから半年、ようやく試作筐体としてリオンがロールアウトし、更に半年の初期スクリーニングも終わり、プロトタイプとしての本格的な基礎評価が始まった矢先、さぁ、これから色々あるんだと意気込んでいたリオン本人にはまさに青天の霹靂だったのだ。
リオンはセリオの性能に加えて、多重クラスタを解決したカーネル上にマルチの感情制御システムを持たせた、いわば完成体とも言える。本来なら来栖川が社運をかけてもおかしくない傑作機なのだ。それは彼女自身も自覚していて、一般社会の中で活躍する姉たちと同じように、はやく自分の妹たちも活躍して欲しいと願っていた。そして、リオンの妹たちであるHM-16が成功すれば、旧型のHMシリーズはそれまでの資産を生かした形でHM-16レベルまでバージョン・アップする事が出来る改造プランの具現化への道も開ける。
そう言う形で、色々な苦労をしてきた姉たちに妹として恩返しが出来る。リオンにとってはそれが大きな夢であり、その礎になれる自分に誇りを持っていた。
長瀬のデスクの上に飾ってある写真の中のセーラー服を着たメイドロボ。リオンはそのメイドロボが、そのマルチであることは長瀬から聞かされて知っていた。彼女は長瀬が優しい表情で語るマルチの思い出話が好きだった。今の髪の色も、元々セリオと同じプラチナブロンドで、ロングヘアをポニーテールにしていたものを、わざわざ憧れの姉であるマルチに合わせて緑のショートカットに変えて貰ったくらいなのだ。
そして、その写真の中のマルチの後ろで優しい表情で写っている二人の人間、マルチを愛した藤田浩之と神岸あかりの二人にも、いずれは直に会って姉の話を聞き、彼女が何を悩み、何を知ったのかを教えて貰いたいと思っていた。
自分が成功すること。その延長線上には、そのHMX-12マルチや更にその姉であるHMX-11フィールが再起動出来る可能性もあるのだ。
リオンは自分の境遇よりも、その尊敬する姉たちに何もしてあげられない事の方がショックであり、悲しかった。
開発が一時凍結になったリオンは数日後から長瀬付きの秘書として来栖大学に勤務する事になった。来栖川エレクトロニクスの開発施設はミルファとシルファにかかりっきりになるため、実質試作筐体の検体として立場のリオンには居場所が無くなる。その気になればいままでやっていた庶務の仕事はあるのだが、人間とほぼ同じ感情を持つ彼女には辛いことには代わりはない。
長瀬は非常勤ではあるが来栖大学工学部の准教授で、来栖川エレクトロニクスと来栖大学の資本関係や配慮のおかげで、非常勤では普通はもてない個室の研究室を持っていた。
リオンはしばらくそこに詰めることになる。リオンはそれが長瀬の配慮であることに気づいてはいたが、心中は複雑だった。
そんな彼女にとって、唯一の救いは、敬愛し尊敬するマルチやフィールの近くに居ることが出来るようになること。二人は手狭な研究所ではなく、スペースに余裕のある来栖大学のどこかの一室で眠っているのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「な、なんなんですか、これは!」
勤務初日。長瀬の研究室に出勤したリオンは開口一番そう叫んだ。来栖川エレクトロニクスの制服ではない、真新しいスーツ姿の彼女はあきれ顔で腰に手をあて、挙げ句、ため息まで吐いた。
生粋の研究者である長瀬は、放っておくと何日も寝ないで研究に没頭するため、研究室自体が傍目には滅茶苦茶な状態だった。
魔窟という表現がぴったりだろう。恐らく論文集や専門書と思われる冊子がそこら中に山積みされ、机の上はハードコピーと思われる紙の山。書架もあるのだが、そこからは書類や書籍があふれ出している。
部屋の隅にある給湯用のキッチン....だったと思われる箇所にはインスタント食品や弁当の殻、いつからおいてあるかわからないゴミを入れたレジ袋や紙袋の山。床に至っては、ようやく人ひとりが通れるくらいのスペースしか見えていない。応接用のソファやテーブルもあるのだろうが、仮眠用のベッドと化したそれらしいものと汚れた毛布しか見えない。
リオンの最初の仕事はその研究室を整理し、まともな状態を取り戻させることだった。
「いや、恥ずかしい限りだが、掃除の余裕があると違うことを始めてしまってね」
草臥れたカッターシャツにゆるめたネクタイ、その上によれよれの白衣を羽織った長瀬は頭をボリボリ掻きながら、ばつの悪そうな照れ笑いを見せている。
たしかに、これを“使えるように”片づけるとなると、これだけに没頭しても一ヶ月かそこらは優にかかりかねない。もちろん、仕事はそれだけではない。当分余計なことを考えずに済みそうだ。
−あ、そうか....。
リオンは何故長瀬がこの仕事をリオンに任せようとしたのか、すぐに理解出来た。
「しばらく、余計なこと考えずに済みそうですね」
リオンがそう言いながら長瀬の表情を伺うと、そこには優しい表情をした父親の顔があった。釣られて彼女の表情もぱぁっと明るくなる。
「ありがとうございます。お父様」
長瀬は娘の吹っ切れた表情を見ると大きく頷いた。
「あー、もちろん、ここでの仕事で得たデータは、ちゃんと開発再開時に反映されるから、思う存分活躍してくれ。リオンの働きの評価が良ければ、開発再開が前倒しになるかも知れないしな。企業なんてのはそんなモンだよ」
ふたたび照れ隠しのように頭をかきながらそう言う長瀬に、リオンはクスクスと笑って見せた。
「はい、お父様。....じゃなくて、『長瀬准教授』でしたね、ここでは」
リオンはそう言うと、どこから始めようかと思案するようにもう一度部屋の中を見回した。たぶん彼女の頭の中では目から入る光学測量の2点と耳のセンサーカバーの中からの音波測量による2点を合わせた計測データを基にしたこの部屋の3次元モデルが出来ていて、長瀬と会話している領域とは異なるタスク・エリアで来栖大の建築施工図との差分分析を始めているはずだ。
「とりあえず、キッチン....のあったはずの場所の発掘と、かつて毛布と呼ばれたはずの大きなボロ雑巾の洗濯から始めた方が良さそうですね」
彼女はそう言いながら嬉々とした表情で腕まくりをし、動きやすいようにブラウスの首からスカーフタイを抜き、ぴっちりと掛けていた首元の一番上のボタンを外した。彼女のメイドロボとしての本能、ではなくて、メインタスクが疼くのだろう。
「おいおい、ボロ雑巾は無いだろう」
長瀬がそう言うと、リオンはペロりと舌を出して、ウインクをした。長瀬の目にはその姿に、掃除が大好きだったマルチの面影がダブって見えた。
「それにしても、なんでこんなに紙が多いんですか? 電子データなら場所も取らないのに」
自らが電子データのデータベースのようなリオンは不思議に思った。
「人間の情報入力インターフェイスはあくまで目と耳なんだ。文字情報は固定化された物の方がやはり都合が良いんだよ。会社の方はきちんと維持管理されているからあまり目立たないけどね」
リオンは「ふうん」というような表情で頷いた。
それから二ヶ月、リオンは長瀬の研究室の紙の山やゴミの山と文字通り格闘を続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「はうー、いったいいつになったら終わるのよぉ」
リオンは朝っぱらから疲れ切った表情でソファに腰を下ろした。実際にはメイドロボに身体的な疲労などは無いのだが、精神的にかなり滅入っていた。多分、普通の女性なら汗だくで疲労困憊といったところだろう。
季節は夏の盛りで、大学自体は夏休みに入っているのだが、最先端のサイバネティクス学科の研究室にはそんなものは無いのと同じだ。
メイドロボのリオン自身の体の人工皮膚は人間の発汗機能に似たナノチューブと水分を利用した廃熱冷却の熱交換機能を持ってはいるのだが、その処理が間に合わず、ボディがオーバーヒート気味なのもそれに拍車を掛けていた。
ブラウスこそ半袖だが、スーツのスカートはタイトなので、人間同様に下半身に熱が籠もる。スカートを脱いで、更に頭から水でも被って気化熱で自然の熱交換をしたいところなのだが、女性のパーソナリティがメインタスクの重要部分を占めるリオンにはさすがにそれはできなかった。
メイドロボの防水機能は完璧なので、ずぶ濡れでも平気なのだが、ブラウスがスケスケになってしまうし、スカートを脱いでしまったらパンストから下着が見えてしまう。女性の形をしたボディはあくまで外装に過ぎず、見られても減るものではないし、ましてや自分は機械だから恥ずかしいと思うのはちょっと変だという自覚はあるのだが、彼女の感情制御タスクのおかげで人間並みの恥じらいが最優先されてしまう。
とは言え、魔窟だった長瀬の研究室はどうにか人が住める程度の環境を取り戻していた。キッチンの発掘は二週間目にして無事成功し、今はちゃんとお茶が出せるようになっていたし、リオンが座っているソファも一週間前に使えるようになっていた。もちろん、長瀬が仮眠に使う長いすの方のソファには新しい毛布がきちんと洗濯されて畳んだ状態で置いてある。以前は座布団を折っていた枕も、リオンが来栖川エレクトロニクスの仮眠室の備品から拝借してきたテンピュールに変わっていた。一応、資材部門には許可を得ているが、経理部門は知らないかもしれない。
−まぁ、資産物件じゃないから大丈夫でしょう。
リオンはそれを持ってきた来た時、頭の中で自分に対してそう言い訳をしていた。
部屋を占拠していた書類や冊子、書籍の山は重複した物や更新されていて陳腐化していた物が多く、それを処分しただけなのだが、それだけでもかなりの量だったのだ。
実のところ、残った物のインデックス付けもすでに終わっていて、リオン自身は何が何処にあるのかはしっかり把握している。下手に手を出すとそのインデックス付けがメチャメチャになるので、今は長瀬でも欲しい物がある場合はリオンにお伺いを立てて出して貰わなければならない状態だった。
とはいえ、いつまでもこのままにして置くわけにはいかないので、今日からは新たに借りた書庫へ古い物から移動させる作業を始めることになっていた。准教授室に置いてある物が今の一割くらいになれば、長瀬が普通に使ってもリオンが変化を把握出来るレベルに落ち着く筈だった。
書庫自体は同じ建物にあるのだが、半地下のためかなり階が違うし、台車を使うにしても、エレベータを介することになるので、かなりの時間ロスになる。いかに人間の3倍の力があるHM-16型ボディのメイドロボとは言え、歩いて運ぶのには体積の限界がある。物は無限に有るわけではないのでいつかは終わるのだが、他の仕事も不定期に入るため、その時期がさすがのリオンにも読めなかった。
−えーっと、ここよね。
リオンはドアの横に貼り付けられている部屋番号を確認した。
−それにしても、さすがに書庫に使うような場所だわ。予想通りの殺風景な場所ね。
準備作業として書庫の掃除の算段と持ち込む書架の台数を見積もるために、指定された部屋を探しに来たリオンは、その書庫のある廊下の突き当たりに形の違う扉が有ることに気づいた。
昼間なので、廊下の上の方にある採光用の窓からは−外から見ると地面ギリギリの上に日陰に位置するのにもかかわらず−充分に光が入るためかなり明るいうえに、壁も暖色系の淡いクリーム色なので、殺風景でもあるが異様な清潔感とある種の寂しさに包まれている。突き当たりの隅に置いてある常備の消火器が異様に目立つほどだ。
その扉は、あてがわれた部屋のようなドアノブのあるものではなく、明らかに両開きの自動ドアのようだった。
リオンは後ろ髪を引かれる気分で、無理矢理そのドアから注意を逸らすと、目的の部屋のドアの鍵を開けて内開きのドアを押した。
−あ、割と綺麗。さすがに使われてないから埃が溜まってるけど、これならお掃除もそんなにかからないかな。
彼女はとりあえず、書庫にあてがわれた部屋の中を確認して作業見積もりを考え始めた。以前は別の目的に使われていたらしく、埃の溜まり方が違う場所があり、かつて置かれていた物の形と、運び出す際に付けられた足跡がわかるくらいだった。
普通、こういう空き部屋は物置と化してるのが一般的だが、どういうわけか、この半地下のエリアは部屋数がそこそこあるのに、ほとんど使われていない。
−うーん、スチール製の組み立て式の書架で充分かなぁ。お父様が不自由なく動き回れる間隔を取らないとダメだから....。
リオンはそんなことを考えながら、クリップボードのメモ用紙に簡単な配置図などを書き込んでいく。さすがに、人間の手書きとは違い、プロッターで作図したようなかっちりとした図面になっている。もっとも、その気になれば手書きそのもののメモも可能だ。
彼女のメモリー容量と頭脳の処理能力であればこんな事をしなくても充分に画像情報にオーバーラップした設計図を生成し、電子情報として保持して通信回線を使ってハードコピーを出力できるが、あとから検索することを考えると、ハードコピーとほぼ同じメモの方が遙かにアクセシビリティが良いので、彼女は人間同様のメモを多用していた。
−こんなものかな。とりあえず、戻って資材の発注をしないと。こんなことならわたしのサテライト・ネットワークに資材の発注システムも繋いでもらうんだったわ。
リオンはそんなことを考えながら一端その部屋から出たが、どうしてもその部屋の前の廊下の突き当たりにあるドアが気になりだし、今度はその誘惑に負けて近寄っていった。そのあたりがマルチの妹なのだろう。彼女は自己学習のための好奇心が非常に旺盛だった。
廊下は突き当たりでL字に曲がり、その先は非常口だった。書庫にあてがわれた部屋は空き部屋だったので空調が入っておらず、かなり高い位置にある明かり取りの窓から差し込む日光でかなり気温が上昇していて、普通の人間なら熱中症になりそうな状態だった。だが、そのドアの部屋の周囲は無人にも関わらず空調がはいっていて、この夏の盛りというのにひんやりとした空気に包まれていた。ここは明らかに区画が別という印象が伝わってくる。
特に隠蔽されているという印象は無いが、明らかに他の部屋とは異なるドアノブがない自動ドア。入り口の左右には何かパターンを読むらしいパッドがあり、資格がないと入れない仕様なのが一目でわかる。
更にリオンは壁や床のタイルの色の微妙な違いから、この区画が明らかにあとから建て増しか改装の工事がされていることに気づいていた。
普通ならそこで諦めて帰るところだが、直系の姉であるマルチ同様に好奇心が旺盛なリオンは、恐る恐るだが更にその扉に近寄った。やがて、手を伸ばせばドアに触れそうな距離まで近寄った時、それまで赤く灯っていたタッチパッドのような場所のインジケータが緑に変わった。そして、「カチッ」というロックが外れる小さな音がしたあと、軽いモーター音とともにドアが左右にスライドして滑るように開いた。その部屋は窓がないらしく、中は真っ暗だった。
「ヒッ!」
驚いたリオンは、言葉にならない情けない悲鳴じみた声をだして、二歩ほど後ずさりした。それを感知したかのように、室内の照明が点る。
ドアが開いた先は、リオンが掃除をしようとしていた部屋の倍ほどの広さがあることが外からでもわかった。そして、その中には二つの平べったい直方体形状の大きなカプセルが置かれていた。
リオンはなにかに突き動かされるような衝動を感じた。そして、その二つのカプセルに吸い寄せられるように部屋の中に入ろうとした。その時、彼女の背後から声がした。
「おい、そこのメイドロボの君、大丈夫か? それより、誰だ君は? なんでこんなところに?」
びっくりしたリオンは飛び上がりながら、後ろに向き直り、そのままペタンと腰が抜けたように床に座り込んでしまった。そこにはどことなく見覚えのある男性の青年が立っていた。
「どうしたの、浩之」
そして、その男性の後ろから聞き覚えのある声がし、見知った顔がひょいと現れた。
「あら、リオンじゃない」
「あ、綾香....様?」
どこかで見た気がする青年のすぐ後ろに立っていた女性は、来栖川グループの創業者一族の令嬢、来栖川綾香だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
第2章 >>
作者註:リオンのヴォイス・イメージは、以前は中原麻衣さんあたりを想定していましたが、最近は名塚佳織さんあたりが良いなぁ、と思ってます。あ、「キャンバス2」のエリスじゃなくて、「True Tears」の比呂美の方ね。「夏のあらし!」のカヤでも可。