リオン Release 2.0
Chapter 2:HMX-12 Multi
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「リオン....」
ダークブルーのキャミソールの上から淡い色の男物の半袖カッターシャツを着て、ボタンを止めずにおへその上で結んだだけのうえに白のパンツスタイルという、とても大企業の経営者の令嬢とは思えないラフな服装の綾香は、頭痛がするというジェスチャーを見せながらリオンの名前を呼ぶと、更に続けた。
「その“様”はやめてって、何度言ったらわかてくれるのよ? あなたはわたしの家臣でも奴隷でも専属メイドでもないんだから。来栖川グループは株式会社組織なんだから、公器なの。いくら私が創業者一族の出だからって、会社もあなた達も、わたしの私物じゃないのよ。せめて、『さん』。あなたの背格好なら呼び捨てでもかまわないくらいなのに。あなた、セリオより遙かに融通効くはずでしょう?」
始終セリオと共に行動している綾香の唯一の不満が、長年の友人であるセリオがいまだに自分を呼び捨てで呼んでくれないことだった。彼女はソフトウェアの制限でそれが難しいのは百も承知なのではあるのだが。
それを聞いた浩之は今にも吹き出しそうな表情でこう言った。
「リオン? ああ、そうか。君が」
綾香からその名前を聞いた青年は、彼女が誰なのかすぐに気づいたようだった。
「は、はい。そうです。わたしはHM-16型の試作機、HMX-16型リオンです。それより、綾香....さん、どうしてここに? それとこの方は?」
腰が抜けたように座ったままのリオンはそう言い返すのが精一杯だった。
「どうしてって、わたしも一応この来栖大の学生だし、この建物はわたしの専攻学部棟なんだから、居たって不思議じゃないじゃない。それと、彼は....あ、リオンは初めてだったのね。名前を聞けばすぐわかると思うわ。セリオからも聞いていると思うけど、彼が藤田浩之よ」
綾香はリオンに近寄って、手を差し伸べながらそう言った。
藤田浩之。確かにリオンはその顔に見覚えがある筈だ。写真の中の学生服の姿より若干顔つきが変わっているのと、白いプリントTシャツにジーンズというラフな服装のために、情報がすぐには一致しなかったのだ。
彼女の直系の姉、HMX-12型マルチは彼に恋をして、そのために多重クラスタを処理できない心の欠陥がわかった。そのおかげでHMシリーズのアーキテクチャが見直され、その欠陥を克服したリオンが生まれた。リオンは、長瀬や試作筐体では唯一稼働している姉であるセリオからマルチの悲恋のエピソードを聞いていて、その相手であった浩之に大きな興味を抱き、以前から会いたいと考えていた。
マルチは失恋して心を壊したのだが、不思議と元凶であった筈の浩之を悪く思ってはいなかった。彼のおかげでHMシリーズのアーキテクチャの欠陥が判明し、拠りよい進化を遂げた自分が生まれた事を知っていたし、浩之がいつかかならずマルチを目覚めさせるために頑張っていることをセリオからしつこいくらいに聞かされていたからだ。
ある意味、セリオもマルチとは違った意味で浩之を愛しているように思えたし、話の中でしか知らない浩之に恩人としてのあこがれのような感情さえ持っていた。
「それと、この部屋に来た理由だけど。あなたのお姉さん達に会いに来たのよ」
綾香は彼女の意図を察して差し出したリオンの手を取ると、立ち上がるのを手助けするようにぐいっと引っ張った。
「え?」
リオンは綾香に引っ張られながら立ち上がったが、そう返答するのがやっとだった。
彼女はその言葉に驚き、綾香の手を離すともう一度部屋の中に向き直った。リオンはフィールとマルチが来栖大学のどこかで眠っていることは知っていた。それが開発凍結になり来栖大学に派遣された彼女の、心の支えにもなっていた。そして、機会があればその場所を探して今自分が置かれている恥ずべき立場を詫びようと思っていたのだ。
ハードウェアが追いつかず一度も目覚めることが無かった故藍原瑞穂の愛娘HMX-11フィール、そして人を愛することを知り、その愛のために心を壊して自ら眠ることを望んだHMX-12マルチ。リオンにとって大切な姉たち。特にマルチはリオンが超えなければならない目標でもあった。それがいま、目の前に突然姿を現したのだ。
「右がマルチで、左がフィールよ」
綾香はそう言いながら、あまりに予想外の情報のため判断処理が追いつかず呆然としているリオンの横を通って部屋の中に入った。そして、部屋の中程に並ぶのふたつのカプセルの間を通りながら、マルチとフィールを交互に見つめて、笑顔を見せると、そのまま更に奥にある制御卓のような装置群に近寄ると、椅子に座ってモニター類の電源を入れ始めた。
「君も会うのは初めてだろう? 今の君の立派な姿を見せてあげると良い。二人ともきっと喜ぶよ」
浩之はそう言いながら、呆然としているリオンの肩をとんと押した。リオンは人間で言うと放心したような状態で、ふらふらと歩き、マルチのカプセルの前で再びぺたんと床に座り込んでしまった。
SF映画やマンガに登場する冷凍睡眠装置のような透明なカバーのかかったカプセルの中には、自分と同じ緑色の髪をした小柄な少女が横たわっていた。そして、左手にある同じ形のカプセルの中には自分と同じくらいの背格好の黒髪の少女が横たわっている。起動出来なかった黒髪の少女、フィールは無表情だったが、自らの運命を自分で選んだ緑の髪の少女、マルチは満足げな微笑みを浮かべて眠っている。
「マルチ姉様、フィール姉様」
マルチのカプセルにもたれ掛かるように座り込んでしまったリオンはボロボロと涙を流して泣き始めた。
「ごめんなさい、お姉様。わたしは、わたしは....。お二人の夢を潰えさせてしまいました」
そう言いながら肩を振るわせて泣くリオンを、鳴き声に気づいて振り向いた綾香と、リオンを押し出したあと綾香の隣の椅子に座ろうとしていた浩之の二人は、わけがわからないという表情で見つめた。
「夢を潰えさせたって、どういう事なの?」
さめざめと泣き続けるリオンに向かって、コンソールの椅子に座っている綾香がそう聞いた。
「HM-16の開発が凍結されてしまって。わたしの開発資源は別の後継モデルに充てられるんです。瑞穂さんが開発した心のアーキテクチャを継承するメイドロボは、この先もう開発されないんです」
それでも、綾香はわけがわからないという表情を見せている。
「凍結って、中止じゃないのよ?」
綾香は立ち上がりながらそう言った。
「でも、事実上、わたしは....」
綾香はそういうリオンに“困ったな”という表情を見せた。
「いくらリオンには内緒だと言っても、長瀬さんにしてはやりすぎよ、これは」
そう言いながら、マルチのカプセルの横にあった椅子に座り直した綾香に浩之も「そうだな」と同意した。
浩之は綾香が座っていた隣の椅子に座り、綾香とリオンの会話の間は画面表示を見ながらキーボードとマウスを操作していたが、いまはリオンの方に向き直っていた。
背後の画面にはマルチのシルエットを表すグラフィックと、リアルタイム測定データのような様々な数値の羅列が表示されている。
「え?」
リオンはわけがわからないという表情の二人を交互に見つめた。
綾香は椅子に座ったまま足と腕を組むとこう続けた。
「リオン? あなたの開発は本当は凍結されていないのよ。確かに予算は珊瑚の娘達に大半が割かれたので、表向きのペースはガクンと落ちてるけどね。でも、いまの貴方の仕事だって、実際は重要なフィールド・テストなのよ? それにイルファたちのダイナミック・インテリジェンス・アーキテクチャだって、元を正せば....」
綾香はそう言いかけ、ちょっと言いよどんだ。そのあとを引き継ぐように、浩之が割り込んで続けた。
「まぁ、姫百合珊瑚が持ち込んだ3体のうちの最後の1体がトラブルを起こして、かかりっきりになってるのは事実だけどな。
彼女たちは便宜上はHMX-17型試作機となっているが、彼女たちをベースにHM-17型が量産されることは無いんだよ。と、いうか現状では技術的な壁があって出来ない事は知ってるよな。君なら充分理解できると思うが、彼女たちはビヘイビア・ベースのアーキテクチャのおかげでかなり長時間の教育が必要となる。これは量産機としては致命的な欠陥なんだ。3体目のシルファのトラブルもそれが原因らしい。
まぁ、いずれはモデル・ベースの量産機用基盤の上にDIAをレトロフィットした形の融合モデルが開発されるのは間違いないと思うけど、多分それは数世代先、HM-21か22の頃の話になるよ。
ただ、彼女たちのトラブルの原因を解決できれば、それも既存の筐体や市場に出回っている量産型のバージョンアップに生かすことが出来るだろう? だから、目先のトラブル対策を優先しているんだよ」
浩之はそう言いながら、モニタ装置類のチェックの為の操作を再開した。浩之はその作業をしながら続けた。
リオンは浩之の言った内容を、事象としては理解したが、自分の今の境遇とどう繋がるのか、まだ判断が付かないでいた。
「ただ、一時的にせよ君の開発が予算的に制限されるのは事実なので、それを逆手に取ったユニークなフィールド・テストを君に内緒でしようと云うことになったんだ」
半ば混乱しかけていたリオンだったが、さすがにガイアシミュレータ並の演算能力を持つ彼女はそこまで聞いてなんとなくスジが読めてきた。
「ということは、ひょっとすると絶望的な状況下に置かれた場合、わたしがどういう行動を取るかを試した、という」
「そ、ほとんどそのとおりよ」
今度は綾香がそう言った。
「長瀬さんの研究室の整理は別のフィールド・テストも兼ねているんだけどね。でも、最優先は置かれたネガティブな境遇をどう判断し解決して、どうやってポジティブな方向へ持って行いくか、ね。実際に市販された場合には重要な事なのよ。
特にリオンのように感情が豊かなシステムだと、モデル・ベースの思考とは言っても、その感情の起伏によって多重クラスタのコンフリクトを起こして人間の鬱のような状態に成ることだってあり得るんだから。
それで壊れてしまっては元も子もないでしょう? マルチやセリオの頃はそこまで心配する必要は無かったんだけど、それだけリオンの思考システムが高度だと言うことなのよ。
実際、セリオやマルチの量産型も市場で経験を長く積んだ個体に多重クラスタ絡みのトラブルがたまに起こって、リセットするために研究所に持ち込まれることもあるんだから。あなたがそれを難なく乗り越えれば、それを彼女たちにフィードバックできるでしょう? それに、あなたは今日まで立派に乗り越えてネガティブな境遇を克服してきたわけだし。
ここに来た時、長瀬さんから『フィールド・テストだ』って言われなかった?」
リオンは微妙な表情で綾香の話を聴いている。人間で言うなら引きつった表情とも言える。
「はい、確かに記憶にはありますが、あれはてっきりわたしを慰めるための言い逃れだと思ってました」
リオンは若干怒りが籠もったような口調でそう言った。
話はそこから浩之が継いだ。
「そう言う状況下でどういう気転を効かせるか。君のような高度な感情システムを持つメイドロボだからこそ、必要なテストなんだよ。より強い心を創るためのね。
でも、君は文字通りの意味で取らずに、誤解していたわけだ。長瀬さんにはとっては面白い結果だろうなぁ」
浩之はそこでため息を吐いた。
「それにしても、綾香じゃないが、長瀬さんももう少しやり方もあったと思うなぁ、正直に言って。リオンが勘違いしているのをほったらかしにしていたようだし」
浩之がそこまで言ったところで、自動ドアの電源を切って開けっぱなしにしていた部屋の外から声が聞こえた。綾香と浩之は声の方向に視線を移し、リオンはびっくりして振り向いた。
「やれやれ、ばれてしまったか」
声の主は長瀬で、横には来栖川芹香と、やはりどこかで見た覚えがある女性が立っていた。
「あら、あかり、それに姉さん、どうしたの? 珍しいじゃない」
と綾香。リオンはその一言で、その女性がマルチのライヴァルで姉のような存在だった神岸あかりだと理解した。
「もう少しわたしの部屋の整理を続けて欲しかったんだが、ばれてしまっては、これで終わりだな。リオン、ご苦労さん。おかげで、良い結果が得られたよ。堂々と胸を張って研究所に帰れるぞ。まぁ、言いたいことは山ほどあるだろうが、苦情は後で聞くよ。それよりも、マルチの定期診断の方が先だ」
長瀬はそう言うと、浩之が立ち上げた端末に近寄った。
「わたしも久しぶりにマルチちゃんに会いたくなって」
あかりが綾香にそう応えると、芹香もコクコクと頷いた。二人とも同じ目的のようだった。それを受けて長瀬が振り向いてこう言った。
「最初は芹香さんがたまには会いに行きたいとわたしの所に来てね。で、ここまで案内する途中で神岸さんに会ったというわけなんだ」
あかりは、長瀬がそう言っている間にマルチのカプセルに近寄り、座り込んだままのリオンの横に立つと、優しい表情で中のマルチを見つめた。だが、その目尻には涙が溜まっている。
「わたしがここに来るのは3回目だけど、マルチちゃん、いつ見ても幸せそうな寝顔よね。早く起こしてあげないと。ね、浩之ちゃん」
あかりはマルチから浩之に向き直るとそう言った。
「ああ、そうだな。マルチは大切な妹分だから」
優しい表情で視線を交わす二人。リオンは二人がお互いと同様にいまもマルチも深く愛していることがわかった。リオンは胸に熱い物がこみ上げてくるような不思議な感覚を味わっていた。言葉を交わしたこともない、初めて会う姉達に愛を注ぐ人間たち。彼女はずっと心の片隅でくすぶっていた割り切れない気持ちが嘘のように消えていくのを感じていた。
「ハードウェアには異常はないな。メモリのチェックサムも正常。バックアップ・コピーとの差も無し、と....」
長瀬は、ログ・ファイルが記録されるのを確認すると「おやすみ、マルチ。また来月」と言って、端末を落とした。
「皆さん、これを毎月....」
リオンはそう呟いた。それが聞こえたのか、綾香が優しい笑顔でコクンと頷いた。
「いつもはセリオも一緒なんだけど、きょうは彼女も定期メンテなの。いつも真っ先に来て、最後に帰るのよ、あの子。最初の頃は凄く辛そうだったけど、最近は変わりないお姉さんを確認するのが楽しみになっているみたいだったわ。あ、そうそう、彼女、貴女の事もとても心配していたわよ」と、綾香。
「ひょっとすると、この部屋のドアロックが何もしないで外れたのは、それとなにか関係が?」
リオンはこの部屋の前で最初に起こった事を思い出して質問した。
「この部屋のロックは元々あなたのパーソナル・コードでも開くようにしてあるのよ。セリオがそうさせたの」
その時、もう一人の人影が部屋に入ってきて、こう言った。
「いずれ、こういう日が来ると信じてましたから」
学生というよりは事務員のような白いブラウスに濃紺のタイト・スカートの声の主は、HMX-13セリオだった。
「セリオ姉さん」
リオンはそう言いながら、目尻に残っていた涙を拭うと立ち上がった。
−セリオ、凄く嬉しそう....。
綾香はセリオの様子を見てびっくりしていた。表情の乏しいセリオにとっては満面の笑顔とも言える微笑みを浮かべている。こんなセリオはずっと一緒に生活している綾香でもめったに見たことは無かった。
「リオン、よく頑張りましたね。素晴らしい成果です」
そう言いながらリオンに近寄ったセリオは、彼女を抱き寄せるとかつて浩之がマルチや自分にしたように、優しく髪を撫でた。
セリオはリオンより少し背が低く顔も若干幼い設定なので、傍目には若干奇妙な光景だったが、彼女は間違いなくリオンの姉としての自信に満ちた行動を取っていた。
「貴女はわたしの自慢の妹です」
そして、セリオはリオンを抱きしめながらマルチとフィールのカプセルに向かってこう続けた。
「フィール姉さん、マルチ姉さん。あなた達の遺した物はこの子が立派に受け継いでいます。わたしは、いずれ姉さんたちもこの子で立証された成果で、帰ってきてくれると信じてます。
帰ってきたら、その時は、この子を褒めてやってくださいね」
リオンを検体としたHM-16シリーズの開発はこの大きな成果を礎にして本格的な再開に向かって動き出した。だが、当のリオン本人が来栖川エレクトロニクスのHM開発課に戻ったのはそれから1ヶ月後だった。
彼女は「一度やりかけた仕事なので最後までやり遂げます」と言って聞かず、その後も長瀬の研究室と1ヶ月間奮闘したのだ。
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