第二章 個々の読解の在り方を吟味する
(1―1)
A big Martin Marina rescue plane, containing a crew of 13 men, quickly took off.
〈マーティン・マリーナ号という大型救援機は、乗員十三名を乗せて、すぐに飛び立った。〉

第2節 【読解  その2】について

【(1―1) の―ing句の読解  その2】
「《分詞構文》である。非制限的関係詞節で書き換えても意味内容の違いは感じられず、関係詞節で書き換えられる。」

   《分詞構文》であるという判断の出自は、前節の場合と同じく,分詞句をめぐり連綿と保たれてきた一般的了解(即ち通説)である。ここでは「非制限的関係詞節で書き換えても意味内容の違いは感じられず、関係詞節で書き換えられる」という判断の後半部(下線部)の出自を検討してみる。

   「関係詞節で書き換えられる」という判断は、多分に、英文を読むという実践的経験の積み重ねに導かれたものと考えられる。というのも、《分詞構文》を非制限的関係詞節で書き換えて説明している日本の学習用文法書は、私の知る限り見当たらないのである[2−4]。《分詞構文》は非制限的関係詞節で書き換えられることもあるという見解は、日本の学校英文法の世界では公式のものではないようである。

   とはいえ、関係詞節で書き換えた場合、文体、つまり文の視覚的印象や雰囲気は微妙に変わることになる。しかし、意味内容の違いは感じられず、実際、文例(1−1)に見られるような、「主辞の直後に位置し、カンマを伴う分詞句」の多くが、非制限的関係詞節にほぼ等しい意味内容であることは普段に体験できるのである。非制限的関係詞節(形容詞要素)で書き換えられるという判断の妥当性は、英文を読むという過程で体験できる感覚によって裏打ちされているように思われるのである。

   【読解その2】は、恐らく《正統性》を幾分か逸脱し、その結果、《分詞構文》という了解の整合性を微妙に揺るがせているように見えるが、ここで発揮されている柔軟性は英文を大過なく読みこなす上で長所である。「読む」という水準から評定すれば、英語の知識は適切に運用されているといっていい。実践的観点からは格別の難点があるようには思えない読解である。この読解が【読解その1】の立場からは、どの程度《逸脱》であると、あるいはどの程度《正統》であると評価されるのか、などは瑣末な点と言えよう。

   形容詞要素(関係詞節)で置き換えられると考えるなら、「形容詞要素である」という判断にまでなぜ踏み込まないのか、という素朴な疑問も湧くが、経験的知見に支えられた柔軟性を備えた実践的読解であり、「カンマを伴う分詞句」の《正統的》読解の一つに数えてもいいかもしれない。

   この読解にとって課題となりそうな点を指摘しておく。実際に関係詞節で書き換えた場合,その瞬間に(あるいはしばらく経ってから)、厄介な問題が視覚に映じていることに気づくかどうかは、「カンマ」の役割に普段からどの程度自覚的であるかにかかっている。第一章第3節(「カンマの有無を契機とする『制限的修飾』と『非制限的修飾』」)で述べたように,英文読解の根幹を構成する要素の一つであるにもかかわらず、カンマの有無を契機とする「制限的修飾」と「非制限修飾」の区別は、教室で十分な時間を割いて説かれているとは到底思えない。カンマをめぐるこうした現状から推測できるのは、「カンマ」の役割に普段から自覚的であり、教室で十分な時間を割いてそれについて説明している教師は極めて少数であろうということである([1−49]参照)。

   「カンマを伴う分詞句」に代わり得る「カンマを伴う関係詞節」のカンマが「有意味」であるとすれば(実際に「有意味」である)、「カンマを伴う分詞句」のカンマが「無意味」であるとは考えにくい(実際に「無意味」ではない[2−5])。これは窮境と言ってもいい。しかし、「無意味」であるとは考えにくいカンマは、恐らく、言及されることのないカンマであるか、《分詞構文》に伴う自明のカンマでしかないと片付けられることになるだろう。この窮境にまで足を踏み入れ、その困難な立場を体感する教師は極めて少数だろう。   


【付言】

   【読解その2】の場合に限らず、他の読解の場合にも見受けられることであるが、「《分詞構文》である」という判断はそのままに,「《分詞構文》を関係詞節に限らず副詞節に書き換えることもしない」という姿勢が伴うことがある。《分詞構文》はそこに備わるある種の「曖昧さ」が真骨頂[2−6]であって、これを節に書き換えて理解したり説明したりするという手法は固陋な悪弊であると感じている教師は少数ではない。節への書き換えによって《分詞構文》の特質である「せっかくの曖昧さ」が失われ、母節との関係を考えた場合、その関係に特定の在り方への凝固を強いることになると感じられるのである。それゆえ、《分詞構文》を「節」に書き換えることをあえて避ける教師もいる。

   とこう、「《分詞構文》を節に書き換えることをあえて避ける」という姿勢に潜むと思われる経験的知見の在り方について一応述べては見たが、この姿勢についてこれで十分具体的に記述することができたという気は全くしていない。むしろ、こうした姿勢はそもそも具体的な記述が可能な対象なのだろうかという気がする。

   こうした姿勢がまず依拠しているのは《分詞構文》という了解である。「《分詞構文》と母節との間に成立しているとされる関係については、そこに多様な在り方(論理的関係)を解読可能であり、その在り方は「時系列関係」「因果関係」「状況的関係」など多岐に渡る」(第一章第2節)というある種の「曖昧さ」の感覚は、《分詞構文》という了解に基づいているのである。

   とは言え、副詞節への書き換え例を示している文法書(日本のものに限らない)が多いことを考えると、「節に書き換えることをあえて避ける」という姿勢は経験的知見に支えられているものであろうとしか言えそうもない。《分詞構文》の世界に身を置いて様々な英文に目を通せば、多様な「曖昧さ」を実感することは容易である。英文の内容を読み取る上で特段の困難を経験することはない場合でも、書き換えなどは到底不可能であり不適切であるように思えることがあるし、《分詞構文》における「分詞の暗黙の主辞」に関する原則――分詞の暗黙の主辞は母節の主辞である([1−9]参照)――を棚上げにせねばならないほど柔軟な対処を迫られることさえある。

   「書き換えはしない」という姿勢は、基本的には「《分詞構文》という了解」に依拠してはいるのだが、そうした基底的了解と英文を読むという実践的経験とがあいまって、読み手に備わるに至った態度、いわば個人的趣向に類するものであろうと推測する方がむしろ妥当であるように思う。《分詞構文》が語られる際に時に目にする類の記述(《分詞構文》は適当にファジーに読む)[2−7]に通じるのがこの姿勢である。(「読む」という視点だけが《分詞構文》に接近する方法ではないことは後述する。)

   その一方で、「書き換えはしない」という姿勢は《分詞構文》の「曖昧さ」とは何かを考えさせてくれる契機ともなる示唆的な姿勢である。そもそも《分詞構文》は「曖昧」なのだろうか、どんな点[2−8]がどれくらい、またどのように「曖昧」なのだろうか、という疑問を喚起してくれる。実際に体験できる種々の《分詞構文》の多彩な「曖昧さ」の反省的分析は既に十分に行われているとは到底思えないから、《分詞構文》という了解のもとで英文を読んだ場合に、次のような問いを喚起されることになっても不思議はないのである。意味内容の水準で母節との関係の在り方を解読し終えて初めて《分詞構文の意味》は把握できる[2−9]、という見解はどの程度、またどんな理由で妥当なのか、あるいはそもそも妥当ではないのか。

  

(第二章 第2節 了)


目次頁に戻る / 表紙頁に戻る
 
© Nojima Akira