コメント最後の作品名は、その人物が登場する作品です。実在の人物ですので基本的に随筆からとっていますが、小説でも本名で使われている場合は載せています。名字だけだったり愛称や記号の場合もあります。

                          

 
[さ]  [し]  [す]  [せ]  [そ]  目次

サイデンステッカー教授
68年9月の日本文学公開討論会の講師。『日本文学は海外でどのように読まれているか』
斉藤
51年渡欧の際に会ったの友人の画家。『パリで会った日本人』
斎藤
友人である大昭和製紙社長。『風に鳴る碑』
斎藤茂吉
歌人。『ブルジョア』を日本語で書かれたフランス語だと誉めてくれた。『シャルドンヌによせて』
佐伯彰一
作家。68年9月の日本文学公開討論会の司会。『日本文学は海外でどのように読まれているか』
佐伯祐正
浄土真宗の住職。留学の白山丸で同船した。自信過剰で、船上では和製ドン・キホーテと呼ばれた。マルセーユに迎えに来ていた弟の祐三を紹介した。『パリで会った天才画家』『これも純粋ですか』
佐伯祐三
右岸のデュ・シャトー町13番地に住んだ画家。米子夫人と弥智子という娘があった。サロン・ドートンヌで「靴屋」を見て感動し友好を深めた。マルセーユで世話になったお礼にイボンヌ・プランタンの「モザール(モーツァルト)の一生」に招待した。帰国時に借金を頼まれたが、代わりに絵(ガード下の風景、セーヌ対岸のパッシーの屋並の暁の風景)を買った。後に「壁」も贈られている。『巴里便り』『パリで会った天才画家』『これも純粋ですか』
酒井
書斎に通っていた戦死した学徒兵。『鳩と凧』
佐垣
徳田秋声の友人。『徳田秋声氏訪問』
坂田
農商務省農政課技手。農学士。後に佐藤内閣の農林大臣。『わが青春』『役所時代のこと』
笹本
新聞社の特派員。51年の渡欧の際に空港に迎えに来た一人。『パリで会った日本人』
貞奴
日本の女優第1号。福沢桃介の愛人。芹沢氏は藍川氏の関係で会った。『レマン湖のほとり』
佐藤社長
新潮社社長。「人間の運命」の発行が決まった際、最後まで出版することを引き受けたが、6巻が出る前に急死した。『前章で終わらなかった』
佐野繁次郎
画家。51年の渡欧先で、浅田夫人に紹介したところ二人は顔見知りだった。『パリ祭』『パリで死んだ二人の女主人公』
三吉(平作)叔父
芹沢氏の三人の叔父のひとりで、実父が家を捨てた後、祖父母の面倒をみるために同居した。三男で三吉だが、家が没落して平作と名を変えた。氏を漁師にするために海に連れだしたが、船の上から富士にかかる雲の具合で天候を占うことを教えた。妻はお千賀『自己を語る』『私の小説勉強』『巴里便り』『リンゴとビスケット』『ある質問に』『次郎の厄介になった叔父夫婦 』『わが青春』『神の慈愛』

 
[さ]  [し]  [す]  [せ]  [そ]  目次

椎名其二
留学中に知り合ったが、51年の渡欧で再会した。佐伯祐三が結核であることを教えて、芹沢氏を病室に伴った。『これも純粋ですか』
J・ミネカイヅカ
本名は田中。芹沢氏がロベール・ラフォン社に紹介してフランスで小説を発表した。『外国語で小説が書けるか』『それでも母国語で書くべきではなかろうか』『創作は疲れるものだ』
ジェラアル・ド・ネルヴァル
フランスの作家。デコブラから24種類の主題を書き分けていると言われた。『作家の秘密』
志賀直哉
作家。『人物と名前と創作』
重藤院長
原爆の治療に励んだ日赤病院院長。『死の影を見つめて-広島の記』
静郎
芹沢氏の親類。氏が小学校に入学した年、キリスト教の洗礼を受けてアメリカへと移住した。そこで成功して家族を呼んだために、貧乏な我入道ではアメリカに渡れば幸せになれるという気運が高まった。それを東京の人が斡旋して連れて行かれたのはブラジルだったが。『アメリカと信じてブラジルへ移住した村の人々』
四斗樽小母さん
オートヴィルの高原療養所での芹沢氏の担当看護婦。四斗樽小母さんとは、氏が付けた渾名だが、それを喜ぶような気のいい50歳の看護婦だった。『童女』
篠田一士
評論家。68年9月の日本文学公開討論会の講師。『日本文学は海外でどのように読まれているか』
C伯爵夫人
芹沢氏の読者。67年晩春、やはり読者のラコンブの紹介で東京の自宅を訪れた。病身でお互い神に選ばれた同胞であると言ったが、氏も彼女を天使のように思った。それからは度々手紙をくれた。74年の渡欧の際、コモ湖畔の別荘に夫人を訪ねたが留守だった。『C伯爵夫人はどうしているか』
柴田徳衛
『人間の運命』構想中、明治から昭和までの詳細な年表を作成してくれた。『前章で終わらなかった』
島木健作
荒木巍に紹介された作家。文学史に残るような仕事をしてくださいと言った。『現代日本文学』『巴里便り』『わが書斎の珈琲はうまかった』
島崎藤村
日本ペンクラブ初代会長。芹沢氏に会計になるよう求めた。『作家の秘密』『徳田秋声氏訪問』『人物と名前と創作』『人間の寿命』『レマン湖のほとり』『作家は書けなければ死に等しい』『或る女流歌人への手紙』
シミアン博士
ソルボンヌ大学大学院教授。芹沢氏は初めての留学でこの師に貨幣論を学んだ。『伯父さんの書斎で見たジード』『自己を語る』『選挙雑感』『春宵独語』『私の小説勉強』『早春に遠き人を想う』『円相場』『私の読書遍歴』『レマン湖のほとり』『わが青春』『九十歳の充実』『神の微笑』『神の慈愛』『物言わぬ神の意志に言葉を』『神の計画』『これも純粋ですか』『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』『私の胸の奥には』『外国語で小説が書けるか』『宗教をテーマの作品だというけれど』『ソルボンヌ大学で』『死んだはずの若い日の友が生きていた』『美しい朴の一葉がまた散った』
清水幾太郎
ジュネーブへ行く機上で読んだ雑誌にオーギュストコントについて書いているのを発見して、昔パリから東大に送ったコントの初版本が未だ東大に残されていることを知る。『レマン湖のほとり』
下出準吉
帝大社会学科の助手。パリに発つお別れ会で知り合ったが、コントの初版本をパリから送るよう頼んだ。芹沢氏はヴランでこの本を見つけ、2ヶ月分の家賃を払って購入し、東大に送ったが、その後消息がわからなかった。『レマン湖のほとり』
シモンヌ夫人
ロベール・ラフォン氏夫人。留学中の氏の娘二人を妹のように扱い、バカンスには避暑地の別荘にも招いた。後に夫と離婚したが、74年の氏の渡欧の際には亡父の住居を提供した。息子はロラン。娘はイサベラ(イボンヌ)。『四十五年ぶりのパリの春』『人生の秋』
ジャック・シャルドンヌ
芹沢氏が最も愛する作家。『シャルドンヌによせて』『結婚新書』
ジャック・シャルマン
オートヴィルの療友。パリ理科大学で理論物理学と天文学を学んだ。モーリスジャンと共に4人仲間で大自然の唯一の神を信じた。の『孤独な老耄欅』で、後にノーベル物理学賞を受け78年に亡くなったことがわかる。『死んだはずの若い日の友が生きていた』『美しい朴の一葉がまた散った』『孤独な老耄欅』『わが青春』『九十歳の充実』『神の微笑』『神の慈愛』『物言わぬ神の意志に言葉を』『神の計画』『「大自然の唯一の神」に支えられ』『私も『ガン病棟より還』らなければ』
ジャック・ファブリジュ
仏画家。芹沢氏の『巴里に死す』を読んで感銘を受け、3枚の挿絵を描いて送ってきた。『静かな人生のたそがれ』
ジャック・フェブリエ
フランクフルトのペン大会で知り合ったフランス人。『友達をつくつよろこび』
ジャック・ルクリュ
コルネリッサン博士の家で出会う。後にコルネリッサン夫人と結婚。芹沢氏がスイスで闘病中、上海大学に赴任。日中戦争の時、会いに行ったが身を隠して会えなかった。『フランスで文壇に出るには』『円相場』『パリで会った三木清』『わが青春』『神の微笑』『これも純粋ですか』『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』『飛行機について 』『文章をさがして』『小説とはやくざの業か』『闘病生活をすてた日』『作家は書けなければ死に等しい』『前章で終わらなかった』『「海に鳴る碑」と「愛と知と悲しみと」』『ミケランジェロと語った日』
ジャーヌ嬢
ベルグソンの聾唖の娘。留学中にベルグソンの家で会ったが、30数年後に同じ家で再会した。『唖者に語るこころ』『記憶について』
シャブリエ
フランス人女性作家。51年と55年に芹沢宅に訪れた。狭い住宅事情を見て、日本人はいつまで我慢しているのかと同情した。『一庶民の悲願』
シャルマン夫人
健康になって双子を生んだフランスの友。『円相場』
シャルル・ジード
仏経済学者。日本の高官の通訳で会ったことから縁を得て、親しく通ううちに甥のアンドレ・ジードにも会えた。『伯父さんの書斎で見たジード』『良く年老いる』『佳き晩年を』『長い旅路の伴侶』『死んだはずの若い日の友が生きていた』
シャルル・ビルドラック
仏詩人連名事務局長。『友好国際賞と娘』
ジャン・ジオノ
作家。『現代日本文学』
ジャン・コルネリッサン
コルネリッサン博士の息子。『早春に遠き人を想う』
ジャン・コクトオ
36年来日の際、ペンクラブで接待した。『デコブラ会見記』『コクトオと一晩』『文学者の対外問題』『現代日本文学』
ジャン・ジャック・ベルナル
劇作家。51年のペン大会で知り合った。『世界人の表情』『明日を逐うて』
ジャン・ジャック・ルソー
フランスの哲学者。『世界ペン大会に出席して』『ヨーロッパ便り』『スイスの旅』
ジャン・ドアイアン
59年のフランクフルトのペン大会の後、娘二人とロアール過半の別荘に滞在した。玲子のピアノの先生。『九年ぶりにパリから帰って来た娘』『天寿の金銭』
ジャン・ピエール・ファイユ
シモンヌ夫人の弟。経済学者で文芸批評家。『四十五年ぶりのパリの春』
ジャン・フォラン
フランス詩人。『パリの文壇の内部』
ジャン・ブルーデル
オートヴィルの療友。大彫刻家ブルーデルの甥。ソルボンヌ大学で歴史学を学んだ。結婚後メキシコに移住。後にパリに戻り、婦人服の百貨店を何軒も持つ友人と仕事をしている。子供はメキシコ在。『死んだはずの若い日の友が生きていた』『美しい朴の一葉がまた散った』『孤独な老耄欅』『わが青春』『九十歳の充実』『神の微笑』『神の慈愛』『物言わぬ神の意志に言葉を』『神の計画』『「大自然の唯一の神」に支えられ』
ジャン・ルイ・バロー
ルイ・ジュウベの葬儀で弔辞を読んだ俳優。『ルイ・ジュベの死』
寿里
芹沢氏の4女玲子の娘。74年、玲子一家に招かれて、芹沢氏が一生に一度のような休日と言うジュネーブでの休暇を楽しんだ際、毎日のように連れ立って歩いた。『レマン湖のほとり』『神の微笑』『神の慈愛』『ある創作の秘密』『随想について』『ソルボンヌ大学で』『梅雨の頃をスイスで過ごしたい』『レマン湖畔の夏』
ジュル・ロマン
作家。『現代日本文学』『巴里便り』『世界ペン大会に出席して』『友好国際賞と娘』
昭憲皇太后
小学生の頃、松葉をかいていてばったり会い、訊かれて松露の場所を教えた。『落葉松の林を秋風がわたって』『初恋の人』
城夏子
女流作家。帰国後、沼津中学の先輩、市河彦太郎によく昼食に誘われたが、そこで紹介された。『小説家の運』
昭和天皇
故郷楊原村には御用邸があり、皇孫殿下だった昭和天皇は芹沢氏の小学校に度々行啓した。『三人の天皇を送った』
ジョセフ
51年に渡欧した際、不時着したイスラエルのホテル経営者の息子。『ヨーロッパ便り』
ジョルジュ・デュアメル
57年『巴里に死す』が仏詩人協会の友好大賞を受けた際の会長でアカデミシアン。『私の小説勉強』『現代日本文学』『巴里便り』『怒りに胸はふるえて』『友好国際賞と娘』『海外旅行記を読むには』『文学と天才教育』『私は敗戦前こんな態度で創作した』『静かな人生のたそがれ』
シラア
デコブラの話に出たドイツの詩人。『作家の秘密』
白鳥先生
杉山先生参照。『私の小説勉強』
シンクレア・ルイズ
デコブラの話に出たアメリカの代表作家。『作家の秘密』
新藤誠一
ボングラン夫人の下宿に同宿した。巴里で最初のノエルに共にサンジャックのミサに出席した。後に九州大学仏文教授。『巴里便り』『最後の『ひろば』に』

 
[さ]  [し]  [す]  [せ]  [そ]  目次

末弘厳太郎
留学に際して、日本人と交際しないことが成功の秘訣だと教えた。『パリで会った日本人』『パリで会った三木清』『これも純粋ですか』
杉田良介
フランスから手紙をくれて、その返事に『巴里に死す』を贈った。『文学の胞子』
杉山先生(西山先生?白鳥先生?岩崎先生?)
芹沢氏が小学生時代の代用教員。頭のしらくもを洗ってくれた。伊藤博文の国葬の日、「お前は頭が良いから中学高校大学へと進め。今は伊藤さんの時代とは違って大学を出ないと偉くなれないからな」と氏の胸に勉学の火を付けた。この話は随筆毎に先生の名が違うのでどれが本名かわからない。『巴里便り』『神の慈愛』
杉山平助
芹沢光治良論を書いた。『自己を語る』
鈴木文史朗
『我入道』を絶賛し、朝日新聞の夕刊に連載を求めた整理部長。『巴里便り』『明日を逐うて』『私は帝国大学に再入学しようとした』
スタンダール
作家。『現代日本文学』
ステファン・ツワイグ
デコブラの話に出たドイツの代表作家。『作家の秘密』
砂崎徳三
沼津中学校長。芹沢氏の日記を5年間読み続けて、卒業と同時に下宿先や進路について世話した。『わが青春』『「人間の運命」のモデルについて』
砂原美智子
芹沢氏の後、ラチモフ夫人の宿に泊まったプリマドンナ。『思いがけない場所で』
諏訪根自子
芹沢氏の前にカメンスキー夫人の宿にいたバイオリニスト。『ヨーロッパ便り』『西欧文明の一つの灯』『あの二人は健在であろうか』『思いがけない場所で』

 
[さ]  [し]  [す]  [せ]  [そ]  目次

清吉
芹沢氏が小学校に入る前、隣の清吉兄さんに連れられて寺子屋に通った。いつも腰巾着のように付いているので、先生は漢字とルビだと言った。『わが青春』『ある質問に』『文学と天才教育』
関口
51年渡欧の際に会い、フランソア・ラブレーの住んだ村で2週間を共にした画家。『パリで会った日本人』『帰国前』『仏訳された小説』
セザンヌ
画家。『現代日本文学』
芹沢金江
芹沢氏の妻。父は藍川清成。母はしむ
芹沢くめ
芹沢氏の祖母。芹沢家の伝承を語り聞かせた。『自己を語る』『童心』『私の小説勉強』『巴里便り』『わが青春』『神の微笑』『神の慈愛』『ある質問に』『私の裡に棲む鬼』
芹沢光治良
せりざわこうじろう。作家。本来の読み方は「みつじろう」だが、当時の戸籍にルビをふる習慣がなく、ブルジョアの受賞で「こうじろう」と記載され、住民台帳にもそう記載されたので、本名も「こうじろう」である。ブルジョア以前、つまり幼なじみ、学友、家族、パリの友は「みつじろう」と呼んだことになる。実際、兄妹は「みっちゃん」と呼ぶ。
芹沢常衛門
芹沢氏の祖父。3歳で両親が家を去り、その後の面倒をみた。『自己を語る』『私の小説勉強』『巴里便り』『リンゴとビスケット』『ある質問に』『次郎の厄介になった叔父夫婦』『わが青春』『神の微笑』『神の慈愛』
芹沢常晴
芹沢氏の父。本名は常蔵。3歳で捨てられた芹沢氏は、生涯親とは思わなかったが、その信仰生活には敬服した。『自己を語る』『私の小説勉強』『巴里便り』『我が宗教』『わが青春』『神の微笑』『神の慈愛』『天寿の金銭』『宗教をテーマの作品だというけれど』『親と子との関係について』『次郎の厄介になった叔父夫婦 』『私の裡に棲む鬼』
芹沢朝子
芹沢氏の次女。『童心』『十二月八日の日記』『ヨーロッパ便り』『パリで会った天才画家』『虱になやんだ日々』『梅雨の頃をスイスで過ごしたい』『私も『ガン病棟より還』らなければ』『神の微笑』『神の慈愛』
芹沢はる
芹沢氏の母。『自己を語る』『私の小説勉強』『巴里便り』『「母の語る歌」とはこんなものなのか』『わが青春』『神の微笑』
芹沢文子
芹沢氏の3女。留学中、寄宿舎の舎監が芹沢氏の愛読者だった。『十二月八日の日記』『ヨーロッパ便り』『ドゴールとマルロー』『友好国際賞と娘』『偶然と恩寵』『九年ぶりにパリから帰って来た娘』『天寿の金銭』『この冬に向って、三通のよろこばしい知らせ』『大河小説の計画を放棄した』『虱になやんだ日々』『前章で終わらなかった』『わが書斎の珈琲はうまかった』『四十五年ぶりのパリの春』『短編小説について』『梅雨の頃をスイスで過ごしたい』『私も『ガン病棟より還』らなければ』『神の微笑』『神の慈愛』
芹沢万里子
芹沢氏の長女。フランスのフォンテンブローの託児所で育ったために、幼年期は日本人よりもフランス人になついた。戦後結婚したが、夫の事故で苦労して、イエスに迎えられて盲腸で亡くなった。この件には親様の予言があった。『童心』『十二月八日の日記』『円相場』『結婚新書』『ヨーロッパ便り』『我が宗教』『神の微笑』『神の慈愛』『童女』『外国語で小説が書けるか』『虱になやんだ日々』『人生をテーマの小説』『或る女流歌人への手紙』
芹沢玲子
芹沢氏の4女。夫が外交官で任地のソウルやジュネーブに訪ねた。『巴里便り』『生きる日の悦び』『ドゴールとマルロー』『友好国際賞と娘』『記憶について』『風に鳴る碑』『偶然と恩寵』『九年ぶりにパリから帰って来た娘』『レマン湖のほとり』『天寿の金銭』『C伯爵夫人はどうしているか』『虱になやんだ日々』『前章で終わらなかった』『冬の空』『手紙』『四十五年ぶりのパリの春』『もうスイスの高原に雪が降ると言う』『たんぽぽ』『ポール・ジャルダン』『ある創作の秘密』『短編小説について』『随想について』『私の裡に棲む鬼』『ソルボンヌ大学で』『梅雨の頃をスイスで過ごしたい』『レマン湖畔の夏』『ローマ法王のメダル』『ノーベル賞候補者夫人』『神の微笑』『神の慈愛』

 
[さ]  [し]  [す]  [せ]  [そ]  目次

草間加壽子
ピアニスト。『現代日本文学』
曽野綾子
ペンクラブ理事。共に川端の弔問に訪れた。『川端さんの死について』
園田高弘
ピアニスト。51年に芹沢氏が下宿したラチモフ夫人の部屋に、氏と入れ替わりにプリマドンナの砂原美智子が下宿したが、その次に園田が下宿した。その縁で日本で帰朝演奏会の際に氏に招待状を出した。実際に会って話をしたのは、十数年後の皇居での午餐の席である。『思いがけない場所で』
ソーバージュ
フィガロ新聞の記者。51年に渡仏した際、旧友の計らいで取材を受けたが、その記事が連絡の途絶えていた旧友を呼んだり、果てはリヨン銀行から作家という以外何の保証もなしにお金を借りることができた。これぞ神の計らいだろうか。『オルレアンの白い水車』
ゾラ
作家。『現代日本文学』

 
[た]  [ち]  [つ]  [て]  [と]  目次

高田
彫刻家。『パリ祭』『パリで会った日本人』
高見順
荒木の同人雑誌の仲間。『小説家の不運』『人生をテーマの小説』
高峰秀子
女優。51年渡欧の際に会う。『パリ祭』『ルイ・ジュベの死』『パリで会った日本人』『素直に賞を喜ぶ心』
宅孝二
51年渡欧の際にコルトーへの手紙を託された。『コルトーに会う』
ダークダックス
ロシアで一緒になった歌手。『ソ連を旅して』
武田麟太郎
作家。『文学者の対外問題』『住宅問題について』『神の微笑』『小説家の不運』
武智
農商務省農政課技手。農学士。『わが青春』『役所時代のこと』
竹中郁
詩人。『東西こども心』
竹本忠雄
72年、川端に代わって急遽渡欧した際の通訳。マルローの翻訳者。『川端康成氏の死について』『この冬に向って、三通のよろこばしい知らせ』『川端さんの死について』
太宰施門
一高仏語教師、京都大仏文学教授。ボングラン夫人の下宿を紹介してくれる。『わが青春』
立野信之
川端康成がペンクラブ会長時、芹沢氏と共にペンクラブを支えた。『川端康成氏の死について』『レマン湖のほとり』『四十五年ぶりのパリの春』『「海に鳴る碑」と「愛と知と悲しみと」』
田中
一橋大学名誉教授。一高の1年先輩で、芹沢氏が止宿したエチエンヌ夫人の宿に芹沢氏の後に入った。戦後星野温泉の室内浴場で再会。それからはお湯の友だった。『美しい朴の一葉がまた散った』
田中博士
東大分院の外科医。『原爆の娘を救え』
田中角栄
ペンの国際会議を開催するために、川端のお供をして、当時通産大臣だった田中元首相に会いに行った。『レマン湖のほとり』
田中希代子
コンセルバトアルでピアノの勉強をした知人の娘。51年渡欧の際に訪ねた。『ヨーロッパ便り』『パリでピアノに精進する日本娘』『パリで会った日本人』『梅雨の頃をスイスで過ごしたい』
田中義造
一高の親友。神戸出身。高文官試験合宿時に参考書類を送ってくれた。『わが青春』
ダニエル・マルセル
この人の作品で戯曲の勉強をした戯曲家。ベルグソンを継ぐ偉大な哲学者といわれ、フランスの文化使節として日本を訪れた。『小説家の運』
谷川徹三
一高文芸部時代、短歌と哲学的論文を発表し、その才能は田舎者の芹沢氏を驚かせた。『明日を逐うて』を発表した頃には批評家になっていて、的確な文章批評をしてくれた。ペンクラブでも共に活動。『シャルドンヌによせて』『何故小説を書くか』『文章をさがして』『作家は書けなければ死に等しい』『小説家の不運』
谷本牧師
広島の牧師。原爆症の娘を紹介した。『原爆の娘を救え』
ダヌンチオ
イタリアの作家。『現代日本文学』
田村
ペンクラブ会長時の専務理事。『レマン湖のほとり』
田村俊子
阿部光子が田村俊子賞を受賞した。『素直に賞を喜ぶ心』
ダンテ
イタリアの詩人。『現代日本文学』
丹羽文雄
海軍が招集を命じた際、丹波の代役でと言われた。『作家は書けなければ死に等しい』『宗教をテーマの作品だというけれど』

 
[た]  [ち]  [つ]  [て]  [と]  目次

チャンチャン
ルクリュの家で会った中国人。ポール・ヴァレリーに序文をもらって仏で小説を出した。『フランスで文壇に出るには』
長吉叔父
父の弟。次男。『次郎の厄介になった叔父夫婦 』

 
[た]  [ち]  [つ]  [て]  [と]  目次

土田豊
一高の友人。芹沢氏がパリに訪れる前から外交官補として滞在しており、夫人が妻のパリでの必要品を調えてくれた。留学の最初に土田の予約してあったホテルに滞在したが、そのホテルの食堂で百武源吾と知り合った。『義兄弟の契り』『わが青春』
壺井栄
気管喘息で亡くなった作家。『約束と偶然』
坪内逍遥
作家。『徳田秋声氏訪問』
ツルゲーネフ
「父と子」を書いた作家。『母への願い-投稿を読んで』

 
[た]  [ち]  [つ]  [て]  [と]  目次

ティボーデ
「小説の美学」という評論を書いた。『何故小説を書くか』
デカルト
フランスの哲学者。『現代日本文学』
デュマレ博士
芹沢氏は結核を克服してオートヴィルを出たが、卒論と口述試験がたたって結核を再発した。それで今度はスイスのレーザンに療養に出たが、そこでの主治医がデュマレ博士だった。芹沢氏を息子のように扱った。51年の渡欧で再会した際には、死んだ息子が復活したように喜び、歓迎会の後、昔の病室に泊めた。59年の渡欧では、モントルーの町クラランに隠棲していて、文明のお陰で人類が結核から開放されて本当に幸せだと喜んだ。『第二の故郷-二回目のスイスの旅』『西欧文明の一つの灯』『レマン湖のほとり』『一日を生涯として生きる』『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』『冬の空』『もうスイスの高原に雪が降ると言う』『ノーベル賞候補者夫人』『ミケランジェロと語った日』『美しい朴の一葉がまた散った』
デュラン
結核の後、自らの演劇学校を見学しながら療養するように勧めてくれた。ルイ・ジュウベ、ピトエフ、ガストン・バティと共に演劇の4人組と言われた。『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』
寺田寅彦
星野温泉で会った夏目漱石の友人といわれる博士。『美しい朴の一葉がまた散った』

 
[た]  [ち]  [つ]  [て]  [と]  目次

徳田秋声
若い頃、会っておきたかった大家として、徳田、島崎を挙げている。徳田には出版社から訪問記の依頼を受けて会った。息子は一穂。『徳田秋声氏訪問』『人間の寿命』『作家は書けなければ死に等しい』『小説家の不運』
ドストエフスキー
作家。『現代日本文学』
ドナルド・キーン
日本文学研究者。日本文化研究国際会議で芹沢氏の挨拶を誉めた。『舞子は生きた観音様です』
ド・ベール
仏ペンクラブ書記長。59年の渡欧の際、ド・ベールの戯曲が上演され招待された。『九年ぶりにパリから帰って来た娘』『ポール・ヴァレリーも私の恩人であった』
トーマス・マン
ドイツのの作家。『現代日本文学』
富沢
『世界人の表情』
ドモリエール
留学時、佐伯祐三の妻米子の紹介で、凱旋門近くのホテルを出て、ボングラン夫人の下宿に住むまで1ヶ月半世話になったクラマールの岡の上の家の主。夫婦と息子二人で、夫人は芹沢夫妻を「東洋の王子と王女」と呼んだ。二男のロジェがこの土地に二年間住むんだ佐伯の思い出を案内してくれた。『これも純粋ですか』
豊田耕児
ヴァイオリニスト。パリでの3女文子の同胞。『この冬に向って、三通のよろこばしい知らせ』『梅雨の頃をスイスで過ごしたい』
トルストイ
作家。『現代日本文学』
ドレイノル
世界ペンで講演した歴史学者。『世界ペン大会に出席して』
トレス・ボテト
フランス詩人連盟から友好国際賞を受けたメキシコ人。『友好国際賞と娘』

 
[な]  [に]  [の]  目次

永井博士
如己堂遺筆という文章に、心臓が痛む故に生命を感じると書いた。『生きる日の悦び』
長崎謙二郎
戦前の芹沢宅を訪れた珈琲客のひとり。同人誌に作品を書いていた。戦時中上田に疎開して物資を分けてくれた。長野の出版社に勤め、芹沢氏は請われて『産まれた土地』を書き下ろした。『青春小説』
中里恒子
随筆のタイトルに影響を与えた「ガン病棟より還りて」という作品を出した。『私も『ガン病棟より還』らなければ』
中島健蔵
ペンクラブの理事。『作家は書けなければ死に等しい』
中野重治
友人に天才詩人だと紹介されたが、仕事に困っていて藍川氏に相談したが転向作家だからと断られた。『記憶について』『天才詩人』
中原
51年渡欧の際に会う。ひまわり社。『パリで会った日本人』
永松定
伊藤整と『ユリシーズ』を共訳したが、伊藤同様芹沢宅に珈琲を飲みに通った。芹沢氏に借金して上海に滞在した後、熊本の実家に引き上げた。『わが書斎の珈琲はうまかった』
中村
51年渡欧の際、ロンドンで会った在英日本人。電灯の笠を造る工場を経営して、天皇の安否を案じた。『あの二人は健在であろうか』
中村光夫
文芸批評家。『舞子は生きた観音様です』
中村真一郎
作家。芹沢宅を訪れた一高生の中村に「毎日6枚書けなければ作家にはなるな」と語った。『文学志望』
中屋
川端が急死した際のペンクラブ副会長。『老齢か』
中山正善
天理教2代目真柱。『「たねまき飛行」によせて』『神の微笑』『神の慈愛』
夏目漱石
作家。『現代日本文学』
南薫透
星野温泉で会った画家。『美しい朴の一葉がまた散った』

 
[な]  [に]  [の]  目次

西田幾多郎
難解な哲学者として、ベルグソンの対比としてあげている学者。『唖者に語るこころ』『パリで会った三木清』
西山先生
杉山先生参照。『女教師』
新渡戸博士
東京女子大学を創設した。『フランスの母と日本の母と』

 
[な]  [に]  [の]  目次

野口女史
51年渡欧の際に会う。服装研究家。『パリで会った日本人』
野沢尚子
芹沢氏の次女朝子の長女。高卒後、仏政府から給費を受けて、パリの国立音楽院(コンセルバトアール)でヴァイオリンを学ぶ。パリではかつて氏の3女と4女が世話になった女子寄宿寮に暮らした。卒業後、オーケストラ・パドルーの第一ヴァイオリンなどで活躍。妹は裕子『神の慈愛』『この冬に向って、三通のよろこばしい知らせ』『青春小説』『私の裡に棲む鬼』『梅雨の頃をスイスで過ごしたい』『レマン湖畔の夏』
野沢裕子
芹沢氏の次女朝子の次女。姉の尚子と同じくヴァイオリンを志し、芹沢氏の援助を受けて、国立音楽院に学んだ。『この冬に向って、三通のよろこばしい知らせ』『梅雨の頃をスイスで過ごしたい』『レマン湖畔の夏』

▲ページTOPに戻る