随筆でも仮名であったり、記憶違い?があったりすると思いますので、確実性は求めていません。作品で親しんだ人物だとわかればいいと思います。なぜあの人が、という方が抜けているのはご愛敬だと思ってください(例えばお兄さん)。

                          

 
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萩原徹
51年の渡欧の際、講和条約が結ばれてパリに赴任してきた外交官。ピザのことで苦労しているときだったので、救いの神だった。『パリ祭』『巴里夫人』『思いがけない場所で』
巴金
中国の作家。フランスのジャック・ルクリュの家で度々顔を合わせたが、『人間の運命』執筆にかかった頃、老舎と共に芹沢宅を訪ねた。それが『愛と知と悲しみと』を書くきっかけとなる。『前章で終わらなかった』『冬の空』『「海に鳴る碑」と「愛と知と悲しみと」』
硲(はざま)
51年渡欧の際に会った画家。彼の案内で画商を見て回った。『ヨーロッパ便り』『マチスに会う 』『パリで会った日本人』
橋爪健
一高文芸部の後輩。『不幸であるから小説を書くのか』『私の胸の奥には』『たんぽぽ』
橋本洋一郎
学徒兵。比島で戦死した。『ヨーロッパ便り』
パスカル・ボネッティ
仏詩人協会会長。59年の渡欧の際、詩人協会が歓迎会を開いてくれたが、翌年『日本の作家、コージロー・セリザワ』という著書を贈ってくれた。『友好国際賞と娘』『静かな人生のたそがれ』
長谷川如是閑
フランスから帰国して最初に住んだ上落合の借家が長谷川如是閑の実弟の持ち家だった。『天才詩人』
波多野
一高の同級生。宮内大臣の息子。沼津から帰省する電車で一緒になったが、そこに石丸氏が同席していた。『わが青春』『親と子との関係について』
服部
51年に会った労働法の研究者。『パリで会った日本人』
バッハ
作曲家。『現代日本文学』『スイスの旅』
馬場法制局長官
高文官試験及第証書をもらうとき、大蔵省か日銀に行くように勧めた。後の日銀総裁、大蔵大臣。『迎春』『わが青春』
パブロフ
ロシアの生理学者。『現代日本文学』
浜口首相
義父の一高時代の友人。後に岐阜も選挙に出た。『選挙雑感』
林田教授
東大分院の教授。『原爆の娘を救え』
林房雄
小説家。『デコブラ会見記』
林芙美子
作家。市河の紹介で会った(他に平林たい子城夏子)が、家が近所で、後には文壇付き合いについて忠告するまでの世話を見せた。ローザンヌのペンクラブの際、パリでその死を知った。『花束』は彼女にもらったタイトル。『コクトオと一晩』『巴里便り』『素直に賞を喜ぶ心』『パリで会った天才画家』『作家と生活』『私は孤独だった』『小説家の運』『小説家の不運』『改造友の会の頃』『あの二人は健在であろうか』『人生をテーマの小説』
原チエコ
パリのピアニスト。『帰国前』
バルザック
フランスの作家。芹沢氏の小説の師。『デコブラ会見記』『現代日本文学』『人物と名前と創作』『結婚新書』『ヨーロッパ便り』『スイスの旅』『日本文学は海外でどのように読まれているか』『「人間の運命」を書き終えて』
パール・バック
フランスでパールのパーティに出席した。『パリの文壇の内部』

 
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ヴィクトル・ユーゴー
フランスの詩人。『現代日本文学』『ヨーロッパ便り』
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
佐伯が傾倒したフランス人画家。『巴里便り』『ヨーロッパ便り』
ピエール・シュバリエ
フランスで大臣に就任してすぐに妻に射殺された。『妻に殺された新大臣』
ピエール・ブランスール
亡くなったばかりのジュウベの元を訪れた俳優。『ルイ・ジュベの死』『「戦争」と「神」に悩む西欧-サルトルの「神と悪魔」を見て』
ピオ12世
ローマ法王。51年の渡欧の際、日本の戦後の小学生の作文や図画を届けたために、戦時中から法王に庇護されていた金山氏の紹介で個人謁見がかなった。法王は芹沢氏の読者でもあった。お土産にと4人の娘にメダルまでもらった。『ヨーロッパ便り』『我が宗教』『偶然と恩寵』『約束と偶然』『飛行機について』『ローマ法王のメダル』『神の微笑』
ピカソ
画家。『現代日本文学』『ヨーロッパ便り』
百武源吾
パリのホテルに滞在中にレストランで会った海軍大佐。話している内に縁のあることがわかったが、請われて義兄弟となる。戦時中は助けられることが多かったが、戦後身を隠し、農民となった。『わが青春』『三人の天皇を送った』『闘病生活をすてた日』『作家は書けなければ死に等しい』『虱になやんだ日々』『四十五年ぶりのパリの春』『義兄弟の契り』『赤い服』『宗教をテーマの作品だというけれど』
平賀老人
戦前軽井沢の別荘に野菜を売りに来た老人。戦時中は氏を督励して畑作りを教えた。『創作は疲れるものだ』
平林たい子
作家。市河の紹介で会った。『ここに望あり』に感動の手紙をくれた。『巴里便り』『小説家の運』『著作集の読者へ』
ビリアール
夫人がフランスの読者で、訪日した際に訪ねた。『遠来の客』
ビルドラック
詩人で劇作家。会長をしている詩人協会から文学賞を受けた。『文学志望』
広田龍太郎
作曲家。芹沢氏の軽井沢の山荘のそばに茅葺き屋根の別荘が2軒建っていたが、そのひとつに広田氏が住んでいた。戦前の共同温泉で混浴した。広田氏の別荘を下ったところにあの『塩壺』温泉があった。次女が白百合女学園中等部の教師で、長女万里子の先生でもあった。『童女』『美しい朴の一葉がまた散った』
広津和郎
作家。戦前、奈良ホテルで偶然会い、「懸賞小説出で苦労したなあ」と言われた。『小説家の不運』『改造友の会の頃』

 
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ファイユ
シモンヌ夫人の父。鉱山会社社長。財界の視察団で来日した際、芹沢家でもてなした。『四十五年ぶりのパリの春』
フィランデロ
イタリアの作家。『現代日本文学』
フェブリエ
芹沢氏の愛読者。ナポレオンの子孫で、ブルターニュに小さな城館(シャトー)を持って、夏は家族とそこで過ごしていたが、晩年になって家族と別れて自由人になった。娘のニコルは氏の娘と同年輩で親しかった。『人生の秋』
フォーコンネ教授
ソルボンヌ大学で社会学上の責任論を学んだ。『神の計画』『ソルボンヌ大学で』
福沢桃介
妻の実父藍川氏と関係があった。愛人は貞奴『レマン湖のほとり』
福田清人
雑誌「新科学的」の編集者。デビュー当時文壇の外だった芹沢作品の支持者。『著作集の読者へ』
プグレ教授
ソルボンヌ大学で社会学の方法論と実証哲学を学んだ。『神の計画』『ソルボンヌ大学で』『最後の『ひろば』に』
ブザンソン博士
パリ医科大学教授。芹沢氏が肺炎に倒れたとき、シミアン教授は教室から電話でブザンソン博士に診察を依頼して送り込んだ。後に博士のお陰で命が助かったと言われたが、その後結核にかかりスイスで闘病して、いよいよ帰国する船を待つ間、ミケランジェロの美術館で偶然再会した。その時「長生きするんだよ。ミケランジェロくらい長生きしなければ、仕事らしい仕事もできないし、人生の喜びもわからない」と言って励ました。『わが青春』『神の微笑』『物言わぬ神の意志に言葉を』『宗教をテーマの作品だというけれど』『ミケランジェロと語った日』
藤田嗣治
フランスで活躍した画家。51年渡欧の際、ドームのテラスで会ったが、それからは給士がフジタの友人と思って扱いが丁寧だった。『コクトオと一晩』『現代日本文学』『巴里便り』『パリで会った日本人』『神の慈愛』
藤山愛一郎
51年渡欧の際に会う。共にマチスを訪ねた。『パリ祭』『マチスに会う 』『パリで会った日本人』
舟橋聖一
「行動」の編集者。デビュー当時文壇の外だった芹沢作品の支持者。原稿料について心配した。『天寿の金銭』『小説家の不運』『著作集の読者へ』
フーベル(フーラル)夫人
レーザンで療養中の療友で、フランス文の添削をしてくれた。友人のケッセルを紹介。『外国語で小説が書けるか』『私は孤独だった』
フラマリオン教授
ソルボンヌ大学で貨幣論とインフレ論を学んだ。『ソルボンヌ大学で』
ブラマンク
佐伯の師である画家。『巴里便り』
ブラン
留学中世話になったブラン書店主。老子の研究家。51年に再会した。『伯父さんの書斎で見たジード』『パリで会った日本人』『ソルボンヌ大学で』
フランソワーズ・サガン
ラフォン社長が出資していたジュリアール社からデビューした作家。『パリの文壇の内部』
ブランドー
万里子を預けたフォンテンブローの森近くにある「赤坊の家」の博士。『童心』
フリードマン
世界ペンで講演したドイツの博士。『世界ペン大会に出席して』
古垣
芹沢氏の代理でフランス詩人連盟より友好国際賞を受けた。『友好国際賞と娘』
古沢淑子
51年渡欧の際に会った声楽家。当時日本人で唯一コンセルバトアルの声楽科を出ていた。『パリ祭』『パリで会った日本人』
フロイド
精神分析学者。『現代日本文学』
フローベル
作家。『デコブラ会見記』『現代日本文学』

 
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ペイザン嬢
フランスの読者。作家を目指している。『遠来の客』
ペタン元帥
第1次対戦のフランスの英雄。『ペタン元帥』
ベニッシ夫人
仏での長女の乳母。ルクリュ一家の親しい独人で博物学者。マルセイユから帰国する船を待つ間もカッシーの漁港で共に過ごした。『ミケランジェロと語った日』
ベラン(ペラン)夫人
51年のフィガロの記事を見て連絡してきた。少女の頃はジュヌビエーブと呼んだ。エリーズ・マッセの姪で、芹沢氏から贈られた品を大事に所蔵していた。マルセル夫人と同一人物と思われる。『三十数年間大切にしたハンカチ』『偶然と恩寵』
ベルナール・フランク
パリ大学教授。68年9月の日本文学公開討論会の講師。『日本文学は海外でどのように読まれているか』
ヘルマン・ヘッセ
ドイツのの作家。『現代日本文学』

 
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ボーチェ博士
レーザンの結核医。芹沢氏が闘病したサナトリウムのそばに建ったばかりの学生サナトリウムがあったが、その創立者がボーチェ博士だった。いつもベレー帽をかぶり、奇行の多い人という噂であったが氏は会わなかった。51年のペンクラブの大会でその博士がノーベル賞に推薦されていることを知ったが、その足でレーザンを訪れて初めて会った。氏には博士より賢明な夫人の方が興味を惹いた。ジャックという息子もあった。博士はノーベル賞を受賞しなかった。『スイスの旅』『世界人の表情』『コルトーに会う』『パリで会った日本人』『第二の故郷-二回目のスイスの旅』『西欧文明の一つの灯』『もうスイスの高原に雪が降ると言う』『ノーベル賞候補者夫人』
堀口大學
詩人。コクトオの案内役を務めた。『コクトオと一晩』
ポール・ヴァレリー
仏詩人。『フランスで文壇に出るには』『デコブラ会見記』『現代日本文学』『文学と天才教育』『私の胸の奥には』『ポール・ヴァレリーも私の恩人であった』『書くことは生きることです』『佳き晩年を』『もうスイスの高原に雪が降ると言う』
ポール・モーラン
作家。「東洋には土地の他に何もなかった」と書いた。『何故小説を書くか』『土地より他になし』
ボングラン夫人
芹沢氏が最初の仏留学での大半を過ごしたパリ16区のボアロー街48番地の下宿のマダム。ここには夫人の両親の他、アカデミー会員となった文芸批評家アンドレ・ベレソール、パリ市の吏員レアップ、戦争未亡人のルメ夫人新藤が住んだ。『男子の愛情』『巴里便り』『イエスの生誕について』『神の微笑』『神の慈愛』『これも純粋ですか』『新年は私にはないが』
ボンナール
画家。『現代日本文学』

 
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前田教授
ユネスコの委員である東大の教授。ミネカイヅカの小説について相談した。『創作は疲れるものだ』
前田先生
沼津中学の図画教師。芹沢氏に漱石の小説やアララギの合本を与えて、文学の目を開いた。『私の小説勉強』
前田多門
前文部大臣。北本教授と共にボーチェ博士のノーベル賞推薦をお願いした。『ノーベル賞候補者夫人』
前田陽一
ジュネーブに旅立つ決心をさせたパスカル学者。
正宗白鳥
朝日新聞で『ブルジョア』を鴎外の『みれん』に匹敵すると評した。『徳田秋声氏訪問』『わが青春』『神の微笑』『「大自然の唯一の神」に支えられ』『文学と天才教育』『私は帝国大学に再入学しようとした』『作家は書けなければ死に等しい』『短編小説について』
マーシャ
ダークダックスのロシア語通訳。『ソ連を旅して』
真杉静枝
広島での文芸講演会に同席し、谷本牧師の陳情を受け、原爆症の娘を東京で診察させる手はずを整えた。『原爆の娘を救え』
増田先生
小学3、5年生の時の担任。エジソンが電灯を発明したように、おまえも頭がよいのだから進学してエジソンのように世の中のためになる人になるんだぞと励ました。『巴里便り』『神の慈愛』
マチス
51年渡欧の際、硲の紹介で会った仏画家。『現代日本文学』『ヨーロッパ便り』『レジスタンスの墓』『マチスに会う 』
松岡静雄
柳田国男の実弟。学生時代に世話になった。『或る女流歌人への手紙』
マッカシー
京都のペン大会で会ったアメリカの若い学者。舞子を見たいと言った。『舞子は生きた観音様です』
マック・シャルドンヌ
作家。『現代日本文学』
マッシー
オートヴィルの療友。ニームの銀行家の独り息子。『早春に遠き人を想う』
松林幸二郎
スイスから突然チョコレートを送ってきた。『文学の胞子』
マドレーヌ
スイス、エーン県オートヴィルの石炭屋の娘。芹沢氏はそのそばの高原療養所で療養していたとき、毎日強制散歩に出たが、幼女であったマドレーヌは、その姿をいつも家から見ていて、氏が家の前を通るとボンジュールをしに外に出ようとした。だが、母親が結核の感染を心配して止めるので、氏はその前を通るのが辛かった。『童女』
マドレーヌ
51年に渡欧した際、不時着したイスラエルのホテル経営者の娘。『ヨーロッパ便り』
マドレーヌ・ルノー
仏女優。『春宵独語』『巴里便り』『わが青春』『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』『春の来ない冬と春の来る冬』
マービン・グリーン
ピース・センターの博士。『原爆の娘を救え』
マリ夫人
ボングラン夫人邸に止宿した戦争未亡人。『新年は私にはないが』
マリ・ベル
仏女優。芹沢氏の最初の渡仏時、仏の大学生は二人の天才舞台女優に夢中になっていた。それがマリ・ベルとマドレーヌ・ルノーであった。学生はマリ・ベル派とルノー派に別れていたが、氏はルクリュ一家の関係で大女優ララ夫人を知り、その縁でマリ・ベルに引き合わされ、自然にマリ・ベル派だった。『春宵独語』『巴里便り』『わが青春』『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』
丸岡明
この人の葬儀に軽井沢から帰郷してミッシャに電話を入れた。『親孝行』
マルセル
デュマレ博士の息子。4女をジュネーブに尋ねた際、診察を請うた。『レマン湖のほとり』『もうスイスの高原に雪が降ると言う』
マルセル・ジュアンドー
51年渡欧の際にの紹介で会った小説家。『パリで会った日本人』
マルセル博士
ベレソールの妹マルセル夫人の夫で考古学者。アルジェリアの博物館長。息子はアンリとフィリップ。『オルレアンの白い水車』
マルセル夫人
仏陸軍大学数学教授マルセル氏の妻。マルト・マッセの姪。芹沢氏が59年の渡欧の際、フィガロ紙の記者ソーバージュが『巴里に死す』の作者がパリに着いたとて会見記を発表した。その記事を見た見知らぬ夫人からマッセさんの思い出を綴った手紙をもらうが、それがマルセル夫人だった。この手紙が機縁で氏は夫妻と親しくなり、留学中の娘は陸軍大学の記念日に毎年招かれて演奏した。『喪服を着た貴婦人』
マルセル・プルースト
作家。『パリの文壇の内部』
丸谷才一
作家。68年9月の日本文学公開討論会の講師。『日本文学は海外でどのように読まれているか』
マルタン・ド・ガール
デコブラの対照的な作家として芹沢氏があげた作家。『作家の秘密』『現代日本文学』『西欧文明の一つの灯』
円地文子
文芸家協会の理事会で阿部光子の受賞を教えてくれた。『素直に賞を喜ぶ心』
マルト・マッセ
フランス留学の際、芹沢夫妻のフランス語の家庭教師をしたエリーズ・マッセの姉。パリ16区オートイユ門外れの森に近い静かな通りの家の2階に妹と住んでいた。いつも喪服で、婦人としては異例の最高勲章(レジヨンドヌール)の略綬を胸に付けていた貴婦人。芹沢氏が結核で危篤に陥ったとき、妹とピレネー山脈のルールドまで出掛けて、奇跡の泉のお水を持って見舞った。その後も高原療養所に送られた氏の代わりに、妻と長女の後見人となって、特に長女の受洗を熱心に勧めた。結核が治り、マルセイユで日本へ帰る船を待つ間、イゼールの高原に妹と訪れて、長女にマドレーヌ寺院の枢機卿の祝福したメダルを持参した。その後、大戦中に亡くなった。氏は59年の渡欧の際、ルールドの巡礼団に加わっているが、この姉妹を心に招いて五日間過ごしたと後に懐述している。氏にキリスト教への思いを開かせたのも、この婦人の存在が大きかったのかも知れない。『偶然と恩寵』『喪服を着た貴婦人』『神の微笑』

 
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三浦
ペンクラブ理事。『川端さんの死について』
三木清
パリであった哲学者。多くのことを学んだが、帰国の際の借金を踏み倒された。『巴里便り』『レジスタンスの墓』『パリで会った日本人』『パリで会った三木清』『落葉松の林を秋風がわたって』『虱になやんだ日々』『小説家の不運』『三岸節子さんと宮坂勝君』『神の微笑』
三岸節子
画家。『命ながし』の挿絵を頼んだ。後年、軽井沢で散歩中に彼女の山荘を発見して、毎年楽しんで訪ねた。『三岸節子さんと宮坂勝君』『この冬に向って、三通のよろこばしい知らせ』『年の瀬』『最後の『ひろば』に』
ミケランジェロ
彫刻家。『現代日本文学』『ある人の死に』
水井康雄
彫刻家。72年、川端に代わって急遽渡欧した際、通訳の竹本忠雄から勧められて会う。イスラエルの建国記念像を造った。3女文子のパリでの同胞でもあった。『この冬に向って、三通のよろこばしい知らせ』
水島
51年の渡欧で会った東大の物理学者。『パリで会った日本人』
水島記者
改造社の記者。日支事変の特派員腕章を持ってきてくれた。『闘病生活をすてた日』
みずほ
広田龍太郎の次女の孫。次女は白百合学園で氏の長女の数学教師でもあった。みずほは軽井沢で「おじいちゃん」といきなり見知らぬ氏の前に現れて、氏を驚かせたのが出会い。
ミッシェル
ボングラン夫人の下宿に住んだルメ夫人の息子。かわいい仏語の先生だった。『巴里便り』
ミッシャ
モスクワ大学比較文学専攻の3年生。芹沢氏がソ連の作家同盟から招待されて渡露した際の通訳。親孝行が幸せの秘訣だと氏を驚かせた。『ソ連を旅して』『親孝行』『私はソ連でデカンショを唄った 』『親孝行について』『『椿姫』に嗚咽した民衆』『神の微笑』
宮坂勝
留学の白山丸に同船した大本教の西村の手伝いをした日本人留学生に紹介された画家。後年、下落合に住み、三岸節子の絵で議論した。『三岸節子さんと宮坂勝君』
宮本
51年渡欧の際に会ったロマン・ロランの研究家。ロラン夫人にも紹介された。『パリで会った日本人』
ミレ夫妻
ボングラン夫人の下宿に夕食をとりに来ていた医科大学教授夫妻。息子のジャンも医科大生。『巴里便り』
向井良吉
海に鳴る文学碑の作者。『風に鳴る碑』『「海に鳴る碑」と「愛と知と悲しみと」』

 
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村上知行
支那に訪れた際に北京で話した。『男子の愛情』

 
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メルシェ
シミアン博士の研究室の同僚。オートヴィルにも見舞いに来てくれた。『早春に遠き人を想う』

 
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毛利真美
敗戦後にパリで会った画家。『毛利真美の絵』
モーパッサン
作家。『デコブラ会見記』『現代日本文学』
森有正
『巴里に死す』の翻訳者。『パリ祭』『パリで会った日本人』『パリで死んだ二人の女主人公』
森鴎外
作家。『現代日本文学』『結婚新書』
モーリス・ジュヌボア
フランス詩人連盟。『友好国際賞と娘』
モーリス・デコブラ
フランス人作家。『デコブラ会見記』『コクトオと一晩』『作家の秘密』
モーリス・ルッシー
オートヴィルの療友。ホテル・レジナでは患者を4人1組にしたが、芹沢氏の班はこのモーリスとジャンジャックだった。ニームの商業会議所長の独り息子。ポアチエ大学で経営学を学んでいた。80年5月、芹沢氏に半世紀ぶりの便りを送ってくる。『わが青春』『九十歳の充実』『神の慈愛』『物言わぬ神の意志に言葉を』『神の計画』『「大自然の唯一の神」に支えられ』『死んだはずの若い日の友が生きていた』『美しい朴の一葉がまた散った』『孤独な老耄欅』
モーリヤック
作家。『現代日本文学』
モレール・ソラン
仏詩人。『友好国際賞と娘』
モンテルラン
フランスの小説家。「神さまは、男性は御自分の栄光のために、女性は男性の栄光のために、お造りになりました」と女主人公に言わせた。『男子の愛情』『結婚新書』

 
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ヤギ
51年に会った化学者。『パリで会った日本人』
安岡章太郎
作家。68年9月の日本文学公開討論会の講師。『日本文学は海外でどのように読まれているか』
安田先生
沼津中学の国語教師。芹沢氏に俳句を教えた。『或る女流歌人への手紙』
安川加寿子
娘のピアノの先生。『サムライの末裔』の翻訳者となる青木夫人を紹介してくれる。『パリでピアノに精進する日本娘』『前章で終わらなかった』『仏訳された小説』
安川定男
有島武郎論の著者。『明日を逐うて』
矢田津世子
矢田の葬儀の際、林芙美子に誘われて川端と共に林宅へ招かれた。『小説家の不運』
柳川春葉
小説家。『人物と名前と創作』
山崎豊子
山崎作品「花宴」の中で「巴里夫人」を盗作して社会問題となった。芹沢氏は丁度体調の悪かった時期で、この件で苦労させられたようだ。『良く年老いる』『パリで死んだ二人の女主人公』
山田キク
アジ・フランス誌に芹沢氏がカトリック信者であると紹介した。『海外旅行記を読むには』
山本社長
改造社社長。『改造友の会の頃』『わが書斎の珈琲はうまかった』
山本有三
議員になって文筆業を辞めた事例としてあげている。『立候補せざるの弁』

 
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湯川
婦人公論編集長。軍に脅されながらも『巴里に死す』の出版を続けた。その後徴兵に会い、前線で戦死した。『ヨーロッパ便り』『ある創作の秘密』『パリで死んだ二人の女主人公』

 
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横田喜三郎
留学の際の友。『パリで会った日本人』
横光利一
作家。小説家は随筆を書いてはいけないと忠告した。『現代日本文学』『スイスの雪』『パリの表情』『小説家の不運』『わが書斎の珈琲はうまかった』『随想について』
与謝野
51年の渡仏で途中から一緒になった。『世界ペン大会に出席して』『ヨーロッパ便り』
吉川清
原爆第一号患者。『死の影を見つめて-広島の記』
ヨシザカ
早稲田を出た建築家。51年に会った。『パリで会った日本人』
ヨシトミ
有島の「或る女」をフランス語に訳した外交官補。『日本文学は海外でどのように読まれているか』

 
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ラコンブ
芹沢氏の読者。精神病医学者というフランスの富豪。パリとニューヨークに半年ずつ暮らして、その往復の途中幾度も氏の元に寄った。氏に連れて行ってもらった銀座のバー・エスポアールのホステスに夢中になったが、ふられて、後にニースで女医と結婚した。『C伯爵夫人はどうしているか』
ラジェルクビスト
フランス詩人連盟から友好国際賞を受けたスイスのノーベル文学者。『友好国際賞と娘』
ラチモフ夫人
51年の渡欧の際、止宿したサン・サーンス街17番のアパルトマン2階の未亡人。氏が来る1週間前に夫を亡くして途方に暮れていたが、氏が様々な言葉で励ましたために、氏を東洋のソクラテスと呼んで最後には明るくなった。『天国の創造は夢ではない』『西欧文明の一つの灯』『一足の靴の話』『思いがけない場所で』
ラディス夫人
パリ音楽学校のチェロ教師。4女のアンサンブルの教師だった。『相互理解について』
ラバスール
ソルボンヌ大学の同窓生。芹沢氏をベルグソンの家に案内した。『唖者に語るこころ』『記憶について』『ソルボンヌ大学で』
ララ夫人
国立劇場の大女優。ルクリュの紹介で知り合い、ルイ・ジュウベマリ・ベル等と引き合わされた。『ルイ・ジュベの死』『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』『ソルボンヌ大学で』
ランス
ガストンの友人で日本を訪れた。『円相場』
ランス嬢
結婚と同時に小説を発表した友。『円相場』

 
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リオネロ・フィルヴァン
フランス詩人連盟から友好国際賞を受けたイタリア人。『友好国際賞と娘』
リベエロ・コンツ
フランス詩人連盟から友好国際賞を受けたブラジル人。『友好国際賞と娘』
リボーバ女史
モスクワ大学の日本語教授。氏をロシアの精神病院と裁判所に案内した。『ソ連を旅して』『神の微笑』『親孝行について』『『椿姫』に嗚咽した民衆』
リリー・コルネリッサン
コルネリッサン博士夫人。後にジャック・ルクリュ夫人。オートヴィルを降りて、家族と共に最初に世話になった。『早春に遠き人を想う』『円相場』『わが青春』『神の微笑』『「海に鳴る碑」と「愛と知と悲しみと」』
リルケ
詩人。ロダンの秘書として仕えた。『現代日本文学』

 
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ルイ・ジュウベ
仏演出家。ララ夫人から紹介された。氏にスリジエ(桜)と渾名を付けた。芹沢氏が結核に冒されたとき、日本に帰れなくなっても自分の劇団雑誌『幕間』に何か書いて生計を立てろと励ました。戦後初めての訪欧で劇的に再会したが、三日後に会おうと約束して、その前日急死した。『ヨーロッパ便り』『ルイ・ジュベの死』『「戦争」と「神」に悩む西欧-サルトルの「神と悪魔」を見て』『明日を逐うて』『書くことは生きることです』『外国語で小説が書けるか』『それでも母国語で書くべきではなかろうか』『小説家の運』『ソルボンヌ大学で』『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』『或る女流歌人への手紙』『わが青春』『神の計画』
ルメ夫人
ボングラン夫人の下宿に住んだ戦争未亡人。息子はミッシェル『巴里便り』

 
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レアップ
ボングラン夫人の下宿に住むパリ市の官吏。息子はジャン。『巴里便り』
レイモン女史
小説家。51年のペン大会で友人となり食事に招かれた。『世界人の表情』
レビー教授
ピアノの講師。『パリでピアノに精進する日本娘』

 
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老舎
中国の作家。巴金と共に芹沢邸を訪れた。『前章で終わらなかった』
ロジェ・カイヨワ
川端氏に代わってペンの国際会議開催前にフランスまで会いに行った。『レマン湖のほとり』『川端さんの死について』『佳き晩年を』『四十五年ぶりのパリの春』『老齢か』
ロダン
彫刻家。『現代日本文学』『ヨーロッパ便り』
ロベール・ラフォン
芹沢氏の初の仏訳作品を発売したロベール・ラフォン社社長。ヌイーに「白い城」と呼ばれる自宅があった。氏の娘2人が留学する際、身元引受人になってくれて、それで留学ができた。夫人はシモンヌ『パリの文壇の内部』『天寿の金銭』『それでも母国語で書くべきではなかろうか』『大河小説の計画を放棄した』『前章で終わらなかった』『四十五年ぶりのパリの春』『長い旅路の伴侶』『仏訳された小説』『人生の秋』
ロマン・ローラン夫人
51年の渡欧の際、パリで会った。持参した小学生の図画と作文の話をすると、パリの小学生のものと交換するように勧めた。『パリで会った日本人』『偶然と恩寵』『神の微笑』
ロラン・ドルジュレス
デコブラの友人の小説家。『デコブラ会見記』『友好国際賞と娘』
ロン夫人
玲子のピアノの先生ドアイアンの先生。『九年ぶりにパリから帰って来た娘』

 
[わ]  目次

和田稔
書斎に通っていた戦死した学徒兵。『鳩と凧』
和田芳恵
中央大学で講師をしていた頃の教え子。『明日を逐うて』

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