個人旅行者向け
タイの上手な旅の仕方の基礎知識

タイの実体験をエッセイ風、レポート風にまとめました

ジムトンプソンのタイシルクなどを直輸入。特別価格で販売中!

《SECOND EFFORTの活動》
お暇でしたらこちらもどうぞ

タイの日本人向け新聞「バンコク週報」に掲載しているエッセイを再構成しています。
店主のテレビ屋時代のエピソードを中心に書き綴っているエッセイです。今だから笑える失敗談や、今では信じられないテレビの制作現場のこと。
番組の立ち上げ秘話やタレントとの交流の話など、実際にあったことを一つづつ記憶を紐解きながら、店主の成長記録のように書いています。
不定期ですが、今も書き足していますから時々覗くようにしていただくと嬉しいです。


こちらは今の仕事のページです

会社案内ビデオや商品紹介ビデオ、社員の研修や教育のためのビデオを制作します。
映像プロモーションは企業のコンプライアンスの醸成に大きな効果をもたらします。
30年以上テレビの番組制作に携わってきた店主にお手伝いさせてください。長年培ったその経験を活かして、きっとご満足いただけるような作品をつくります。
その他、サークルの発表会や結婚披露パーティーの記録ビデオまで何でも承ります。
お気軽にお問合せ下さい。
詳しくは上の画像をクリック!

当HPはリンクフリーです。
ただしご連絡だけはくださいね。
タイに関心のある方どんどん情報交換して、タイフリークの輪を広げましょう!

ベンジャロンの町に行って来ました マットミーシルクを見に行きました
マットミーシルクの製作現場レポート 幸運を呼ぶプラクルァン
タイの寺院、こんな見方も…暁の寺 タンブンも見て欲しい
古式マッサージはゆっくり、じっくり タイシルクの魅力を知ってほしいッ!
ロイカトーンは雨の中を流れていった タイが黄色い波に揺れた日
タイのティッシュは色即是空 タイ人にもある「もったいない」
タイ山岳民族に愛の手を差しのべた人たち タイではタイ風を満喫して欲しい
シナワット・タイシルクを知ってほしい 森から追い出された象たちの行き場
子供同伴OKが作るぬくもり すぐ謝る日本人に『?』が止まらない
ソンクラーンの祝福に容赦はない
ベンジャロンの町Krathum Baen に行って来ました
バンコク市内から車で約1時間半。Samut Sakhon (サムサコン)という町から少し行ったところにBenjarong の村Krathumbaen(カトンバン)があります。ここには数十件のベンジャロン焼きの工房があります。
タイではOTOP(オートップといいます)といういわゆる一村一品というような運動があって、この村は5年連続してこの品評会の最優秀賞を取っているそうです。

タイの焼き物というとこのベンジャロンとチェンマイの近くにあるセラドン焼きが有名です。セラドンは緑がかった青磁の表面に自然のひび割れがある質素なもの。これに対してベンジャロンは白磁やボーンチャイナの純白の表面に金を中心に多色彩色したとても豪華絢爛なものです。

そもそもベンジャロンとは5色ということ意味だったそうですが、いまは各工房でオリジナリティー豊かな彩色を競っています。何軒か工房を回ってみると、ここは紺の色合いがきれいとか、臙脂とピンクの使い方がうまいとか、抹茶のような緑がいい、黄色が鮮やかなどどれもこれも目移りがするものばかり。きっと工房毎で色を出す技術が違うのでしょう。
ベンジャロンを見たことがある人なら写真を見ていただいただけで分かると思いますが、従来の「うゎ派手〜ッ」という印象から、ずいぶんシンプルなデザインになってきていると思います。もちろん私がそういう工房を選んでいるということもあるにはあるんですけどね。

工房を覗いてみるとどこも4〜6人位で彩色しています。音楽が鳴っている以外は静かなものです。みんな無言で集中しています。嗚呼この緊張感が細密な作品を作り出しているんだな。そこには私の今までの16年間に及ぶタイ人との交流からは経験したことのない空気を感じずにはいられませんでした。大体タイ人は大雑把でだらしなく、サバイ&サヌク(難しく考えずに楽して楽しく=あれ俺のこと?)、何か事が起こってもマイペンライ(大丈夫、なんとかなる)で済ましている。ここにはそんな気配はなく、ひたすら器を持ち、筆を細かに動かしている。うーん恋人にするならこういう几帳面な人がいいな。この村の娘達は結構かわいいし(^_-)-☆などと不遜な考えが顔をもたげてきた刹那、視線をパンダウンすると___これ以上は言うまい。出来上がった作品の価値には何の影響もないのだから…。
おっと、いつものペースが顔をもたげてしまった。反省。

ところで、皆さんのお宅にベンジャロンの食器とか花瓶とか小物入れとかありませんか?あったら今度底を見てください。「ROYAL POCELIN」、「ROYAL BONE CHINA」と書いてあったら最高級品。小さくても相当高額なものです。どちらもROYAL POCELIN 社というタイで最高級の磁器のメーカーのブランド名なのです。
「ROYAL POCELIN」は白磁、「ROYAL BONE CHINA」はファインボーンチャイナのブランドです。だから、それだけ品質も高く、高級品という証です。

底に何も書いてない、または「Thai Handmade」だったら、その辺のおみやげ物屋で買ったもの。―それならまだ良い。空港のShopで買ったのだったら、はっきりいって悲劇。バンコク市内でROYAL POCELIN 社の物をを買うのと同じくらいの値段だったはず。大切にしてください。これはこの村のある店で出会った将校さんも同じことを言っていたので間違いないと思います。

これで二度目のKrathumbaen。前回より実際ものを買うということで結構気を使ってしまった疲労を感じながらの帰りの車中。日本より癖のないハイネッケンを飲みながら、ちょっとウトウトしかかった私でした。
メニューへ▲
イサーンにマットミーシルクを見に行きました
タイのイサーンと呼ばれるタイ東北部に行って来ました。
この地域は「Queen's Silk」と呼ばれるマットミーシルクの産地です。旅の目的は、これを作っている様子を見たいというのが第一。
新しいデザインがあるのではないか、それを見つけたい、というのが第二。
もし品質の高いものがあれば買い付けたいというのが第三。
バッグなど新しい商品を開発したいというのが第四。
と、大いなる希望を持ってウボンラチャタニとヤソートンという町に行って来ました。

バンコクからウボンラチャタニまで約700km、ヤソートンを回って帰ると、往復で1,500km以上の行程でした。なんとこの距離を車で移動したのです!飛行機でというのも考えたのですが、現地での移動手段がないため(タクシーなどはないのです)、バンコクから車をチャーターして行きました。正直<疲れた…!>。だってバンコクへ行くには10時間、ラオスとの国境に行くには数10分、という地域ですから。
この地域は昔から土地が痩せているためこれといった作物もできず、またこれといった産業もないためとても貧しいところといわれています。
そんなエリアに産業を興させようと、シリキット王妃が率先してマットミーシルクという伝統の絹織物を復活させているのです。
マットミーシルクは古くからこの地域からカンボジアにかけて作られていた「絹絣」といわれるもので、カンボジアではその元となる絹を「黄金の絹」といって、王族たちの衣装とするなど、品質の高さを誇っていました。製造方法は日本の絣と同様、先染めといって、織る前に絹糸を天然の染料で染色し、それにあわせて機織をしていきます。ひじょうに手間と暇がかかり、熟練の技術を要求されるものです。
機織も、1日1m織るのがやっとというもので、このためタイ国内でも最高級のシルクとして、ひじょうに高額で売られています。
シリキット王妃はこの伝統技術を復活させ、自らこの地域に何度も足を運んで作り手を励まし、またいろいろな公式の席で、王室の方々はこのマットミーシルクの衣装を身に着けて出席されているそうです。それゆえ「Queen's Silk」といわれているのです。

ウボンラチャタニはそのマットミーシルク生産の中心地のひとつです。
店主のイメージは、ビールを飲みながらの旅の途中で膨らむだけ膨らんでいました。
だってカンボジアではこれと同じ方法で、あのアンコールワットの石造のような細かい柄を織り上げてゆくんです。タイにもこれに匹敵するものがあっても不思議ではありません。現に、OTOPというタイの一村一品運動の展示会では常にすばらしい作品が優秀賞(5スター)を受賞しているのですから。

しかし、残念ながら、今回のツアーでは当初の目的を達成することはできませんでした。確かに、作品はすばらしく優秀です。でも、どうしてもタイの文化の域をできれていないのです。どうやったって、日本には受け入れられそうもない。以前のようにエスニックブームのころならまだしも、現在ではチョット売るのは難しいのではないかという製品ばかりでした。

生産環境も、家内制手工業というには程遠いものがほとんどで、内職レベルの状態でした。生産者たちがウボンラチャタニから分散していることもあって、ほんのいくつかしか見られなかったのですべてがそうとは思いませんが、チョット残念な結果でした。でも製造工程を見られたのは商品を販売する上で大きな収穫ではありました。

マットミーシルクの目標は達成できずに終わってしまいましたが、それ以外の部分で個人的には大きな収穫がありました。イサーンは貧しい地域という知識はあるものの、その現実を見ることができたことが一番大きな収穫だと思います。
これまでいったことのある、イサーンの町はロプブリというサルの村。この町の中心にあるお寺を中心に数千匹ともいわれるサルがすんでいて、村を占領している感がある町です。それから象の村として知られているスリンという村とサタックという村。サタック村の象はスリンに比べて大きく、年に一度のお祭りでは百数十頭の象がパレードを行います。そして、なんと川を泳いで渡る競争も行われるんです。
しかし、こうした町もイサーンという地域の中ではまだまだ入り口。実際の自然の厳しさや、風俗を知るにはまだまだ甘いところがありました。
今回はこれぞイサーン。イサーン決定版というような所ですから、いろいろとおもしろいことを目にしました。

その最大のものが、結婚式。
ウボンラチャタニから40分くらい移動した小さな村で偶然結婚式があったのです。
この村に着いたのは朝9時頃だったのですが、すでに村全体がそわそわした空気。何事?と思って現地の人に聞いたら結婚式だったというわけです。

バンコクでは結婚式も日本同様に華美になってきているようですが、さすがにこの地域では、まだ昔ながらの結婚式のスタイルが守られているようです。
まず男性が村の入り口から、女性の家まで村の中をパレードしてゆきます。太鼓とエレキギター風の楽器の演奏、そのまわりにはお祝いに踊る人たち…早くも酒がはいっている人たちもいてたいへんいぎやかです。最初は20人程度だったのですが、300mくらい歩くうちにドンドン人がその列に加わり、100人ほどのパレードとなりました。
このパレード間に花嫁の家では花婿の父から花嫁の両親に貢物がされるなどの儀式(?)が行われていました。列席者(といっても村人全員のようですが…)は、タイでも日本と同様お祝いのお金を出していました。ただし、その金額は100バーツ(約280円)から多くて1000バーツ。会計係が小さなテーブルを出してお金を集計していました。結構な額になっていたようです。
パレードに参加していない人たちは、花嫁の家の前の道にテントを張った即席の宴会場で花婿の到着を待ちます。そして花婿が花嫁の家の前につくころには、演奏のボリュームも上がり、踊る人も増えて大騒ぎです。
花嫁の家に入る前、花婿は目の前に差し出された鎖を切るようなことをしていました。その後、バナナの葉の上に乗って足を洗ってもらい、ようやく花嫁の家の中に入ります。花嫁の両親にあいさつをしていよいよ結婚式のセレモニーが佳境に入るのですが、大勢の人ごみに押し出され、見ることはできませんでした。残念!
結婚式の最中、パレードしてきた人たちは早くも酒盛り。各家から持ち寄ったような料理も並んでいます。残念ながら、見学できたのはここまで…。この日のうちにヤソートンという町に行き、それからバンコクまで700km以上の道のりを帰るため、この村を出ました。

花婿が花嫁の家に行くということは、やはり母系社会の伝統が今も根付いているということでしょう。確かに、地方に限らずバンコクでもタイ人女性は本当に良く働きます。バンコクでもちょっと郊外に行くと、働いているのはほとんどが女性。工場に働きに出て、それだけだと収入が少ないからもう一つパートのような仕事をし、帰ってから家事をして、育児もする。
対する男は一日中タバコをふかしてボーっとしているんです。「やることないから水でも浴びるかー」みたいな雰囲気で水浴びしている男たちも良く見ます。バンコクの発展は男が一生懸命働くようになったからではないか――と店主は真剣に思っています。

結論だけいうと、車のチャーター費や、宿泊費、食事代など、トータル15,000バーツも払っただけの収穫はあったように思います。ただそれは商売レベルではなくて、タイフリークとしてのレベルでのことかも知れませんが…(^_^)。
右の写真にあるように、久々の親子の対面という場面も演出できたし、今回の旅は今まで知らなかった人々の営みというものを見て寂しくもあり、嬉しくもありという強行軍の移動でした。でも、なぜか心が温まる2日間のツアーでした。
メニューへ▲
マットミーシルクの製作現場レポート(一部上記レポートと重複します)
2005年1月20日から1泊2日でタイ東北部(イサーン)に行って来ました。
イサーンの中でも一番奥、ラオスとの国境に近いウボンラチャタニとヤソートンいう町。目的は、マットミーシルクの新商品の開発です。ウボンラチャタニは高品質のマットミーシルクを生産してることで有名です。この生産者と直接新商品を作ってもらう交渉をしようという狙いでした。
イサーンはとても厳しい自然と対峙している地域です。土地は痩せ、気候も朝夕の温度差が大きく、これといった産業もないエリアでした。だから、収入を得る方法がなく、とても貧しいエリアなのです。せいぜい象を使った林業を細々と営んでいたということです。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、象の町として知られるスリンという町も、イサーンの中ではバンコクに近いところにあります。
今も、バンコクで働く女性たちの中にはイサーンの出身者が多くいます。彼女たちはバンコクで働き、故郷の両親に仕送りをしているのです。特に歓楽街で働く女性たちにイサーン出身者が多いのは、手っ取り早くお金が稼げるためでしょう。

元来マットミーシルクは野蚕によって絹を採取しました。日本のように養蚕されている蚕から取れる絹と違い、野蚕によって採られた絹は長さは半分ほどですが、太さは2倍もあるそうです。だから、質感がしっかりしている=とても腰のある絹織物が作られます。それと同時に、絹ならではの艶が強調されるので、光を反射して玉虫のように豊かな表情を見せるのです。
今は完全な野蚕による絹をとることは難しくなっていますが、それでも旧来のシルクの特徴を生かした蚕を育てています。

マットミーシルクは一時期衰退していました。
理由は店主がまだ勉強不足のため正確には分かりませんが、前にも書いたように、手っ取り早くお金を稼ぐために、重要な労働力である女性たちが都会に流出したのも理由のひとつでしょう。この地域に産業を根付かせることは、国の指導者としてとても重要な目標となっていたと思われます。
こうした状況を打開し、この地域の産業育成する意味も含め、シリキット王妃は自ら率先して伝統的な「マットミーシルク」を振興させたのです。王妃は、高品質な商品を作る生産者を直接激励したり、公式の席にはマットミーシルクで作った衣装を着て出席するなど、この品質の高さをPRしています。そのためQueen’s Silkといわれているのです。

という割には、ウボン周辺で私たちがイメージする、ちょうど京都や桐生の工場のようなものは見当たりませんでした。家内制手工業というより内職っていう感じですね。全ておばちゃんたちの手作業で作られていました。本当に1から10まで全て手作業で、ひじょうに素朴に作られています。
今回見学した工場の一つをご紹介しましょう。

ウボンラチャタニから車で30分〜2時間も走らないとたどり着けないような村。バンコク名物の野良犬より、牛の方が目立つような村でマットミーシルクは作られています。蚕を育てるところから、繭から絹をとるところなど見ていると、これだけの繭でどれだけのマットミーシルクができるの?そして、そこから得られる収入は?など余計なことも思い浮かびます。
作業しているのはみんなおばちゃん、というよりおばあちゃん。若い女性たちの多くは都会に出て行ってしまっているからでしょう。今回会った中で一番若い女性でも35歳くらいでした。
そんな風にして集められた絹を、複雑な色バランスをもって染色して、機織ににかけます。これもおばちゃんの仕事。最も重要な機織は、なんと1日1m、複雑なところだと30cmしか織れないとのことで、タイの民族衣装1着分を作るのに約1週間かかるそうです。手間と隙をかけ、熟練した技術によってマットミーシルクは作られているのです。

マットミーシルクは、日本風にいうと「絹絣」というのだそうです。絣というと日本では久留米絣が有名で、製作に手間がかかるため、とても高額ですね。絣は白い糸のある部分を糸できつく縛ってから、藍で染色します。そうすると一部分が白く染色されないまま残るわけです。
この色の縞をうまく使って織り込むことで、絣独特の井形模様が作られるわけです。文にしてしまうとこれだけのことですが、この糸を縛る部分の位置や染色、機織に熟練した技術が必要なのです。
しかし、絣よりもっと近いもの、絹を素材としたものというと大島紬があります。まさにマットミーと同様の工程で作られているものです。
マットミーシルクは大島紬よりもいろいろな色を使うものも多く、もっと複雑な工程を経ることになります。そしてこうして染め分けられた糸を丁寧に織ってゆき、柄を作ってゆくのです。
確かに大島紬とマットミーシルクを比べてみると、光を受けて微妙に表情を変えるところや、絹のしなやかさというよりは、しっかりとした腰が売り物というというところなど共通点が多く感じられます。
大島紬といえば着物一枚数百万しても珍しくありませんね。一枚買えば、何世代にわたって使い続けられます。そうした価値観というのも似ています。

高級なマットミーシルクほど、縦糸の上糸と下糸に微妙に違う色を使って作られています。だから、見る角度や光の当たり方によっていろいろな表情が楽しめるというわけです。ぜひ一度当店のマットミーシルクを見てください。その魅力の一端をご理解いただけると思います。
メニューへ▲
幸運を呼ぶプラクルァン
プラクルアンを知るきっかけとなったのは一時期運営していたネットショップへのお客様からのリクエストでした。
そこで早速、タイ人のパートナーのランさんに連絡して、「プラクルァン」のことを教えてくれるように頼みました。
彼女(パートナーは女性です)は、タイ人の中でも特に敬虔な仏教徒です。彼女の家にはそれぞれ20体近い仏像や高僧の彫像を飾ってある部屋があり、ここにはいろいろな開運のお守りなどもそれこそ数えられないほど一緒においてあります。
以前、彼女が持っている100以上の「プラクルァン」をみせてもらったことがあります。その中にはわざわざチェンマイまで行って買ってきたものや、ご利益があると評判のお寺に買ってきたものも数多くありました。そのくらいですから、調べるまでもなく、たくさんの情報を知っているとのことでした。

ご存知ない方のために「プラクルァン」の簡単な説明をしましょう。
「プラクルァン」はペンダントヘッドのようなタイのお守りです。丸みを帯びた三角形のケースの中に、仏像や、有名な高僧が彫られた金の彫像または石像が入っています。枠は金であったり真鍮であったりします。大きさは2cm〜5cm位、厚みは5mm位でしょうか。中に刻まれた仏像や高僧によって、開運、交通安全、健康、仕事運、恋愛運、金運、etc.にご利益があるといわれています。ただ、中にはアクセサリーとして作られたものもあったり、コピーであったりするものが多いので、観光客には要注意のものも多くあります。
中でもプラクルアン・ベンジャパーキーは数え切れないほどあるプラクルアンの中でも最も権威があり、ご利益があるといわれている五体のプラクルアンをいいます。正真正銘の本物は7世紀から18世紀ごろに作られたもので、もはや投機の対象として数百万バーツもするほど、高価なものです。

タイ人は自分のプラクルアンをペンダントとしていたり、車のルームミラーにかけたりしていますが、これをペンダントにするのはボリューム感もあるので重そうです。日本のお守りやお札のように、バッグや財布の中に忍ばせておくというものではないようです。そんなこともあって、店主は日本人には受けないのではないか…と思って販売を躊躇していたのです。

さて、ランさんとどんなプラクルァンを用意するか話し合ったのですが、どうも彼女の表情がいまひとつ乗り気でなさそうなのです。理由を尋ねると、「小俣さんはコピーを売るのか」と返事が返ってきました。
彼女は確かに100個以上のプラクルァンを持っています。でも、そのうち80%はコピーで、いわゆるプラクルァンの専門マーケットで買ったものだそうです。そういったものは、病気になったときとか、何か悪いことが続けて起こったときとかに買ったもので、そのとき以外ではあまり価値がないのだそうです。 彼女によると昔は高名な僧侶がお経を上げながら柔らかい石で呪文か何かを書いては消した。その消した粉を土に練りこんで作ったのだそうです。その型が仏様であったり、その高名な僧の像であったりしました。 彼女としては、プラクルァンを売るなら、高僧が修行したお寺なり、実際にご利益がある仏像があるお寺に行って、本物を買って来るべきではないか、といいたかったわけです。 そんな説明をしてくれながら彼女は20以上の本物というプラクルァンを見せてくれました。

ということで、納得させられしばらくたった日のことです。ランから連絡が入りました。プラクルアン・ベンジャパーキーが手に入るというのです。タイ王室が管理する工房で作られる、いわば正統派のレプリカでコピーではない。実際に昔と同じようにして作られているから、今最も信頼できるお守りだというのです。
ただし、注文してからでき上がるまで6ヶ月かかるといいます。値段も一般のプラクルアンから比べると破格の高さです。
とにかくそれを注文して連絡が来るのを待ちました。そして、半年が経ち、実際届いたものを見て驚きました。
それぞれのプラクルアンの背面には王室を表す紋章が刻印されています。また、四角いプラクルアン(ソムデッジ仏)には製造ロッドナンバーやアトリエの紋章なども刻印されています。タイの王室を象徴する黄色い化粧箱入りで、各プラクルアンの名称とご利益の内容などが書かれた証明書付です(タイ語表記のみ)。その証明書にもソムデッジ仏にうたれている製造番号がしっかりと印刷されています。
これなら本当に安心できるものだと納得しました。あの、仏像やプラクルアンコレクターのランも満足げでした。

前にも書いたように経験な仏教徒のタイ人は、いろいろな形で仏の力にすがろうとします。たとえばタイ人はほとんど全て自分の生まれた曜日を知っています。そして曜日毎に守ってくれる仏様が坐像だったり、立像だったり、寝像であったりとそれぞれ違います。タイ人たちは自分の生まれ曜日の守護仏が何かを知っていて、そのプラクルアンを身につけている人が数多くいます。
それと特徴的だと感じたのは、修行を積んで高い悟りを啓いた高僧も写真やプラクルアンとして敬うということです。日本ではあまり聞いたことがありません。このことはタイ人が信ずる上座部仏教と私たちの違いと考えて良いと思います。

ところで、先ほどからプラクルァンを「買う」という言葉を使ってきましたが、タイではプラクルァンを買うときは「買う」とはいわず「借りる」というのだそうです。
なんとなく、タイ人の信仰心が垣間見えると思いませんか?
メニューへ▲
タイの寺院、こんな見方も…暁の寺
暁の寺―――ワット・アルン。
タイを代表する寺院として、パッケージツアーでも必ず訪れる観光スポットです。それだけに、物売りの出店があったり、蛇使いの見世物があったりと、行ったことのある方の中にはがっかりされた方も多いのではないでしょうか。商魂たくましいタイ人ですから、この俗化の流れは止めようがないようです。それにシンボルの仏塔にしても、あまり綺麗とはいえないようなグレーですから、これのどこが!という感想を何度も聞きました。
しかし!と店主はいいたいのです。
店主がテレビ番組の制作をしていた頃、初めてタイに取材に来た20年前。日の出前にワット・アルンを撮影に行きました。なんといっても「暁の寺」ですから。
三島由紀夫の「豊饒の海―暁の寺」に書き描かれているイメージを膨らませて現場に行きました。そのときの感想は店主の文章力ではとても表せないくらい美しいものでした。チャオプラヤ川もまだ静かで、時折往来する船のバリバリいうエンジン音さえ、心の感度を増幅した記憶があります。ぜひ、三島由紀夫の美文・名文で実感していただきたいと思います。

ただ問題が一つ。
観光写真で使われているあの写真を撮影するには相当な忍耐を必要とします。一般に、ワット・アルンに行くときには艀に乗って行きますが、この発着場からはあの写真は撮れません。もう少し、50m位下流に行かないと、ワット・アルンの正面には行けないのです。そしてその正面に行くのがたいへんなのです。さて、どうしたか。店主が行った時の様子をご紹介しましょう。
艀の発着場に着いて早速襲ってきたのは表現できない強烈な臭いでした。
ワット・アルンの対岸、船着場の周辺は倉庫街で、数多くの倉庫が建っています。倉庫街ですからいろいろなものが集まります。これら収納されているものの混ざり合った匂いがものすごいのです。魚の匂い、粉の匂い、油の匂いetc.。これらが混ぜこぜになって鼻を襲ってくるのです。
この臭いの中、早速ワットアルンの全景を撮ろうと船着場の先端に出て準備を始めました。すると、カメラマンが「ここはセンターじゃないなもうちょっと下手(ワットアルンに向かって左側、この場合下流)に行かなくちゃ」というのです。見ると確かにセンターではありません。微妙にでも気持ち悪くずれているのです。
仕方なく、下流に移動しようとロケバスに戻ったものの、ドライバーのタイ人はこの先川岸に出られるのは相当下流になるというのです。どうしたらいいかと聞くと、岸を歩くしかないということでした。
朝日が昇るまであとわずか。グズグズして入られません。この倉庫街から川岸に出て、狭い護岸をワット・アルンの正面に行くまで歩いて行かなければならない。この道(といえるほどではないのですが…)を歩くのがスリリングでした。だって、まだ夜明け前の暗がりですし、チャオプラヤの水は汚れていますから岸と水辺の境目が不明瞭だったのです。加えて船の往き来による波が打ち寄せるためでしょう、路面もなんとなくすべる感じだったのです。ハンカチで鼻を塞ぎ、機材を持ってノソノソと護岸の上を1列縦隊で歩きました。
ようやく正面に着き、ハンカチで鼻を押さえながら日の出を待っていると、空が薄紫に染まった中に真正面からまだ弱い陽の光を浴びて立つワット・アルンとその前を流れるチャオプラヤ川の美しさは、そのあたりの臭いさえ忘れさせてくれるものでした。それはまさに「彼岸」というイメージを感じさせてくれるひとときでした。店主にとって、タイの原風景として今も記憶に残っています。
残念ながら、当店の看板は正面からは撮れていません。撮影を頼んだタイ人スタッフにきつく艀から撮影してはダメだといったのですが、どうも手を抜かれたようです。

ところで、店主はタイの寺院は基本的に早朝行くものだと思っています。この時間帯こそが、タイの寺院を美しく引き立たせ、またタイ人たちの信仰の真の姿を垣間見ることができるからです。タイの朝日は昇ってきたときは真っ赤な円形です。それがどんどん力を得てオレンジから黄色に燃え上がってきます。その光の強さの変化を寺院の建物は敏感に受け止めて荘厳に輝きをましてゆきます。そのとき日本では経験できない太陽の光との共存感に浸ることができます。皆さんにも、ぜひ一度この体験をしてみることをお勧めします。この瞬間から、タイフリークになること間違いナシです。

ワットアルンに限ったことではないのですが、タイの寺院は強い日光を反射しているのに見ている私たちの目をさすことがなく、その光はとてもやわらかく感じます。なんというか、鏡で日光をビカーッと反射するのではなく、フレアーがかかったように光を反射してるのです。その理由をご存知ですか?

ワットアルンに行くと特によく分かります。
仏塔をはじめ石垣にいたるまで、その装飾を良く見てみると、普通のタイルは使われていません。この寺院では茶碗を割った陶器片がびっしりと埋め込まれて、文様を作っているのです。壁面などをよく見るといかにも茶碗らしい絵が施されているのが分かります。茶碗や皿ですから当然曲面。ですから、タイの強烈な光を受けても、それを拡散して反射するのでやわらかな印象を与えるというわけです。

これは人に聞いた話なので真偽の程は定かではありませんが、昔中国に銀製品や錫製品を輸出し、帰りに空荷でかえるのも無駄だからと中国から陶器を持って帰ってきた。結局そうして大量に運び込まれた陶器も売り先がないので、これを割って寺院の装飾に利用したのだそうです。茶碗を使うことで微妙な色合いを出すことができ、またやわらかい光の反射を演出することで、仏陀の力のようなものを表現することができたのでしょう。いかにもタイ人の、あるものはどんどん使うというキャラクターが感じられる話だと思っています。

皆さんもタイ旅行の折には、ぜひ寺院の壁面をよく見てください。きっと、いかにも中国風の茶碗のデザインを髣髴とさせるものが見つかりますよ。
メニューへ▲
タンブンも見て欲しい

エメラルド寺院として知られるワット・プラッケオ。タイで最高の地位と格式を誇る仏教寺院であり、王室の守護寺。高さ約66cmのエメラルド色の翡翠の仏像が安置されていることから「エメラルド寺院」と呼ばれています。この寺は王室専用であり、タイで唯一僧侶のいない寺院だそうです。

店主が始めてタイに行った20年前。
このエメラルド寺院を訪れたときのことを今でも覚えています。ちょうどその日はタンブンの日(仏教日)で、付近の寺の僧侶たちでしょうエメラルド寺院の外壁に並んで、喜捨を受けていました。
早朝6時ごろだというのに、次々にやってくる一般の人たちと喜捨を受ける僧侶たち。そしてその背後に金色に輝く仏舎利塔。絢爛たるタイの仏教文化と、敬虔な仏教徒としてのタイ人の本質を体感できた瞬間でした。映像にも残せないすばらしい景色として強く印象に残っています。

ところでこのタンブン。
日本では托鉢と訳している場合が多いようですが、本当は「徳を積む」ということですから、喜捨する側(一般の人)に対して使われる言葉です。一般のタイ人たちは輪廻転生の思想に基づき、来世での平穏を祈ってタンブンに励むのです。
だから喜捨を受ける僧侶たちは、どんなにすばらしいものを与えられても絶対に感謝しません。感謝するのは施された僧侶ではなく、捨てた一般人です。

それにしてもタイ人たちのタンブンに対する姿勢は私たち日本人の想像を絶します。持ってくる食事は、仏教思想によれば残飯のはずなのですが、とてもそんな風には思えない。とても立派な食事です。タンブン用のセットも売っているそうです。これらの食事を次々と僧侶の持っている鉢に入れていきます。これでようやく残飯になった。

店主のタイ人のパートナーは敬虔で熱心な仏教徒ですから、タンブンするものも半端ではありません。一月に4回あるワン・プラ(仏教日)にはいろいろなものを喜捨します。ある時、ベンジャロンのティーセットおよそ1万バーツの品(!)をわざわざ買って、そのままポンとお寺に寄進してしまいました。これには店主もビックリでした。

皆さんもタイ旅行のときワン・プラに当たったら、早朝にワット・プレッケオに行くことをお薦めします。
すばらしい体験ができることを保証します。
メニューへ▲
古式マッサージはゆっくり、じっくり
エメラルド寺院として知られるワットプラッケオの裏手にワットポー(涅槃時)という寺院があります。ここは長さ約50mもある金箔で覆われた寝釈迦の像で有名です。このお寺を訪れた人は必ずこの仏像の写真を撮ろうとするのですが、巨大さのあまりどうしてもお顔の部分のみになってしまうのです。何とか全身を撮影したいと試みるものの、入り口の真ん中に柱があるため断念せざるを得ません。それでも、燦然と輝く金箔に包まれ、涅槃に入るお釈迦様の表情は参拝する人々をやさしく包んでくれているようです。

この涅槃仏をお参りした際にぜひ見ていただきたいのが、このお釈迦様の足の裏。バラモン教の影響を受けた、タイ仏教の世界観を表したものといわれていますが、これが緻密な螺鈿細工で描かれているのです。このタイ人たちの仏教に帰依する信心深さと、技術力には感心してしまいます。
今でも、タイでは螺鈿細工が盛んで、チェンマイの木工細工の店や家具店には細密な螺鈿の柄が施されたテーブルや椅子が並んでいます。このワットポーの歴史と伝統が今も息づいているということでしょう。

そしてここは、バンコクで最も歴史が古く、またタイで最初の大学があったという由緒あるお寺です。今は、タイの伝統的医学を伝える形でマッサージの学校が、タイの古式マッサージの総本山として残っています。手に職を求めるタイ人女性たちが多勢ここで古式マッサージの技術を学んでいます。もちろんここでマッサージを受けることも可能。2時間から2時間半くらい、じっくりと揉んでもらうのをお薦めします。

最近、バンコク市内では日本の影響でしょうか、フットマッサージがブームで、全身マッサージをするところが減ってしまっています。特にホテル街は今や足の裏のツボを示した看板だらけとなって、全身マッサージというと嫌な顔をされるくらいになっているようです。
ゴルフをして、ホテルに戻り、40分から1時間くらいフットマッサージをしてから夜の食事というのが一般的な行動パターンとなっているせいでしょう。店主はどうもこれには賛同できません。
でも、客も喜び、マッサージする方も楽して金が稼げるからよいと喜んでいるので、これからも増えてゆくことでしょうね。やはり、じっくり足から腰にかけて1時間から1時間半、上半身に1時間かけてマッサージしてもらうというのが本当のタイマッサージのスタイル。下半身をマッサージしてもらっているうちに、気持ちよくなってついウトウトしたりして…。これをぜひ体験していただきたいです。
また、市内には古式按摩と看板に書かれていても怪しげなサービスの店も多く(それはそれでよいという人もいるでしょうが…)、安心してマッサージを受けるのなら、やっぱりワットポーに行くのが一番でしょう。

パッケージツアーの20分区切りの観光はそれとして、それぞれのお寺でたっぷり時間を割いて、じっくりと見て回ることをお薦めします。早朝にホテルを出てワットアルン(暁の寺)を見て、その後エメラルド寺院と王宮の絢爛さに圧倒されて、最後にワットポーにお参りしてからマッサージ。疲れも癒やされて最高の気分でホテルに帰る。
艀に乗る以外は歩いても回れるエリアですが、ここを1日かけてゆっくりと見てまわって、タイの魅力を十分に味わっていただきたいと思います。
メニューへ▲
タイシルクの魅力を知ってほしいッ!
タイといえば辛〜い料理とシルクを思い浮かべる方も多いことでしょう。
でも、タイシルクってどこがいいの?他のシルクとどこが違うの?そんなことまで知っている人は少ないようですね。

タイシルクの一番の特徴は「繭」にあります。「繭」というのは白いもの…というのが日本や中国のシルクです。でも、タイで元々生産される「繭」は黄色いのです。タイのマットミーシルク、ミャンマーのマンダレーシルクなど超高級絹織物はこの『黄金の繭』から作られます。
『黄金の繭』の特徴は、日本の繭に比べて繊維が太く、短い。だからしなやかさよりは、独特のコシがあります。またこれを手作業で紡ぎますから、工業的な紡績に比べて繊維の太さにムラが出ます。これが、日の光を反射していろいろな表情を見せるのです。このコシの強さと、光と遊ぶような表情がタイシルクの真髄です。
当店でもご紹介しているShinawatra(シナワット)は、今も質の高いタイシルクから伝統的な織り方を守りながら魅力あふれる商品を提供してくれています。

アメリカ人のJim Thompsonはこの伝統的なタイシルクに魅せられて、これに西洋的なデザインを融合させ、今のJim Thompsonのスカーフやポーチを作り上げました。Jim Thompsonのスカーフは一部シフォンスカーフのような企画品はありますが、一般的なスカーフはほとんどジャカード織りです。これはタイシルクの生来もっている特長に加えて折柄をつけることで、一層日差しを受けたときの表情を豊かなものにするため最良の織り方です。一見茶色に見えるスカーフが、日差しを受けると実はゴールドに輝くとか、写真だけでは分からないいろいろな顏を見ることができます。

店主が思うタイシルクの一番の魅力。
それは「日差しと遊ぶ」ことができること。これから冬に向けて日差しが低くなりますから、時間によっていろいろな表情を見せてくれることでしょう。
メニューへ▲
ロイカトーンは雨の中を流れていった
11月16日はタイの秋のお祭りロイカトーン(灯篭祭り)でした。
ご存知の方も多いと思いますが、ロイカトーンの歴史は古く13世紀〜14世紀のスコータイ時代に始められたといわれています。
起源にはいくつか諸説あるようですが、旧暦の12月の満月の日にバナナの葉っぱなどで作った蓮の花の形をした舟を流すことで、水に感謝し、また自分自身の不幸や災いを洗い流し、翌年の平安を祈る伝統行事です。船にはロウソクや花火、お香を立て、それに火をつけて川に流します。元々は、春のソンクラーンのにぎやかな水掛祭りと違って、厳かで静かなお祭りだったようです。まさに「天国の微笑み」の国の荘厳なお祭り。
ところが、今は美人コンテストが開催されたり、派手に飾った船が出たりと、とても賑やかなお祭りに変わってきています。実際店主が行ったチャオプラヤ川には8艘もの大型遊覧船が派手な電飾を施し、音楽を大音響で流しながらパレードしていました。中にはダンサーたちのショーがあったりしたようです。
まあそれはそれで綺麗なのですが、人々が静かに川にカトーン(灯篭)を流してお祈りしている姿の向こう側を移動している様子は、妙なバランスを演出していました。

このお祭りの本家ともいえるスコータイという町でも同様のようで、この祭りのメインイベントは美人コンテストで選ばれた美しい女性たちがカトーンを流す時だとタイ人の友達が言っていました。スコータイのロイカトーンには毎年2〜30万人が集まるといいますから、小さな古都の一大イベントには違いないのですが、この演出どうなのでしょうか?まあ、イベント好きのタイ人らしいといえばそうなのですが…。

その日店主が行ったのは王宮近くのチャオプラヤ川の遊覧船の船着場。次々と家族連れや恋人たち、大学の友達などが集まってきています。なんとなくクリスマスイブのような雰囲気です。実際このお祭りを愛の告白の日とする恋人たちも多いそうです。祭りが、愛を育むというのは日本もタイも変わらないのですね。
王宮を巡る道路の川側にはたくさんの出店がカトーンを並べて売っていました。1個20〜50バーツほどだそうです。集まってくる人たちはこの店でカトーンを買ってゆきます。なんだかこの光景だけ見ると浅草・鷲神社のお酉様のお祭りのような感じがしなくもありません。時期も近いですし…(^^ゞ。った人と店の人との手締めはありませんでしたけどね。
グループごとにいくつかのカトーンを買い、ロウソクとお香に火をつけて船着場のたもとからそっとチャオプラヤ川に流していました。

ところがこの日、夜10時前からは雨が降り出し、ここからがたいへん。本来ならとうに雨期が明けて雨など降らないはずのシーズンですが、今年は雨が続いています。この雨と風のためにロウソクに点けた火がすぐに消えちゃう。点けてもつけてもすぐ消えちゃう。そのうちお香はとぼってしまうし、せっかくロウソクに火が点いても川に流した途端に消えてしまいます。日本の精霊流しのようにいつまでも続くほのかな光の帯…は作られることなくただ色とりどりの蓮の花の模型が川を漂っているという味気ない画になってしまいました。

味気ないといえば、10時頃から花火が何発か打ち上げられたのですが、これも空にとどろく稲光の影響で興ざめ。なんとも異常気象に趣をかき消されたロイカトーンとなってしまいました。
メニューへ▲
タイが黄色い波に揺れた日
店主がバンコクに着いた6月9日、ドンムアン国際空港はただならぬ空気に包まれていました。到着ゲートから入国審査に向かう間に、国王の写真を飾った大きな祭壇が作られ、旅するタイ人たちは一様に手を合わせて拝んでいましたし、いつもはいかめしい制服の入国審査官や税関の係官も、そしてうるさく客引きをしてくるエアポートリムジンのスタッフまで黄色のポロシャツ姿。
ちなみに黄色は王室を象徴する色でプミポン国王の誕生日の色でもあります。だからポロシャツの胸には王室を表すエンブレムがついています。このポロシャツを着ていないのは商魂たくましいKing Duty Freeのおネエさんたちだけという状態です。

これは間違いなく国王在位60周年の祝賀ムードが異常なまでに高揚しているゾ!と感じずにはいられませんでした。それはある意味、殺気まで孕んでいるほど。「私こそ一番国王をお祝いるするんだからね。訳の分からない外国人は邪魔しないように!そこんとこヨロシク!!(フンッフンッ!)」的な空気です。

一般的にタイ人はとてもお祭好き、イベント好きです。それはタイに初めて来た18年前、最初に実感したことでした。どんなに小さな、さして取るに足らないようなイベントでも目一杯パワーを発散させながら盛り上がるのがタイ人です。
加えて!!
タイ人たちがこよなく敬愛するプミポン国王を祝賀するという国家イベントですから、尋常なことですむわけがありません。
黄色いポロシャツがあふれる空港を出て、店主がいつも使う秘密のポイントからタクシーに乗るとその運転手もまた黄色いポロシャツ。聞けば、しばらくの間はこのシャツを着ていないと空港での客待ちができないとか。その車に乗ってアパートへ行く道すがら、車窓から見える人々もやっぱり黄色のシャツ!。ポロシャツに混じってTシャツ姿も見られますが、皆一様にお揃いの柄と色です。皆、記帳して購入したシャツを誇らしげに着ているのです。当然、手首には山吹色のミサンガを着けていることはいうまでもありません。

アパートに着いて…。
普段はグレーのブラウスとジャケットに深紅のスカーフを巻いたユニフォームで天使の微笑とともに迎えてくれるレセプションのスタッフまでが全員黄色のポロシャツ!そればかりか、セキュリティーのオジサン、レストランのホール係に調理のオバチャン、掃除係のおネエさんにランドリーのスタッフにいたるまで全部黄色いポロシャツ!まさに黄色1色です。
店主は自分のラッキーカラーは黄色と信じ、大好きな色なのですが、ここまで街中が黄色に溢れるともうGIVE UP!まして、雨期に入っているというのに強い陽射しを受けて眩しいことこの上ない状態です。
でもちょっと待って!
一般参賀が予定されているのは明日10日。その後、日本の天皇陛下はじめ28カ国の王室の方々が列席されての公式祝賀会は12日と13日。
もっともっと盛り上がるに決まっているというのに、これからどうなるんだーーーーーッ!

アパートの部屋に入ってテレビを点ける。
町の様子などタイのテレビ局はどのように報道してるかとチャンネルを合わせてみると…、テレビのキャスターもあの黄色いポロシャツです。そして、放送されている番組は各局同じもの、国王の一般参賀の様子が流れてきました。王宮付近で開催されているようです。そこには黄色いポロシャツ姿の国民たち数万人が集まって国王とロイヤルファミリーの登場を待っています。中には赤ちゃんにまで黄色い服を着せてきている人がいるほど、会場は黄色に埋め尽くされていました。
番組では、ロイヤルファミリーが登場されるまで、参加者へのインタビューが流れました。その中で茶髪でロッカー風の青年が、黄色いポロシャツを着て「国王の健康と永遠を祈ります」と涙ながらに語っていたのが妙に印象的でした。その他にも、このイベントのためにバスに10時間以上揺られてこのイベントに参加した女性などのコメントが流れていました。
そして、国王の登場。
参賀に集まった人たちは一斉に拝んでいます。拝むといっても日本のようにただ合掌するだけではありません。地面に座り、手を合わせ、頭を地面に擦り付けることを繰り返します。まさに仏様を拝むのと同じ形で、老若男女が涙ながらに国王を拝んでいます。その様子は、まさに黄色い波が打ち寄せるように、いつまでも続いていました。国王の祝賀セレモニーはこれで最高潮に達しました。

一般参賀が終わった後、全国の祝賀の様子が映し出されました。エメラルド寺院内に記帳所が設けられ、そこに並ぶ人々の列。店主は昭和天皇の崩御前に貴重に並ぶ人々を思い出しましたが、その数は比較になりません。数万人は並んでいることでしょう。人々は祭壇に向かって丁寧に拝んだ後記帳しますから、最後尾の人(それは続々と集まってくるので伸びる一方です)はいつになったら記帳できるのか…という状態です。中にはイスラム教徒(タイ人)も涙ながらに記帳していました。

銀行では記念紙幣も出たようで、それに交換する人たちがまた長蛇の列。数時間かかってようやく交換できたそうです。
郵便局では記念スタンプを押すのに並ぶ人たち。紙幣を交換する時には紙幣に向かって、スタンプを押したらスタンプに向かって拝みますから、なかなか列は進みません。
タークシン首相も町に出て祝賀会場を歩き、一般の国民からの意見を丁寧に聞いていたのも印象的でした。何を言っているのか内容は分かりませんでしたが、切々と首相に何かを訴えているお年寄りの女性の姿が印象的でした。
インパクトというバンコク郊外の広い展示場では国王の幼少の頃からの写真が展示されるイベントが開かれていました。ここに来た人たちは中央の大きな祭壇にひざまずいて拝むのは当然のこと、子供の頃からの写真一枚いちまいに向かって拝んでいました。お年寄りの人たちは子供や孫たちに、国王の幼い頃の思い出など涙を流しながら話しています。
タイ全土が国王の在位60年を祝賀する様子が放送される中で、店主はふと日本の昭和60年の時は…と考えてしまいました。そして今、そして将来。私たち日本人、1億2千万人全員が心を合わせるときというのはあるのだろうか…。それで私たちは幸せなのだろうか。
プミポン国王の在位60年を祝う空気(今も続いています)を肌で感じるにつれタイという国を羨ましく思え、また日本という国が寂しく思えてきました。

6月12日は世界中の王室を持つ国々の中で28ヵ国の国王や皇太子が集まる公式祝賀会が開催されました。
日本からは天皇皇后両陛下が招待されました。このときもテレビ局は全局同じ、この公式祝賀会の模様が約1時間半にわたって放送されていました。招待されたのはこの他にアジア諸国からはカンボジア、ブルネイ、ブータンなど、アラブ諸国からはサウジアラビアなど、そしてヨーロッパからはスペイン、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、モナコなどの国王夫妻や皇太子が列席していました。この中で、天皇陛下ご夫妻は各国のロイヤルファミリーと親しく歓談され、丁重にもてなされているという印象を受けました。
公式祝賀会の式典の中で最も印象に残ったことがあります。
タークシン首相が国民を代表して国王に対して祝辞を述べた後、国王が在位60年に向けて国民たちにお言葉を述べられました。そのコメントが終わると同時に音楽流れて、参列している各国代表や官僚たちは拍手するタイミングを失っていたのですが、天皇陛下が最初に拍手を始められ、次いで皇后陛下、それに習ったかのように参列している人たちの拍手で会場があふれました。こうした様子は日本のニュースでは流れていませんでした。日本国民として、ちょっと気持ちがいい瞬間でした。

その後、夕刻からは会場も服装も替えて荘厳な船のパレードをご覧になるイベントが開催されるなど、この日は世界のロイヤルファミリーの方々とのイベントを放送することに全テレビ局が集中していた6月12日です。

6月12日…?
そう、ワールドカップサッカーで日本代表対オーストラリア代表の試合の日です。タイでは全局が船のパレードをご覧になる各国代表の到着からお帰りになるまでしっかり放送されたため、なんとこの試合の前半は全く見られませんでした(;O;)。
サッカーフリークの店主としては何とかしてほしい時間が流れたのですが、なぜか久々に心温まる時を過ごしたなと感じられる時間でもありました。
メニューへ▲
タイのティッシュは色即是空
一般の旅行者の方はあまり実感することはないと思うのですが、紙というのは世界各国でいろいろと特徴があります。
以前製函業をタイで営んでいる方に聞いたところ、日本の製紙技術というのはひじょうに高いレベルにあるのだそうです。特にコピー用紙などは、あの薄さであの強度を持っているのは日本が一番なのだそうです。そういわれてみると、以前の仕事でいろいろ海外に行っていた頃、現地で渡される紙資料などの表面が妙にザラザラしていて、また厚みも日本に比べるとあったように記憶しています。
タイでも、やはりコピー紙などはとても厚く感じます。とはいっても、500枚の束にして1cmも違わないくらいなのですが、ちょっと触っただけで肉厚な感じがします。先程の製函業の方の話では、日本の紙と同様の強度を持たせるためにはどうしても厚くなってしまう。技術の差がでているのだそうです。

それから、店主が気になっていたのがタイのダンボールの箱。これがもろくてすぐに傷や穴が開いてしまいますし、ちょっと水に濡れただけですぐに底が抜けてしまいます。特に今のように湿気が多い時期だと、航空便などを送ると、低温に冷やされた荷物が外気の湿気を吸っただけで、もうボロボロになっているケースも少なくありません。そのため、大量の荷物を送る際には、強度や耐水性をもった高額な梱包材を使わざるを得なくなります。それが悩みのタネです。

先日BTSという高架鉄道に乗っている際に、日本人の40代くらいの女性観光客数名が乗っていました。その方たちの話しているのを聞くともなしに聞いていると(それだけ声が大きかったということですね)、こんな内容でした。
町を歩いていて、普通の食堂や屋台などにトイレットペーパーが置いてあった。みんなその紙で食べ終わったあと、口を拭いていた。トイレットペーパーで口を拭くなんて考えられない。せめてティッシュペーパーにしてほしい。ああいうところで食事しなくて良かった。やっぱり貧しくて物がないからね。
なぜか東南アジアについてはこの言葉で結論付けられます。

さて、このご婦人たちの言葉に、店主はちょっと違和感を持たずにはいられませんでした。トイレットペーパーは何もトイレで作っているわけではありません。トイレで使用した紙を再生しているわけでもありませんよね。ただ通称がトイレットペーパーとされていて、トイレでの使用に適したように水に溶ける性質を持った柔らかい紙のはずです。
トイレットペ−パーという名前があるから、何か不潔なものというイメージが先行しているだけなのではないでしょうか。または、ロールペーパーはトイレで使うものという固定観念があるのではないでしょうか。

確かに、タイ人などが普段行く食堂や屋台、一般家庭、いえ高額所得の家庭でもこのロールティッシュは、日本のティッシュペーパーのように広く使われています。ジムトンプソンにも、シルク製のロールティッシュホルダーがあったはずです。それほど生活に密着しているものです。
使う時のルールは、中の芯を抜いて中央から引っ張り出して使うことが多いようです。タイの紙ナプキンは、小さくて薄くて弱くてと低品質の3拍子そろったようなものですから、ロールティッシュのほうがよほど使い勝手がよいのです。屋台などで席に着いた客は、まずこの紙を長めに引き出し、テーブルを拭きます(仮にテーブルがきれいでも…です)。そして、スプーンとフォークが出てきたら(一般にタイ料理はスプーンとフォークで食べます)、また新しく紙を短めに引っ張り出してこれをキュッキュッと拭きます。そして食べている最中も頻繁にこのロールティッシュを引っ張り出しては口を拭ったり、テーブルを拭いたりしているのです。

そこにあるのは柔らかくて、使いたいサイズに調節することができるとても便利な紙です。
ちょっと硬い話になりますが、日本に伝わる大乗仏教の基本的なお経「般若心経」の中に『色即是空 空即是色』という言葉があります。人間の固定観念を解き放つことを説いた言葉と理解しています。
タイなど東南アジアに伝わった上座部仏教にこうした言葉があるかどうかは知りませんが、なぜか意味のない先入観や固定観念に縛られている日本人と、あるものを便利に使うタイ人との差が垣間見られたようでした。それだけ日本人の「拠り所」というのがなくなっている、というのでなければよいのですが。
メニューへ▲
タイ人にもある「もったいない」の心
ある日の午後、一人でゆったりとゴルフを楽しんでいました。店主がプレーする時は、いつも行くコースであれば同じキャディーに連絡することにしています。その日も馴染みのキャディーと冗談を言いながらプレーをしていました。
16ホールあたりまで進んだころ、突然そのキャディーがスットンキョウな声をあげ、笑い出したのです。普段はどちらかというとおとなしい部類に入る彼女の声に、思わず何事かと振り向きました。どうしたの?と聞くと、ボールペンのインクを完全に使い切ったというのです。

話はちょっと横道にそれますが、タイではゴルフをする時には1人のプレーヤーにキャディーが1人。日本のように4人のプレーヤーにキャディーが1人というようなことは絶対ありません。そしてこのキャディーがよく働くのです。クラブを運ぶ、ボールを拭くなどは当たり前。スコアだって厳密に打数を数えてスコアカードに記入もしてくれます。
もう一つ余談ついでに…。タイ人が鉛筆というものを使っているところを見たことがありません。すべて青のボールペンです。だからキャデーがスコアカードをつけるのもボールペンです。

店主が指名しているキャディーはそのボールペンのインクを使い切ったというのです。確かにスタートした時からスコアをつけるときにちょっとイライラした様子を見せていたので、きっとインクの出が悪かったのでしょう。それが15番ホールを終わって遂に息絶えたのです。
彼女が言うには、このボールペンを2年近く使ったというのですから、物を大切にする姿勢はたいしたものです。「新しいインクを買わなくちゃ」とちょっと悲しげな表情でいっていたのが印象的でした。

ただ、ものを大切にするというのはこのキャディーに限った話ではありません。タイ人というのはだいたい物を大切に使います。

もう一つ同じゴルフ場で見かけたものを大切に使うエピソードをご紹介しましょう。
タイのゴルフ場には、だいたい3ホール毎に休憩所があります。その休憩所で飲み物などを売っている女性スタッフが何かをしきりに木製のカウンターにぶつけていました。
何しているの?と聞くと「ラジオの電池が切れちゃったの」との返事。こうやって電池をたたきつけると電池の寿命が延びるというのです。そういいながらも電池をたたきつけています。もうきっと100回以上はこうしていたのでしょう。

実際、ラジオに電池を入れいれるとしっかりと音楽が流れてきました。「これで今日一日は大丈夫」にっこりしたその表情は、まさに天国の微笑みのように感じられました。

ノーベル平和賞を受賞したケニアのマーサイさんがいった日本人の「もったいない」の心。この彼女が言ったこの言葉を聴いたとき、店主は日本人に今もこんな心があるだろうかと、なにやら面映い思いをしました。タイ語にはこうした言葉はないようですが、物を大切にすることから見出された生活の知恵を、まだ若い女性までもが知っている。そんな生活をしているタイ人に頭の下がる思いをした一日でした。
メニューへ▲
タイ山岳民族に愛の手を差しのべた人たち
タイ北部、ミャンマーやラオスとの国境地帯には十数部族、約75万人の少数民族が生活しているといわれています。カレン族、ヤオ族、モン族、アカ族、リス族などという民族の名前を聞いたことがある人もいらっしゃると思います。彼等はそれぞれが伝統的な世界観と文化をもって生活してきました。
例えば首長族。首輪をたくさんはめていて、そのために首が長くなっている女性は世界的にも有名です。彼女たちはカレン族の中の一部族といわれています。
どの民族も独自の言語をもち、それぞれが自分たちを特徴付けるオリジナリティーあふれた民族衣装をもっています。もともと、彼等の生活の基盤は焼畑農業による自給自足で、数年〜十数年ごとに集落移動を繰り返してきたといいます。
ところが、タイ政府の森林保護政策により、森林の伐採、焼畑が禁止され、定住を余儀なくさせらせました。彼等は以前のように肥沃な土地を求めて自由に移動することができなくなり、かぎられた土地で農耕に従事しなければならなくなりました。土地のやせた山の傾斜地では収穫量が極端に低下し、今では主食の米でさえ自給できなくなっている村も多くなっているそうです。長年培ってきた生活の基盤を失った彼等は、今貧困にあえいでいます。

そんな彼等に救いの手を差しのべている人たちがいます。
タイ第二の都市チェンマイの中心街からちょっと外れて、民家が立ち並ぶところにSop Moei Artsというショップがあります。民家を改造したもので全く目立たない建物なのですが、ここが少数山岳民族の人たちの生活を助ける拠点となっているのです。
ケント・グレゴリーという、多分オーストラリア人男性がこのショップの主宰者です。彼は1980年代、SIDAというスウェーデンの開発支援機構の支援を受けて、健康管理プロジェクトを立ち上げました。その後、カレン族の中でも少数部族のポー・カレンと呼ばれる人々のもつ工芸や織物技術に注目し、それを彼等の収入基盤とすることを目指したのです。
ポー・カレンは優れた竹工芸の技術と機織の技術を持っています。ケントさんは、これに西洋的なデザインを注入して新たな工芸品を作り上げることに成功しました。ちょうど1960年代にジムトンプソンがタイシルクを世界に広めた過程に似ています。
卓越した技術を生かしつつ、西洋風のデザインで、西洋的なライフスタイルに適応する物作りを教えることで、新しい彼等の可能性に道を開いたのです。実際、このSop Moei Artsで製作・販売する商品は、多くの有名デザイナーがそのデザインを提供しているといいます。そして、これらの商品を売ることで得た資金を元に、健康管理プロジェクトを成功させ、また独自の奨学金制度もスタートさせています。
ケントさんの活動に共感したオーストラリア公使の公邸では、ポー・カレンの工芸品が数多く使われているという話を聞きました。彼の活動が着実に根付きつつあるということでしょう。今はバンコクにもショップを開き、欧米からの観光客に受け入れられています。この組織には日本人も参画して事業運営に協力しているということです。

店主がチェンマイのショップを訪れて商品を見たところ、ちょっと日本の生活にはどうかな?と思う商品が多く、また価格も一般のものに比べると相当高額でした。ただ、これらの商品が売れて収益が上がることで、栄養失調に悩まされていた子供たちの健康が守られ、学校にも通えるようになると思えば致し方ない価格かもしれません。いつかはジムトンプソンのような世界的なブランドになってくれれば良いと思っています。

一方、日本人のボランティアグループも山岳民族の教育支援活動をしています。
さくらプロジェクトというグループがそれで、店主はまだ直接お話をしたり、活動内容を見たことはないのですが、着実にその活動が実を結んでいるということです。
タイ政府は、その森林保護政策により定住を余儀なくされた山岳民族をタイ国民と認める方針を明らかにしました。これにより山奥の村にも小学校を作り、タイ語による教育を進め、さらには中学3年までの義務教育は保証された形にはなりました。
しかし、それは形のみで、実際には予算も人材も不足しているそうです。校舎はできているけれど先生がいないなんていう状況の学校がいくつもあるといいます。
もっと深刻な問題は、子供たちが生活しているところは山奥なので、学校に通いたくても通えないという子供が数多くいるということ。ほとんどの山村で、中学校が通える距離内にはないというのが実情のようです。この対策にタイ政府も頭を悩ましているようです。

さくらプロジェクトは1991年からこれら山岳民族のための教育支援を行っているそうです。そのホームページから彼等の活動状況をご紹介すると、「現在、チェンライ市のナムラット村のユナイテッド・ビレッジ・スクールという私立の小中学校の敷地内に、すみれ館、ひまわり館、しらゆり館という3つの寄宿舎を運営し、147名の子供たちがここで共同生活をしながら最寄りの小中学校や高校、職業訓練所に通学しています。」と記述されています。ここにも一つ草の根の活動が花開こうとしています。

ただ店主が一つ心配なのは、民族がこうした支援を受けることによって、それまで培ってきた独自の文化、伝統、世界観といったものがこわされてゆくこと。タイという国は、ある意味日本以上に形にはめたがる傾向を感じています。西洋のセンスを注入すること、タイの学校に通わせること、それがために彼等のオリジナリティーが失われなければ良いと思っています。

それと同時に彼等山岳民族のことが取り上げられることで、観光化が進むことも心配の種です。先にもご紹介した首長族と呼ばれる山岳民族がいます。彼等が住むメイホンソンという村は今や観光地です。昔ながらの静かな生活というのは失われてしまいました。
カレン族の中の首長族でも、首輪をするのは水曜日に生まれた女性に限っていて、それは彼女達の伝説から生まれた風習です。だから、実際に首長族の村に行っても、首を長くしている女性というのは数が少ないのです。それでも観光客は首を長くした女性を求めて集まってきます。彼女たちは民族衣装を着て観光客を迎え、売店にたってみやげ物を売っています。まさに客寄せの道具となっている。
これはどうなのだろうか…。
少しでもお金を稼がなければならない状況にあって致し方ないことなのかもしれないけれど、とても悲しい気がします。
メニューへ▲
タイではタイ風を満喫して欲しい
バンコク国際空港で耳にする日本人旅行者たちの会話。
・「タイマッサージは気持ち良いと聞いていたけど日本と変わらなかったな。」
・「タイのエステは安いと思っていたけどたいして安くなかった。」
この2つは必ずといってよいほど日本人の旅行者から出てきます。当然のことながら、一つ目は男性たちの、そして二つ目は女性たちの会話です。

興味本位に聞き耳を立てると、マッサージに行った男性たちの話はだいたい以下のように続きます。
「足のマッサージだけだったし、時間も1時間もやらなかった。」
「値段も聞いていたより高かった。」
「こんなくらいなら日本で行っても変わらないな」
ちょっと待ってください、と店主はいいたいのです。皆さんはツアーのオプションに申し込んでグループでフットマッサージに行ったのではないですか?と。今、バンコクは日本でフットマッサージが流行した影響か、同様の店が増えています。場所によっては100mも歩くと、4〜5軒のマッサージ店があるようなところもあります。オプションツアーで設定しているのは大体夕食前ですから、時間的にも1時間というのは代理店にとって適当なのでしょう。
だって、考えてもみてください。グループとはいえ、車での送迎付き。代理店がマッサージ料金、マッサージ師へのチップに利益を上乗せしますからすぐに4,000円(1,200バーツ)くらいにはなってしまいます。

こんな会話を耳にした時、店主は「タイのマッサージは2時間〜2時間半が基本なのをご存知ですか?」と何度も口を挟みたくなる衝動に駆られます。
タイの古式マッサージは個室またはグループ用の部屋で、マッサージ着に着替えて横になって受けます。マッサージは足の先から始まります。そして徐々に上に上がっていって脚の付け根までたっぷり1時間かかります。そこから背中から肩を揉まれて、上体をえび反にされたり(これは気持ちよいです)、捻られて背骨をボキボキをやられた後、顔のマッサージで終わります。やはりせっかくタイに来たのですから、ぜひこのフルコースを経験していただきたいと思ってしまうわけです。
これで、店主がたまに行くマッサージ店で、店に300バーツ、マッサージ師に300バーツで終わりです。フットマッサージというのには店主はいったことがないので確かなことは分かりませんが、多分店に250バーツ、マッサージ師に200バーツというところでしょう。
マッサージの本場とはいえ、どこの店でも上手とは限りません。中には古式マッサージとはいえちょっと怪しげなところも少なくありません。だからオプションで安心できる店を…というのも分からなくはないのですが、老婆心ながらいわせていただけば、これすらも安心には値しません。それは市内観光でつれて行かれるおみやげ物屋を考えていただければ分かるはずです。

やはりここは、日本を出る前にホテル近くのフルコースのマッサージ店の情報を調べて行くのが良いと思います。もしそうした情報が集められなければ、ホテルのコンシェルジュに聞いてみるのも良いでしょう。普通ツアーなどで利用するホテルならば必ず日本人か、日本語ができるスタッフがいます。ホテルのそばで、フルコースのマッサージが受けられて、上手な店を教えてくれるはずです。

エステも同じことです。いえ、それ以上にインターネットなどに情報が溢れていますから良い店を探すのは簡単です。店主の友人のタイエステフリークの女性は、いくつかのエステショップを日本でリストアップしておくといいます。バンコクに着いたら、それぞれに直接電話し、希望のコースなりサービスを指定して料金を確認。一番安いところに行くといいます。ことばの問題もありますから、なかなかここまではできないと思いますが、やはりホテルのコンシェルジュに頼んで予約してもらえばよいでしょう。

タイという国は、お客の要望はできる限り聞いてくれるところです。無茶でない程度に自分の要望を伝えて、満足できるサービスを受けるようにしたほうが絶対旅が楽しくなりますよ。
メニューへ▲
シナワット・タイシルクを知ってほしい
タイの古都チェンマイはバンコクに次ぐ第二の都市でもあります。
とはいえ、バンコクのような高層ビルが林立するというわけではなく、こじんまりとした印象を受ける街です。このチェンマイの空港から車で2〜30分ほど走るとサンカンペンという村があります。ここが、今回ご紹介するShinawatra(シナワット)の故郷です。

1911年、客家と呼ばれる中国系のチャン・シナワット氏がこの地で、伝統的な絹織物を集めて生産・販売するようになったのがその始まりです。客家というのは商売上手で、華僑として世界各地に進出し、独自の文化をしっかりと守りながらも、現地とうまく融合している人たちです。
チャン氏は元々中国福建省あたりの出身といわれ、雲南からベトナムを越えてタイに辿り着いたようです。そして、彼も他の客家の人たちと同様、新天地チェンマイに根をおろし、自らの存在意義をそこに求めたのです。そんな彼はタイに伝わる伝統的な絹織物と出会い、これを販売することを自らの仕事としたのです。
その頃、タイの絹織りものはいわゆる家内制手工業にもなっていないようなレベルで、細々と作られていたといいます。
中国から移り住んできたチャン・シナワットはこの絹織物に着目したのです。まず彼は、チェンマイ一帯の腕のいい織子をまとめることに成功しました。こうして作られたシルクは、最初のころはバンコクやチェンマイ、ビルマ(ミャンマー)などで売り歩いたといいます。

そうして1929年、Shinawatraブランドとしてタイ初のシルク製品メーカーとして絹織物の会社を設立したのです。
社長となったチャン氏が最初に行ったのは、品質の均一化だったといいます。先にもご紹介した通り、この時代の絹織物は各家庭がそれぞれのレベルで作っていましたから、品質はバラバラ。加えてこの頃の機織機というのはひじょうに素朴なものでした。店主は一度だけ実物を見たことがあるのですが、どう見ても高品質な織物はできないだろうとしか思えないような簡単な作りのものでした。そのために新式の機織機を大量に導入しました。
新式とはいっても、もちろん自動織機などという機械ではなく、人力の機織機です。このときから手織りにこだわりを持っていたことが伺えます。これを使って品質を高いレベルに引き上げ、同じクォりティーのものができるよう指導したのです。
ついで、それまでの染色方法にも独自の改良を加えて、美しい発色を実現しました。またヨ−ロッパのセンスを取り入れたデザインを積極的に発表するなど、着々とその評価を高め、その結果、販路を大きく広げました。これはまだジムトンプソンがスタートするはるか以前。まだ第二次世界大戦前の頃だといいます。

チャン氏以降の息子たちやファミリーのメンバーは常にハイセンスで高品質なシルク製品を世に出すことに努め、タイでも有数の富豪となる程の成功を収めました。そして、今ではタイ国内だけでなく、ヨーロッパやアメリカでも高い評価を得るにいたっています。
余談ですが、タイの元首相のタークシン氏は、フルネームをタークシン・シナワットといい、この一族の出身です。

このシナワットにせよ、あのジムトンプソンにせよタイシルクの発展に寄与したのがいずれも外国人だったことはちょっと以外です。でも、日本の浮世絵がそうであったように、その国に生きる人よりも外から来た人の目で見たほうがそのもののよさというのを正当に評価できるということなのでしょうか。
メニューへ▲
森から追い出された象たちの行き場
タイといえば象。今月(11月)に行われるスリンという町の象祭では、象を使って戦争をしていた頃の再現や綱引きをするなど数多くのパフォーマンスが繰り広げられます。そこに出場する象の数は100頭にもなるそうです。
またブリラムというところでは象の水泳大会も開催され、それを以前取材したこともありました。 それほど東北部から北部では象が生活と密接にかかわっています。山に入り、伐採した木の運搬するなど、象の労働力はその地域に住むタイ人たちにとって重要なものであり、収入を得るための重要なパートナーだったのです。
ところが、1989年森林伐採を禁止する法律が施行されました。あまりにも計画性なく続く森林伐採による自然破壊を防止するためでした。
これで困ったのは象と共に林業に従事していた人たちでした。特に山岳地域は悲劇的でした。山岳民族、カレン族は伝統的に象と共に材木の運搬などで収入を得ていました。それが全く収入の道がなくなってしまったのです。
彼等は国境を越えてミャンマーに行きそこで作業に当たったのです。今も軍政の圧政で話題のミャンマーでの作業は多くの悲劇を生みました。内戦によって、山岳地帯にまで仕掛けられた地雷を踏んで大ケガを負う象が続出したのです。象にとって、片足を吹き飛ばされたということは死を意味します。悲しい一生を終わらせた象も数多くでたということです。

収入を求めて象と象使いは都市に出ました。観光客に、30cmほどに切ったサトウキビを20バーツで売り、それを象に食べさせてもらうのです。かわいい象に身近に接することもできて、毎晩相当の数のサトウキビが売れたようです。以前は商業地帯のシーロム通りや店主の住むラチャダピセーク通り周辺でも、こうした象をよく見かけました。
ところが、象が歩くと交通渋滞が起こり、また、衛生面にも問題があると、都市部ではこうした象がやってくることを禁止しました。入ってくれば罰金が科せられ、即退去を命じられるようになったのです。

いよいよ象たちに収入の道は閉ざされました。象使いたちにとっても、象は家族の一員であり、財産でもあります。でも彼等の食べる量は膨大。収入がない象使いたちは苦境に立たされました。象を手放した人も数多くいるといいます。

そんな中、最近タイ北部にエコツアーのブームが起こりました。山岳地帯をおとづれる観光客が象に乗って森林地帯をトレッキングするというものです。象の背に人が乗る籠をつけ、そこに2〜3人の観光客を乗せて道なき道を歩いて回ります。
象にとっては今までに経験したこともない仕事です。いつもの象使いとは違う、見たこともない人たちを乗せて歩く。お客を振り落としでもしたらたいへんです。短期間に安全に人を乗せ、暴れないように訓練を受けさせられます。象にとっては本当に辛いことでしょう。でも、今はこうした道に進むしか生きる道がないのです。ただ、こうしたエコツアーに従事できる象の数もごくわずかです。

自然環境を保護するために施行された森林伐採禁止の法律。けして間違った選択ではないでしょう。でもそれによって伝統的な生活を取り上げられた人たち、そして象がいる。国が生活を補償すればよいというだけの簡単な問題でもないようです。
自然と共存して生きてきた山岳地域の人たちにとって厳しい現実はまだまだ続きます。
メニューへ▲
子供同伴OKが作るぬくもり
日本の仕事場から子供の姿が見えなくなって何年が経つでしょうか。
店主の家では、母が和服を縫ったり、洋服のボタン付けをしたりする内職をしていました。小学校に上がる前の店主はその側で遊んでいました。その遊びとは母が使う針に糸を通すことでした。そして、母が与えてくれた端切れで「チックン、チックン」といいながら母の真似をして縫い物の真似事をすることでした。
このおかげで、家庭科の成績はいつも「5」(あの頃はしっかり評価が出たのですね)。特にボタン付けは先生が教えないようなプロの付け方をしてびっくりされました。また、運針は驚くほどの正確さで、初めて作った雑巾は他の子の半分くらいの時間で縫い上げてしまったのを覚えています。自慢話のついでに、小学5年生の頃に作ったリュックサックは市の最優秀賞を受賞し、姉は今もそれを旅行の時の小物入れとして使っています。

今は内職がパートとなり、母親の側に子供がいないというのは当たり前となってしまいました。それは、日本に限らずタイでも同じようになってきています。特に、バンコク近郊の日本へ送る製品を作っている工場などでは子供の姿など見れるわけもありません。製品の均一化、生産効率の向上を目指せば当然のことかも知れません。時代の流れとして致し方ないことと思っていました。

でも、先日NHKワールドを見ていたとき、仙台の笹蒲鉾屋さんのお嬢さんが、子供の頃学校から帰ると工場で両親の作業している側で遊ぶのが当たり前だったということを語っていました。20代の彼女は、今、普段は別の仕事しながら、将来父の仕事を継ぐために休日には蒲鉾つくりを学んでいるといいます。それも全ては彼女が子供の頃から両親の作業を見て、笹蒲鉾になることが当たり前のことと思っていたためだとのことでした。
この番組を見て、冒頭の店主の幼い頃のことを思い出したのですが、それと同時にタイで目にしたことにも思いが巡ったのでした。

タイの伝統的な絹織物、マットミーシルクのメーカーでは、商品を展示している部屋で織子さんの子供が昼寝をしていました。パンソンナライという植物の繊維を使ったバッグの工場では、子供たちが床に寝そべるようにしながら宿題をしていました。そして、バンブーバッグのナラカンの工場では、工場の隅で職人の子供たちが仲良く遊んでいました。母親の仕事の邪魔をしないように、幼いながらにも気をつけあって。
まだタイにはこうした環境が残されているのだとなぜかホッとしたものです。そして、田舎の親に子供を預け、一人バンコクで仕事をし、お金を送ることに精を出している女性たちの心の中も考えさせられてしまいました。

店主が尊敬する森本喜久男さんのお話を伺ったことも思い出しました。
森本さんはカンボジアで伝統的な絹織物を復興させ、次の世代にこの豊かな伝統的な織物文化を伝えて、カンボジアの人々の生活の活性化を目指して活動を続けている方です。現在はシエムリアップ郊外で実施されているプロジェクト「伝統の森」再生計画を提案。「森」が支える伝統の知恵と自然の循環システムを活用した村落開発事業を行っています。
森本さんが主催するIKTT(クメール伝統織物研究所)の作業場は子供同伴OKにしているそうです。子供を連れてくると作業効率は確実に落ちる。でも、できあがったもの質が断然違う。子供が側にいることで、母親=職人の心が安定する。そうした心の安定はできあがった製品に確実に表れるというのです。

効率より心。
私たちには、もうこうした発想はなくなってしまったのかもしれません。
昨年何件も起こった食品の安全に関する問題。工場で作業している人々の傍らに子供がいたら…。衛生面で問題がある!という意見は分かります。でも、実際自分の子供が側にいて、そうした偽証ができるでしょうか。経営者が指示したからといってそれを受け入れられるでしょうか。
大量生産と効率を目指すことで失ってしまった「心」。
今当店で扱っている商品が、まだ少なくとも職場環境的には、そうなっていないことにホッとしている店主です。
メニューへ▲
すぐ謝る日本人に『?』が止まらない
久々に日本に帰ってくると、いつも気になることがあります。日本のニュースを見ていると頻繁に、いえ毎日といってよいほど企業や団体、また官庁のトップが謝っている様子が映し出されます。
これが気になってしようがないのです。
バンコクでは、NHKをはじめ、CNNやBBCなど海外のニュースチャンネルを見る事ができるのですが、日本のように誰かが謝っているシーンというのは見たことがありません。タイのニュースでは全くといってよいほどありません。店主のタイ人の友人やスタッフたちは「日本人がまた謝っている」と笑いながら見ています。

例えば、店主の友人が車をぶつけられてしまったときのこと。日本ならぶつけた方が明らかな場合、すぐ謝って穏便に済ますケースが多いと思いますが、タイではそう簡単にはすみません。ぶつけた方が何のかんのと理由をつけて自分の責任を回避するのです。だから、このやり取りにはたいへん時間がかかります。結局、お互いの保険で修理するということで決着したのですが、ここまで1時間以上も「お前が悪い」を言い合っていました。

安易に自らの非を認めてはならない。これはタイばかりではなくアメリカなどでも同様です。中国や韓国では謝ることばなど聞いたことがないほど稀にしか使われないという感じがしています。謝るというのは余程のこと、いえ、安易に謝ってはいけないとさえ教えられていることもあるようです。日本人のように簡単に謝る国民はいないのではないかとさえ思えます。
日本は謝罪したことでいろいろなトラブルの幕引きにするという生活習慣があります。何かトラブルがあれば、こうした問題が起こらないように改善策を作りあげることより、まず謝ってしまう。そんな姿勢に、漫才のネタにもあるように「まあ、謝っておけばいいんだよな」的な空気を感じずに入られません。
同時に、消費者団体の注意勧告なども多すぎるように思えてなりません。もちろん重大な事故につながることも多いわけでその全てに「NO!」というつもりはありません。でも、最近しきりと叫ばれている「食の安全」については大きな疑問を持っています。本来ものを食べるというのは危険なことだと思うのですが。こうした言葉を聞くたびに、このままだと包丁どころかヤカンも売れなくなってしまう時代が来るのではないかと、不安が募ります。こんな日本てどうなんでしょう???

タイで生活していると、「お前の方が悪いのに何で謝らないんだ」とイライラすることも多いのですが、それと同時にすぐ謝ってしまう日本人に対してもどうかと思ってしまいます。もっとおおらかかにゆったりした生活というのを楽しんでも良いのではないかなと思ってしまうのは店主だけでしょうか。
メニューへ▲
ソンクラーンの祝福に容赦はない
タイでは4月13日から15日までソンクラーンというタイの正月のため連休です。これに土曜日曜と続く5連休となります。店主の家の周りはレストランなども従業員が田舎に帰るためどこもお休み。バンコクの人も、パタヤなどのリゾート地に行ってしまっています。車の通りも人の数も、いつもよりずっと少なくて、静かです。

ソンクラーンは水かけ祭りともいわれ、いろいろな場所に仏像を置いた祭壇を作り、その仏像に水をかけて1年の無事を祈ります。タイの国中が行うお祭ですが、中でも古都チェンマイのソンクラーンはタイ中で最も美しく、盛大だといわれています。バンコクでは王宮の近くカオサンというエリアがもっとも盛り上がります。
もともとは、純粋に新年のお祝いで、家族が一堂に集って共同で仏像のお清めを行っていたようです。それが後に水を掛け合って新年を祝うお祭りに発展したということです。

というと、とても静かなお祭りのようですが、これが違う。仏像に水をかければ当然人にもかける。この水を浴びると無病息災で1年が過ごせるといわれています。だから水のかけ方も盛大。そっと手を洗うなんていう生易しいものではありません。博多の祇園祭でも山が通る時に盛大に水をかけますが、あの勢いで無差別に、かつ盛大にぶっかけるのです。道行く人たちは当然びしょ濡れ。それはたいへんな騒ぎのお祭りです。
加えて、水をかけることは相手に「敬意を払う」ことと理解されているため、無礼講状態を通り越して無法地帯の様相を呈します。だれかれかまわず「ソンクラーン!」と大きな掛け声と共に通行人に向かって水をかけまくるのです。
家の前に水の入ったドラム缶を用意したり、通りまでホースを延長して庭の水やりのように盛大に水をまくものもいます。また広い通りではピックアップトラックの積み荷部分に水の入ったドラム缶を載せ歩道を歩く人に人に水をかけまわっているグループもいます。また、こうした車同士での派手な掛けあいをしているのもよく見ます。
中にはごていねいに通行人の傍まで行って、柄杓のようなもので頭から水をかける輩もいます。店主も見事にこの洗礼を受けました。

それと外国人にはあまりしないのですが、白い粉を水で溶いて絵の具のようになったものを顔に塗りたくります。これも健康に1年が過ごせるようにという祈願の意味があると聞きました。だからタイ人たちの顔は白塗りを水で流した惨憺たる様相になっています。

ここ数年はバケツに加えて増えてきている道具があります。
それは水鉄砲。
といてっても、半端なものではなく、緑とオレンジのマシンガン風というか、大型の水鉄砲。空気を圧縮して打つという代物です。これで水をぶっかけあうわけです。昨年あたりは子供のためという感じでしたが今や若者たちの重要な武器となっています。カオサンではいたるところに出店している露店で売っていて、飛ぶように売れていました。

この水鉄砲を持っているような人は集まってくるときから根性が違います。
「今年はイッたるで!ふっふっふ」といった感じです。
ちょうど三社祭で本社の神輿を待つ担ぎ手といった雰囲気を漂わせています。どこからともなく水掛が始まると、もうさながら銃撃戦。大人の戦争ゴッコのように、みんな発砲しあっています。
店主もやられてばっかりではと思い購入したのですが、これが逆効果。てぐすね引いて待ち構えている水掛人から対戦意識アリと認められたようで、それまで以上に水をぶっ掛けられることになってしまいました。

あちこちから「ソンクラーン」の掛け声と歓声と笑い声が響く、明るく、あっけらかんとしたお祭りです。
有限会社 SECOND EFFORT
〒092-0824 東京都八王子市長房町450-53
TEL:042-661-8788
Mail:info@2eft.com
ページトップへ▲