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昭和51年、大学を卒業したものの、時代はオイルショックの嵐が吹きすさんでいた。 希望の就職先に採用されなかったため大学を卒業せず、就職浪人などという言葉さえ作られたほど。 大学時代ゴルフに明け暮れた私は、プロゴルファーになることを目指していたものの、背筋を痛めて挫折。 そこから就職活動をしようと思っても、そのときにはもう就職先などはなくなっていた。 そんな時、子供の頃からあこがれていたテレビの世界に身を投じようと、なんとなく思ってしまったのだ。 そこで、人を介して潜り込んだのが日本テレビ。 アルバイトのような立場でAD生活を始めた。 これから茨の生い茂る断崖絶壁の細道を早足で歩くような、波乱万丈、満身創痍、悲惨なテレビ屋人生を送ることになろうとは思いもよらなかった。 取り柄といえば、ゴルフが上手いことと体力で勝負することしかない。 このことがどれほど大切なことで、しかしある意味むなしいことなのかを本当に分かるようになるのはそれから20年以上後のことだった。 私が潜り込んだ頃の日本テレビの制作フロアーは、今のような管理でがんじがらめになっている会社ではなく、もうヤクザの事務所じゃないかと思われるほどの状態だった。 プロデューサーやディレクターたちの人相はひたすら悪く、着ているものは派手なジャケットでノーネクタイ、目つきは下から人をにらみつけというような人たちばかり。 もちろん夏場にはジャケットなんて着ていない。 ポロシャツやTシャツなんていう人も数多くいいたものだ。 ある面からいったら、ヤクザの社会の方が礼儀正しいかもしれない。 というのも、言葉遣いは先輩後輩の区別がどこにあるのだろうかと思われるほどひどいもので、制作局長に向かってあだ名で呼んでしまうような会社だったのだ。 もちろん私のような雑草の芽はそんなことはできなかったが…。 その頃の日本テレビの制作室は、キラ星のごとくテレビ史を彩る有名プロデューサー、ディレクターだった人たちが偉くなってフロアの窓側に座ってスタッフに睨みを効かせていた。 あの「光子の窓」という番組を作られた井原高忠さんが確か制作局次長だったと思う。 今も使われている野球中継のカメラの配置を作った後藤達彦さん(実はこの方はあの「11PM」の生みの親なのです)はスポーツ局次長だったはず。 その他、コント55号の番組を数々手がけられた細野邦彦さんは小さい体ですがデスクに足を投げ出して、体に反した大声で叫んでた。 また、この時代から出社退社時間は各人バラバラだった。 今でいうフレックスタイムのようなものだ。 一人ひとりが自分の仕事時間に合わせて出社し、退社する。 暇な時期にはプロデューサーが午後に出社してきて、2時間ほどいたと思ったらもういなかったなんてこともしばしばあった。 さて、テレビ屋として産声を上げたばかりの私は「元祖どっきりカメラ」の担当になった。 宍戸錠さん、野呂圭介さん、金原二郎、石川牧子両アナウンサーが出演したあの番組をご記憶の方はまだいらっしゃるだろうか。 この番組の制作現場はとても個性的だったのですが、その辺は次回のお楽しみとさせていただく。 |
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昭和51年にアルバイト的に潜り込んだ日本テレビで私が最初についたのは「元祖どっきりカメラ」という番組だった。 宍戸錠さん、野呂圭介さんが騙し役、金原二郎、石川牧子という日本テレビのアナウンサーが司会だった。 この番組は、ディレクターだった広田さんという方の遊び心と番組作りのセンスが凝縮して作り上げられたもの。 ネタ会議でたくさんのスタッフがネタを持ち寄るものの、ほとんど全て却下。 最終的に広田さんの考えたネタで落ち着いた。 それがまた、話を聞いているだけでも、おもしろかった。 この番組のスタッフは作家から、カメラ、音声、美術、ロケバスの運転手まで全てが毎回同じメンバーで構成されていた。 慣れないスタッフが加わって、カメラやスタッフの存在に気が付かれたり、ネタが途中でばれてしまったりしないようにするためだ。 またその頃はフィルムの時代なので、最長でも10分間しかフィルムが持たない。 そのため、カメラマンはネタの進行状況によって、また他のカメラマンの撮っている映像のことも考えて、スタート・ストップを繰り返さなくてはならない。 それに何が起こるかわからないので、慣れたスタッフでなければとても番組にならなかったのだ。 よく「やらせでしょ」といわれたけれど、そんなことは一切なかった。 それどころか、ロケハンという、場所の下見のときから、日本テレビの看板のついていないロケバスを使い、それぞれの担当者が自分たちの隠れる場所を分散して探すという気の使いようだった。 間違っても日本テレビが来たなんていうことが知られないようにするためだ。 一番の思い出は、遠刈田という蔵王の麓の村での冬のロケ。 カモ(被害者)が通る道には一切足跡を残さないようにするため、雪の中をずっと遠回りして準備した。 氷点下の早朝から、機材と美術の大道具などをかついでいったのだから、それは肉体的にきつかった。 新米ADの私としては、ロケハンからロケの間中もう毎回緊張の連続で、一日の仕事が終わるともうグッタリしていたことを今も覚えている。 それでも、野呂圭介さんがネタバラシの看板を持って出てゆくとカモの人が笑い出してしまうほど完璧に騙されるので、さすが広田さんの演出力はすごいと感心してしまう毎日だった。 |
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人気番組として長く高視聴率を誇った「元祖どっきりカメラ」は、数々の騙しの名作を生み出した。 例えば、名作中の名作といわれる『模様替え』というネタ。高級クラブで飲んでいて、トイレに行って戻ってきたらいつの間にかヤクザの事務所に替わっていた。 騙されたカモ(被害者)はびっくりして、トイレと事務所とを行ったり来たり。 終いには、ヤクザの親分に扮した宍戸錠さんに脅かされるという筋。 この撮影は本当にたいへんだった。 まず、模様替えの時間。 男性がトイレに要する時間が約45秒であるということを自分たちの生活から統計的に出した。 つまり、45秒以内で高級感あふれるクラブを、ヤクザの事務所に替えなければならないのだ。 最初のリハーサルの所要時間は3分半。 そこで、壁には急遽カーテンを取り付け、また、宍戸錠さんも自分の座る椅子を持ち出すようにしたりと、リハーサルを繰り返し、ようやく45秒で模様替えが完了できるようになった。 それから、どうしてもトイレの中の映像が欲しいということになったが、当然カメラマンが隠れる場所などはない。 そこで花瓶の陰にカメラを隠し、カモがトイレに立つ時にカメラをスタートさせることにし、その重要な役割を私が担当することになった。 ホステス嬢の「トイレですか?トイレはそちらです。」を合言葉にして、スタートすることにした。 それから、カモがいつトイレに行くか分からないので、ひたすら待つしかない。 ホステス嬢はひたすらビールを勧めるのだが、カモはなかなかトイレに立ってくれない。 出演者・スタッフ全員、ひたすら合言葉を待つこと1時間半。 ようやくカモがトイレに立った。 私は合言葉と同時に、スタートボタンを押してカモに見られないうちにトイレを出た。 結果は大成功。 実は、このときのカモは私の大学時代の友人で、見事なリアクションで笑わせてくれた。 最初、仕掛けるときには申し訳ないという気もしたが、撮影終了後「何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。うまく騙されたよ。」と笑いながら語ってくれた。 そんな彼の笑顔にホッと胸をなでおろした。 |
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今回も「元祖どっきりカメラ」で、私が想い出に残っている作品をご紹介。 まずは『ゲバルトゴルフ場』。 ゴルフコースがまだ土地の買収が済んでいという設定で、なんとホールの真ん中に家が建っている。 カモ(被害者)がそのホールに来ると、突然地主側の革命運動グループに対し機動隊の実力行使が始まる。 いつしかカモは運動グループと機動隊の両方から詰め寄られ、吊るし上げをくうという筋。 普通なら考えられない筋立てなのだが、時代は成田空港闘争の真最中。 加えて、ゴルフは全く初めてというカモなので、見事に騙されてくれた。 このとき私は、学生時代のゴルフの腕を買われ、コース付きのプロゴルファーという役柄で出演した。 絶対ミスショットは許されないのでとても緊張したことを覚えている。 ゴルフネタはこの他にも数々あって、私が担当する前の作品で、ブラインドホールでショットしたら何故かホールの真ん中で牛が倒れていて、その飼い主が「ボールが当たって死んじゃった。どうしてくれるんだ」と詰め寄る。 確か、太田裕美さんが牛の飼い主という役柄だった。 ひたすら「ベコ〜ッ!」と号泣する太田裕美さんにドギマギするカモが笑いを誘った。 練習場でやたらと他人にアドバイスする人をカモにしたものもあった。 カモが練習していると、若い女性2人が(実は1人は新人女子プロ)が、ゴルフはやったことがないから教えてくれといってくる。 カモが自慢げに教えると、彼女の初めての一打はびっくりするようなナイスショット!唖然とするカモの表情が爆笑を生み出した。 確かこの作品だったと思うのだが、今思えばとんでもない人が出演していた。 宍戸錠さんのマネージャーの粕谷さんが、広田ディレクターのところに「今度1人新人の面倒を見ることになったから使ってくれ」と頼んだことから、女子プロの友人役で出演することになったと記憶している。 その新人女優の名前は小達雅子さん。 後の夏目雅子さんだ。 彼女のプロフィールにはけっして載ることはなかったけれど、彼女のテレビデビューはなんと「どっきりカメラ」だったのだ。 |
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私が日本テレビでアルバイト的に仕事をするようになって最初に担当したのは「元祖どっきりカメラ」だったが、これは年間に3本しか制作されないスペシャル番組なので、普段は「ほんものは誰だ」という番組を手伝っていた。 この番組は土居まさるさんが司会で、3人の素人さんの中から問題にある本物を当てるというクイズ番組。 この『ほんものさん』のネタ探しをしていた。 全国の地方新聞が、ある放送作家のところに集まるようになっていて、毎週1回その方の家まで新聞を取りに行き、それに全部目を通しておもしろい技術や話題の持ち主の記事を探すというのが私の仕事だった。 私が担当したのは、河北新報、秋田魁新聞、神戸新聞など十数紙。それが1週間分まとまると相当の量になる。 学生時代ゴルフに励みすぎて痛めた背筋がまだ完治する前だったので、市谷砂土原町というところの作家さんのマンションから麹町の日本テレビまで、普段歩けば20分くらいのところを、新聞をもらって帰るときには1時間以上かかってしまった。 今は番組スタッフの中にリサーチャーという役割が確立していて、番組制作上重要なポジションとなっているが、当時はそんな役割のスタッフはいなかった。 それと同じ仕事を私のような駆け出しの若僧に任せたのだから、この番組の北村プロデューサー、広田ディレクター(どっきりカメラのディレクターでもあります)の勇気に、今更ながら感謝している。 最初のうち、これはおもしろいと思った記事を切り抜いて先輩に見せると、「これはもうやった」とか「これは画にならない」とかでほとんど却下。 先輩が、私が見落としたネタをもう一度拾い出すということが続いたものだ。 それが半年ほど経って、「これはどう画にしたらおもしろくなる」という質問にかわったとき、ちょっとだけテレビ屋として成長したのかなと感じた。 この仕事を約1年続けて、おもしろいと感じる感性や、どうやって画にしたらおもしろくなるかといったことの基礎を叩き込まれたと思う。 そして、それが後々の私のテレビ屋人生に大きな糧となったと実感している。 |
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私が日本テレビの「元祖どっきりカメラ」のADとして最初にお世話になったのが広田ディレクター。 その頃は多分35歳くらいだったろうか。 この方は、個性派揃いだった日本テレビの社員の中でも出色の存在で、ヤクザチックなファッションの人が多い中、何故かスポーツマンタイプ。 テレビ局の制作スタッフは午後から出社する人も多いのだが、この人は完全朝型。 朝8時半頃にはもう出社していた。 出社してすることは迷路作り。 ロットリングという製図用の筆記用具で、細密な迷路を作るのだ。 これを約1週間かけて作り上げ、できあがるとコピーしてADたちにやらせる。 渡された私たちはとても通常の辿り方では正解は見つからないので、行けなくなるところを片っ端から塗りつぶしてゆく。 こうして、正解が出るまで最低3日。 それほど細密な迷路だった。 そんなものを作っているからいつも肩こりで、番組のデスクの女性が出社してきて最初の仕事は広田さんの肩揉みだった。 午後3時になると番組のロッカーに常備してある地酒を飲み始める。 午後5時には四ッ谷駅近くのすし屋か、酒楽という汚い居酒屋に作家さんたちと出かけていった。 酒はメチャクチャ強くて、酔っ払ったところは見たことがなかった。 昔の日本テレビにはこんなユニークな人がいたのだ。 こんな人だが、演出力、テレビディレクターとしての資質は、今思っても素晴らしいものがあった。 あの「元祖どっきりカメラ」のネタはほとんど全て彼のアイデアによるものだった。 カモ(被害者)に冷静に考える暇を与えず、約10分の間に完璧に騙しきる。 だから騙された方も諦めがつくというか、納得してしまうほど素晴らしい状況を作り上げていたのだ。 フジテレビでも、また日本テレビでも後に似た企画のものを制作したが、やはり広田演出には敵わなかったと思う。 そんな彼も若くして膵臓がんにかかり、多分50歳を前にして他界。 私たちが迷路に悩んでいる姿を満足そうに見ていた表情は今も記憶に残っている。 迷路を作りながら何を考えていたのか、今はもう聞くことはできないが、私にとって最初に出会った尊敬できる師であった。 |
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私が「元祖どっきりカメラ」のADとして働いて1年ほど経ったころ、先輩から急に次の番組を探した方が良いといわれた。 とうやらどっきりカメラが終了するらしいというのだ。 番組はあいかわらず高視聴率を維持していたが、そのために一般の人にまでどっきりカメラというのが知られすぎた。 するとどうしてもネタはエスカレートしてカモ(被害者)に対して厳しいものになる。 笑って済まされなくなる可能性もでてくるというわけだ。 そんなわけで、広田ディレクターのやる気が少しずつ失せてきているようだった。 あわせて、視聴者団体から低俗番組として強い圧力もかかったと聞いている。 実際、「元祖どっきりカメラ」はその後1年ほどで一旦終了したと記憶している。 そんなわけで、新たな番組を探さねばならなくなった。 そんな時、運の良いことにちょうど新しく11PMの担当になったディレクターがアシスタントを探しているということを聞き、先輩の紹介で会いに行った。 面接だと思って緊張していたら、いきなり「いつから来れる?」「はい、来週からなら」というやり取りだけで11PMに移ることになった。 翌週、それまでと同様11時ごろに11PMのデスクに行くと、スタッフは誰もいない。 それどころか制作局次長だった(と思う)井原さんが11PMにかかってきた電話の応対をしていた。 どうしたものかとうろうろしていると、近くにいた「木曜スペシャル」のスタッフから、「イレブンのスタッフは午後でないと来ないよ」と教えられた。 テレビ局の制作スタッフというのは、もうこの当時から今のフレックスタイムのように、自分の担当する番組や仕事の内容によって出社退社時間を自由に決めることができた。 夜11時15分からの生放送という11PMのスタッフならば出社時間が遅いというのも無理はないことだった。 仕方なく元のどっきりカメラのデスクで時間をつぶして、昼過ぎに再び11PMのデスクに行った。 しかしまだ誰もいない。 その時、全身黒尽くめのファッションのおじさんが足早に歩いてきて、スケジュールボードに取材とだけ書いて出かけていった。 その人が東ディレクターという風俗店のルポを専門に担当している人だと知ったのはもう少し後のことだ。 |
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