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11PMは日テレのごみためだった
偉大な司会者大橋巨泉さん その1
偉大な司会者大橋巨泉さん その2
大橋巨泉さんに褒められた想い出
憧れの存在・松岡きっこさん
プロフェッショナルとしての松岡きっこさん
芸能界のおしどり夫婦谷隼人さん、松岡きっこさん

11PMは日テレのごみためだった
「元祖どっきりカメラ」で1年ほどのAD経験を経て担当することになった「11PM」は、民放のテレビ史に燦然と輝く番組だと今も思っている。

「11PM」は毎週月曜日から金曜日の夜11時15分から原則生放送されていた番組で、日本テレビは月曜日と水曜日と金曜日が担当だった。
私が就いた頃、月曜日と金曜日の司会は大橋巨泉さん、水曜日は愛川欣也さんが担当していた。
月曜日のアシスタントは松岡きっこさん、水曜日は秋川リサさん、そして金曜日は朝まるで弱い朝丘雪路さんだった。

この番組を作っていたのは個性派スタッフ、というと聞こえはよいのだが、実はほかの部署や番組で使い物にならず、掃き溜めに集まるゴミのようにこの番組の担当になってしまったという人たちばかりだった。

この番組の親分というかチーフプロデューサーは勝田建さん。東大卒で6ヶ国語を自由に操るという逸材。
この番組がスタートするときには日本テレビ労働組合の委員長だったため、労務問題から大反対を唱えたらしい。
この方は早くして他界されたのだが、この方が健在ならば日本テレビの社長にまでなった人ともいわれている。

私が担当するようになった月曜イレブンのディレクター陣は、いつも黒尽くめのファッションで、日本中の風俗店をルポする番組だけを作っていた報道出身の東ディレクターがチーフだった。
無口で、一言でいって怖いという感じの人だった。

その他、UFOディレクターの矢追純一さんはいつも夕方にオートバイで出社。
デスクには30分もいないですぐにどこかに消えていってしまっていた。
沖縄問題や韓国問題など硬派の番組を作ったかと思うと『紅白ストリップ合戦』なんていうきわどい番組を作った都築忠彦さん。
イレブン海外の夕陽シリーズというのを定着させた岩倉明さんはマイペースの人で、会社のルールなど気にかけていないような人だった。
11PMの担当では一番若い今田邦久さんは、後に作家となった景山民夫さんと組んで新しい11PMを模索していた。
そして私がついた吉武淳雄さんは、今も続く「おしゃれ」という番組を担当していた人。
こんな6人が毎週交代で番組を制作していた。

私はこれから約4年間この番組に育ててもらうことになる。
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偉大な司会者大橋巨泉さん その1
「11PM」といえばなんといっても大橋巨泉さんのことを語らないわけにはいかない。

始めてあった巨泉さんは体の大きさだけでなく、その存在感に威圧感さえ感じたものだ。
また、事務所の社長をしていた弟の哲也さん、代表の近藤さん、マネージャーの平尾さん、お茶を持って待機している付き人など取り巻く人も多かった。

お茶といえば、巨泉さんはいつも特製のほうじ茶を飲んでいた。司会席に置いてあった飲み物はいつもこのお茶だった。

司会業として当時いくつもの人気番組を持ち、多忙を極めていらしたにもかかわらず、仕事は原則金曜日から月曜日だけしかしなかったという。
毎週金曜日、静岡県の伊東から出てきて、月曜イレブンが終わるとそのまま伊東に帰るというのが普段のスケジュールだった。

月曜班の担当ディレクターは、午後2時ごろTBSにその日の台本を持って巨泉さんと打ち合わせに行った。
ちょうどその頃、「クイズダービー」が毎週月曜日に収録していたからだ。
打ち合わせといっても、さほど内容について細かいところまで話すことはなく、今回はこんなことをやりますという程度で、その後はほとんど雑談だったという。

月曜イレブンはほとんどカメラリハーサルをしなかった。
当時日劇ミュージックホールのダンサーのヌードダンスがあるときだけ簡単にカメラ割りを確認する程度。
これは見せてはいけないものが見えないようにするためだ。
アシスタントの松岡きっこさんが10時半ごろスタジオに入って、いくつかの段取りをチェックするとあとは巨泉さんを待つだけだった。

巨泉さんがスタジオ入りするのは大体11時少し前。
スタジオに入ると、杉原淳とサラブレッズのバンドセットでピアノを弾きながら、淳さんらバンドのメンバーと雑談をしていた。
松岡きっこさんや他の出演者との打ち合わせなどほとんどしないまま、放送3分くらい前になって司会者席に着く。
そこで、その日のゲストたちと挨拶を交わしてそのまま生本番に突入するというのがいつものパターンだった。

ただ、台本は事前にしっかりと読んでいらしたようで、番組のポイントやゲストから聞き出す内容は的確だった。さすが日本一の司会者だと感服した。
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偉大な司会者大橋巨泉さん その2
「11PM」の顔として長く司会を担当した大橋巨泉さんは今思っても素晴らしい司会者だったと思う。

あるとき気がついたのだが、月曜班の台本というのは水曜班に比べて格段に薄かった。
ほとんど司会席に板付いたままだったし、ゲストがあってもそこで聞き出して欲しい要点などを箇条書きにしてあるだけだからさほどの厚さにはならないわけだ。

特にもっぱら風俗店のルポで番組を作っていた東さんの回は、取材フィルム部分が長いこともあり、これが1時間番組かというほど薄く、ほとんど進行表のようだった。
またUFOディレクターの矢追さんのときも、ご自身が出演していることもあり、やはり台本は薄かった。
それだけでもしっかり番組として成立させていったのはやはり巨泉さんの力に負うところも大きかったと思う。

反面、ディレクターの思うように進行しないケースも多かったようだ。
1ヶ月近くかけて調査し、取材して作り上げた内容が、巨泉さんの判断で違う方向に進んでしまうこともあった。
そんな時はインカムを通してディレクターの怒鳴り声が聞こえ、終いにはそのインカムをたたきつけてサブコン(副調整室)から出て行ってしまう人もいたという。

私がアシスタントとしてついた吉武ディレクターは、「11PM」では新顔だったため、まだ巨泉さんから信頼を得られず、最初はずいぶん重苦しい空気だった。
前日徹夜で作った台本の大部分を、本番寸前に破り捨てられて放送に入ったこともあった。
私は愕然としたが、アシスタントの松岡きっこさんやFM(フロアマネージャー・スタジオ内で演出してゆくスタッフ)の鎌田君は平然としていたのには驚いた。
きっとこうしたことはそれまでにもちょくちょくあったのだろう。

この話は大橋巨泉さんの傲慢さを伝えようとしているのではない。
番組の顔としての責任感。そして司会者としての構成力の高さに敬服した気持ちを表現するために紹介した。
実際その日の放送は何のトラブルもなく終了した。

まだ新米の域を出ないADだった私にとって、その後の調査や取材の際に巨泉さんを納得させる内容にできるかということが大きなテーマとなった。
その意味ではテレビ屋としての師と勝手に思っている。
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大橋巨泉さんに褒められた想い出
昭和52年から「11PM」月曜班のADとして働くようになって2年近く、司会の大橋巨泉さんとはゲストを紹介する以外にほとんど話をしたことがなかった。
ADごときが話をできる存在ではないと思っていたのと、巨泉さんの存在感に圧倒されていたからだ。

確か昭和54年だったと思うが、巨泉さんが「大橋巨泉インビテーショナル」というゴルフ大会をスタートさせた。
将来はアメリカのボブホープクラッシックというゴルフトーナメントのような、プロとアマチュアが一緒に競技する4日間トーナメントの開催を目指したものだった。

この模様を金曜イレブンの1コーナーとして放送することになって、金曜班の横田岳夫チーフディレクターが私をそのコーナーのディレクターに抜擢してくださった。
11PMのコンペ以外ではほとんど話をしたこともない雲の上の存在からの指名にびっくりするとともに、たいへん緊張した。

第1回大会は伊東のサザンクロスというゴルフ場で開催した。
スタッフは全員前日に現地入りしていたのだが、私は横田チーフの抜擢に応えようと、試合当日の早朝に収録するホールを歩測してカメラ位置などを決めた。
このときの様子を「悪役」といわれた小林昭男さんがロッジから見ていたらしい。

このときは取材用のハンディカメラ3台で、1番ホールのスタートの様子と、9番ホールと18番ホールのみ、プロと芸能人のプレーぶりを撮影、1回約10分に編集して放送した。

毎回放送の前に、巨泉さんのナレーションを録音した。
この時、編集された順に従って、どの選手が、残りどれくらいの距離を、どのクラブを使って、結果どうだったかという資料をできるだけ見やすく作って巨泉さんと横田チーフにお渡しした。

1回目のナレーションを撮り終わって巨泉さんから「お前、撮影前に歩測してたんだってな。悪役から聞いたよ。編集のテンポもよかったし、資料も分かりやすくて良かった。これからも頼むな。」とねぎらいの言葉をかけられた。
横田チーフからもお褒めの言葉をいただいた。
1コーナーとはいえ初のディレクターとして横田チーフの抜擢に応えられたこと、そしてあの巨泉さんからの言葉に、涙が出るほど嬉しかったのを今でも忘れることができない。
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憧れの存在・松岡きっこさん
昭和52年から「11PM」月曜班のADとして働くようになった私にとって松岡きっこさんは憧れの存在だった。
高校時代、親に隠れて読んだ「平凡パンチ」や「週刊プレイボーイ」のグラビアを飾って、多くの男性たちを魅惑していた人だ。

私が「11PM」に就いた頃は、既に女優業や司会業がメインになっていた。
初めてお会いした時、あの大きくて、きりっとした目が写真以上に魅力的に輝いていたのがとても印象に残っている。

きっこさんはとても柔らかな感じの方で、いつもゆったり、おっとりした話し方をしていた。
そのせいもあってか、スタジオ全体に優しさを漂わせてくれる独特の「空気」を持っていた。

それは、きっこさんがスタジオに入ってきたときから感じられた。
大橋巨泉さんが入ってきたときの緊張感というのとは全く違う、明るく、柔らかな雰囲気が広がったものだ。
担当のディレクターやFM(スタジオ進行のスタッフ)と司会席で簡単な段取りの打ち合わせをしている時も、「はい」とか「うん」とかいう程度。
放送までの待ち時間も一人司会席に座って、多くを語ることはなかった。

今テレビを視ていると、アシスタントでしゃべりすぎる人が多いが、きっこさんのように番組の空気を作ることで、その存在感を十分に発揮できるのだということも知ってほしいと思ったりする。
これは大阪のイレブンの安藤孝子さんにも通じるものだ。

確かに「11PM」という番組の世界を形作ったのは大橋巨泉さんや藤本義一さんであった。
でも、時に難しい、厳しい内容も取り上げた番組の空気を和らげていたのは松岡きっこさんや安藤孝子さんの存在だったと思う。
東京と大阪の違いはあれ、お二人の存在は「11PM」という番組にとって欠くべからざるものだったと今さらながら感じている。

今も、年賀状などのお便りをいただく。
いつも最後に「谷隼人・きっこ」と筆で署名されている。
それがきっこさんの優しさとして伝わってくる。

数年前、東京のゴルフ場で偶然お会いすることがあった。
ご主人の谷隼人さんとご一緒に、お客様とのゴルフだったようだ。
60歳になろうとするのにその美しさは相変わらず。そしてあのおっとりした話し方も変わっていなかった。
ちょっと嬉しかった。
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プロフェッショナルとしての松岡きっこさん
前回に続いて松岡きっこさんについて知られざる面をご紹介したい。

あるとき、松岡きっこさんのマネージャー兼プロダクションの社長で、私のゴルフの弟子でもあった故・野崎賢治さんがいっていたことがある。
「きっこともう何年も仕事しているけど、彼女の素顔をほとんど見たことがないんだよ」。
これは今ではとても考えられないことだ。

今、ほとんどのタレントはテレビ局に来る時にはスッピンにサングラスをかけて私服。
後ろにマネージャーやらスタイリストやらヘアメイクといったスタッフを従えて…、というのが一般的だ。
そして控え室(いわゆる楽屋)でヘアメイクを整え、スタイリストの用意した衣装を着てテレビに出演するのだ。
だから、特に女性タレントがテレビ局入りした時には、これがあの人???と感じてしまうことも少なくない。

ところが、「11PM」に出演していた頃の松岡きっこさんは、マネージャーが自宅に迎えに行くと、出てきたそのときからもう「タレント松岡きっこ」になっていたという。
あまり確かな記憶ではないのだが、通常月曜イレブンでは大橋巨泉さんはもちろん、松岡きっこさんの控え室も用意していなかったと思う。
お二人ともスタジオに直接入られたからだ。
たまに、きっこさんが別の仕事から直行することがあって、着替えが必要な時でも、スタジオ脇の控え室兼打合せ室をその間だけシャットアウトして、着替えていたように記憶している。

だいぶ後になって、きっこさんにこのことを直接聞いたことがある。
その時きっこさんは「家を出た瞬間からもう私は松岡きっこだからね。しようがないのよ」と、いつものように軽く微笑みながら、ゆったりとした口調で話してくれた。
この姿勢プロだと思いませんか。

それから、きっこさんが焦ったり、舞い上がったり、大声を上げたりしたところを見たところがない。
これは番組の本番中はもちろんのこと、プライベートでもお付き合いするようになってからも同じだ。
大橋巨泉さんが暴走しても、放送中に突発的な事件などが起こっても、平然と番組の流れをキープしてくれていた。
これも自ら形作った「松岡きっこ像」によるものだったのだろうか。
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芸能界のおしどり夫婦谷隼人さん、松岡きっこさん
松岡きっこさんとは番組だけでなく、プライベートでもお付き合いすることが多くなった。
きっかけはゴルフだ。

きっこさんが、俳優の谷隼人さんと婚約されて、谷さんが「11PM」のコンペに参加されるようになった。
最初に参加されたときは私と同じ組でラウンドした。
多分ゴルフを始めてから1年位だったのだろう。

谷さんは、そのころ最強といわれたセベ・バレステロスそっくりのファッションで登場した。
しっかりした体格だから、飛距離には絶対の自信を持っていたようだ。
ところが谷さんより身長で10cm以上も劣る私が谷さんのボールをいつもオーバードライブしたのだ。
もちろんスコアも良かった。
谷さんはこれで私のゴルフについて絶対の信頼をしたといってくださった。

谷さんの影響からきっこさんもゴルフを始め、イレブンコンペに参加することになった。
始めてからまだ半年ちょっと位だったと思う。
谷さんからのたっての願いということで、私とマネージャーの野崎さんがきっこさんと同じ組でラウンドすることになった。

スタート前、「マナーも厳しく指導してください」といわれたのがいかにも谷さんらしかった。

さて、いざショットしてみると、普段のきっこさんの柔らかな雰囲気とは大違い。
レディースティーからとはいえ、並み居る男性人を尻目に、ドラコン賞をさらってしまったほどのパワーヒッターぶりだった。

最終的に、後半のハーフでは40台でプレーしたと記憶している。
ひょっとしたら、このときは谷さんよりもスコアが良かったかもしれない。
このスコアを知ったときの谷さんの喜び方にはたいへんなもので、感動さえ覚えたほどだった。

それから、普段はお二人とも私のことを「オマッチャン」と呼ぶが、ゴルフの時には「師匠」と呼んでくれるようになった。
先日偶然東京のゴルフ場でお会いした時もそう呼んで下さった。
時の流れを忘れた。

今も、谷さん、きっこさんのプロフィールには、趣味はゴルフと書かれている。
お二人のゴルフ人生に私が多少なりとも寄与することができていたならこんな嬉しいことはない。
そして、またいつか一緒にゴルフができたら…と思っている。
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