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私が「11PM」のADだったころ、一緒に働いたADたちも個性豊かな人間が多く働いていた。 その頃「11PM」のADたちはスタジオ班と、各担当ディレクターに就くADとに分かれていた。 スタジオ班(2名)は月・水・金曜日の生放送に関する準備をし、放送時にはFM(スタジオの進行を取り仕切るスタッフ)として司会者にさまざまの指示を出す仕事をしていた。 私が担当していた頃は鎌田君がFMとしてたいへん信頼されていた。 特に大橋巨泉さんからの信頼は絶大だった。ただ、日本テレビ的には彼の存在はFA(フロアシ:FMのアシスタント)という位置づけで、FMはあくまで日本テレビの社員がやっていることになっていた。 これは何かトラブルが起こったときの責任問題に対するもので、各曜日担当の空いているディレクターが担当することになっていた。 ただ、社員たちはほとんど何もすることがなく、司会者たちに対する指示やQは全て鎌田君が仕切っていた。 私が担当した回で巨泉さんに台本を捨てられた経験がある。 その時巨泉さんが「カマ(鎌田君のこと)、CMと(取材した)フィルムの入りの時間だけしっかり教えてくれ」と指示していたことを今も忘れられない。 また、水曜日はスタジオ内にセットもたくさんあり、また出演者も多かったことからその仕切りは見事としか言いようがなかった。 スタジオ運用についてはたいへん有能な人だったが、11PMを離れてからの消息について私は知らない。 もう一人、鎌田君の後輩で大草昭男君がいた。 その風貌が岸部シローさんに似ているところから「シロー」と呼ばれていた。 鎌田君のテキパキ感から比べると、ゆったりとマイペースで動き、いつも微笑みを忘れないような人だった。ただ自分の仕事はきっちりこなしていた。 彼は、その後日本テレビの関連会社のNTV映像センターに所属、朝の番組などのプロデューサーとして活躍、将来を嘱望されたが、癌のため40歳を前にこの世を去った。 彼の葬儀で、昔の面影とは想像できないほど痩せた彼の遺影と、残された若かった頃の彼に瓜二つの息子さんの姿が痛ましかった。 |
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前回「11PM」のスタジオ進行のスタッフについて書いたので、今回は各ディレクター付きだったADたちについてご紹介したい。 10人近くいたADたちの中で出世頭といえば、今音楽プロデューサーとして活躍している木崎徹君だろう。 彼が水曜班の園田ディレクターのADとしてイレブンに来たのは昭和53年頃だった。 とても明るく、自己主張に長けていて、目上の人に気に入られるように立ち回ることがうまかった。 そのために、私たちAD仲間からは疎まれていたことも事実だが。 イレブンを卒業後は放送作家となった。 その間に、もともと遊び仲間だった近藤君と、お笑いスター誕生からでた小柳君をあわせて、和製ソウルグループのバブルガムブラザーズを誕生させた。 そして彼等が大当たりしたのを機に音楽プロデューサーに転身、今も幅広く活動している。 もう一人特筆したいのは石原孝仁君だ。 私より3歳くらい年下だったと思う。 彼が若い頃は、相手かまわず喧嘩っ早いので名を馳せたものだった。 イレブンを卒業後独立して、フジテレビの「なるほど ザ・ワールド」の取材ディレクターとして世界各地を飛び回るようになった。 その訪れた国の数は100カ国を超えると聞いたことがある。 実は彼はイレブン時代に車の国際ライセンスを取り、独立後、あのパリ=ダカールラリーにプライベート参戦するようになった。 まだ「なるほど…」の取材で世界を飛び回って多忙を極めている中で、こうした活動はなかなかできるものではない。 彼は結局十数年にわたってパリ=ダカールに参加、完走してプライベート部門で入賞もするなど輝かしい成績をおさめた。 彼にもうひとつ脱帽したいのは、昔のスタッフとの交流をしっかり保っていたことだ。 シローこと大草昭男君が癌で闘病中には何度も見舞って、彼ばかりでなく家族まで励ましていたそうだ。 小路丸哲也君という11PM時代のスタッフが亡くなったときにも彼は何度も見舞っていたと聞いた。 私は人付き合いが下手で、番組が替わり、会社が替わるたびにその頃の人たちと疎遠になってしまう。 見習いたいと思うが、実行は難しい。石原君には本当に頭が下がる。 |
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昭和52年から『11PM』のADとして、結局4年間担当した。 その間に直接体験した放送中のハプニングは、多くの視聴者が期待したように、見せてはいけないものが映ってしまったというのが一番多い。 ある時、日劇ミュージックホールの大スターだった恵あいさんのヌードダンスがあった。 オールヌードのあいさんがピアノの上で大きな羽根の扇2枚を駆使して、ヌード姿が見えそうで見えないというものだった。 華麗にそして妖艶に踊っていた時、持っていた片方の扇がマイクスタンドに引っかかって手から落ちてしまった。 当然のことながら、覆うものを失ってしまったのだから全て見えてしまった。 見えたとしてもほんの1〜2秒。こうしたハプニングには慣れっこになっているスイッチャーの野口さんは、咄嗟にカットをあいさんの顔のアップに切り替えた。 ところが、そのためにあいさんが側にいた私に向かって「見えた?」と聞いてきたのがアップでしっかり映ってしまった。 翌朝。11PMのデスクに電話がかかった。それを前夜泊り込みだった私がとった。案の定、麹町警察からだった。 電話の相手はとても事務的に名前を名乗った後「勝田プロデューサーはいらっしゃいますか」と聞いてきた。 まだ出社していませんと応えると、相手は「電話をいただきたいとお伝え下さい」とこれも冷静にそして事務的にいった。 昼過ぎて、出社してきた勝田チーフプロデューサーに電話があったことを伝えた。 勝田さんは「昨日の件だな」と渡したメモも見ずに電話し、先程の電話の主を呼び出すようにいった。 相手との話が終わった後「第一声が『見えましたね』だもんな」と笑いながらいって麹町署に出かけていった。 そのころ麹町警察はイレブンの放送を必ずVTRに収録していて、全てチェックしていたそうだ。 まだホームビデオなどない時代。 毎回ビデオに収録していたというのだから恐れ入る。 勝田さんが出頭すると証拠の部分を見せられ、始末書の提出を求められたという。 そうしてたまった始末書がそのころの電話帳くらいになっていたというのだから、これも恐れ入る。 まあよい時代だったといえなくもないのだろう。今だったら…、絶対ありえない話だ。 |
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私が「11PM」を担当していた頃、『インベーダーゲーム』が戦後最大のブームとなった。 それは社会現象とまでいわれた。 喫茶店のテーブルまでこのゲームが置かれていて、コーヒーそっちのけでサラリーマンたちがゲームに興じていたほどだった。 「11PM」でも、水曜班がいち早くこのブームを取り上げた。 内容はインベーダーゲームの製造現場から、流行の様子、そしてその次に表れるであろう新たなゲームの予測までしたまじめなものだった。 スタジオにも機械を持ち込んで司会の愛川欣也さんやかたせ梨乃さんがゲームを楽しみながら番組を進めた。 番組終了後、ゲーム制作会社の人から、ゲーム機を番組側で処理して欲しいといわれた。 一度通電して売り物にならず、持って帰るのはたいへんだからというのだ。 もちろん私たちはよろこんで引き受けた。 こうしてインベーダーゲームは深夜そっと「11PM」のスタッフルームに運び込まれた。 それからというもの、デスクにいるスタッフは1〜2名の若い者だけ。 ほとんどのメンバーは出社早々スタッフルームにこもってゲームに興じるという、今考えれば異常な事態となっていった。 会議や深夜の台本作成などのために特別に与えられたスタッフルームが半ばゲームセンターとなってしまった。 隣接するパーラーからお茶やサンドイッチなどを取ってゲームに熱中したのだから質が悪い。 デスクに電話しても出ない。 スタッフルームはいつも使用中。 噂はいつしか広まり、他の番組のスタッフまで出入りするようになった。 そしてついに清掃のスタッフからの報告でこのことは日本テレビの総務部の知るところとなった。 その頃のチャランポランな仕事ぶりを容認してきた日本テレビもさすがに大問題となった。 当然スタッフルームのインベーダーゲームは即刻撤去廃棄。 上司に呼びつけられた勝田チーフプロデューサーは社員及び私等社外スタッフ全員の始末書を出せといわれたという。 結局私たちにはお咎めはなかったが、勝田さんと担当だった杉生ディレクターは始末書を書いたらしい。 けっして褒められた話ではないが、テレビという世界がおおらかに遊び心満点で動いていた良い時期のエピソードだ。 |
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今は「永田町の常識は世間の非常識」といわれ、政治家の世間離れした感覚を揶揄することばとして使われているが、本来この言葉はテレビの世界について、テレビ屋自らが語りだしたものだ。 もっと遡っていえば芸人さんたちのいう「洒落」に通じる。 自らを鍛えるための銘ともいえるもので、あえて一般の日常生活では非常識といわれる行動をとって仲間たちとバカ騒ぎしたこともたくさんあった。 それがテレビ屋としては当たり前と考えられていた。 この言葉の本来は「常識にとらわれて自由な発想ができないようではダメだ」ということを意味していた。 番組制作の過程で、物事を常に一面からだけ見るのではなく、いろいろな角度から見つめてゆくように、先輩たちからくどく指導された。 そこには豊かな発想が必須だった。 この考え方は私が最初に就いた『元祖どっきりカメラ』に顕著だ。 常識にとらわれていたら、あのように人を騙す番組などできはしない。 そんなこと起こるはずがないという常識を外れた発想があってこそ成り立っていた番組だ。 だからこそカモにされた人も見事に騙され、見ている人もおおいに笑えたのだ。 『11PM』で東ディレクターは「本音と建前」という面から、ソープランドやピンクサロンの過激サービスを切り取っていった。 司会の大橋巨泉さんは「裏文化」という言葉でそれを表現したこともある。 単に裸を見せるとか、新規開店の風俗店を紹介するのではなく、しっかりと日本社会全体と性風俗文化の不整合を表現したドキュメンタリーとして成立させていた。 今、テレビ界ではこの言葉を否定している。 発想はいくらでも豊かで、自由なものであってよい。 しかし行動はテレビ局の人間として社会の規範とならなければいけないというのが支配的だ。 が、これに寂しさを感じてしまう私だ。 チーフプロデューサーの始末書が警察に電話帳のようにたまっている。 そんな時代を懐かしむことしかできないというのは、社会・文化として成熟しているといえるのだろうか。 残念ながら私は常識人だった。 それはテレビの世界ではという注釈がつくかもしれないが、このことが残りの25年間のテレビ屋人生の一大テーマとなってゆく。 |
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昭和52年に『11PM』のADとして働くようになって3年近く経った頃、水曜日のチーフディレクター格だった高橋進さんから声をかけられた。 高橋さんはその後、日本テレビの制作局長を経て、読売テレビの常務になった人だ。 高橋さんから指示されたのは水曜イレブンの新しいカバーガールになった中島はるみさんのポーズ決めて、カットを作れということだった。中 島はるみさんはモデルとしてデビューしたが、すぐに女優に転進、後に映画「さそり」の主役となった。 高橋さんが私を指名したのは能力を見込んでということではなく、イレブンスタッフの中で一番暇そうにしていたからだったに違いない。 それと中島はるみさんの表情がどこかぎこちなかったのでそれを和ませるために起用されたのだ。 カットを作るといったところで、1台のカメラでのことだ、ズームかパンしかありはしない。 ようはどういうポーズをとらせるかにかかっているわけだ。 オープニングとエンディング、そして各CM前の7秒間にどれだけ男性視聴者の目を惹くか。 時間は短くてもこれは演出だ。 その日の彼女の衣装を見て、番組進行中にあんなポーズ、こんな格好といろいろ要求したものだ。 そんなことから月曜日のカバーガールのポーズも私がつけるようになってしまう。 今これを読み、11PMを見て、カバーガールにちょっとワクワクしていた人は私の演出に触れていたことになる。 まあ、それ以上にカバーガールたちに胸をとどろかせていたのは他ならない私かもしれないが。 ちなみにお笑いコンビだったパイレーツの「だっチューの!」ポーズは沢田和美さんに私が好んでつけたポーズだ。 月曜日では当時トップモデルだった樹れい子さん、沢田和美さん。 水曜日ではかたせ梨乃さんに始まり、タレントとしての才能もあったセーラ・ローエルさん、早瀬なおみさんなどの名前が思い出される。 彼女たちに共通しているのは、その性格の良さだ。 若い、まだADに毛が生えたかどうかという私の要求にもしっかりと応えてくれた。 今や大女優となっているかたせ梨乃さんは11PMの11回忌法要というイベントでも私の名前を叫びながら駆け寄ってきてくれた。 こうした付き合いは掛け値なしにうれしいものだ。 |
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