当社の運営するサイトです。お暇でしたらのぞいてみてください
これまで30年以上に亘ってテレビ番組、CM、イベント、コンサート、企業・商品PRビデオの演出など多岐にわたって活動してまいりました。
ですから、お客様からのご要望をしっかりと受け止め、プロならではのアイデアを加えた魅力的な作品を作り出すことができると自負しています。
「的確に分かりやすく」をキーワードに、120%ご満足いただける、ライバルが羨むビデオを制作します。
詳しくはこちら

5年間のタイ生活で経験したことや事件など。生情報もあります。

個人旅行者向け
タイの上手な旅の仕方の基礎知識

タイの実体験をエッセイ風、レポート風にまとめました




いよいよ24時間テレビがスタート
ハプニングが連続した24時間テレビ
24時間テレビ感動のドラマは続く
24時間テレビ綱渡りの制作現場
熱いメッセージに現場が音を上げた
思いもよらぬ宣言に悲鳴が上がった
24時間テレビが終わった後の意外

いよいよ24時間テレビがスタート
昭和53年、日本テレビが開局25年、テレビ放送開始四半世紀ということで、大きな番組をスタートさせた。
その中の一つが『24時間テレビ〜愛は地球を救う』だ。

この番組を企画したのは都築忠彦さんという月曜イレブンの担当プロデューサーだった。
都築さんは沖縄問題や日本在留の朝鮮人問題など社会派の番組を作る一方、年末には紅白ストリップ合戦という過激な番組を作ってもいた。
はっきりいって変な人だった(都築さんごめんなさい!)。

その都築さんが、日本テレビ25周年記念番組の企画募集に、テレビではいまだかつてない24時間の生放送番組を提案し、それが採用されたのだ。
当然スタッフは『11PM』のメンバー中心に構成された。
チーフプロデューサーは勝田建さん、プロデューサー兼ディレクターは都築さん。
その他、いろいろなポジションにイレブンのスタッフが就いた。
もちろん私も都築さんにかわいがられていたこともあり、準備段階から都築さん担当のADと共に中心的なスタッフとして加わった。

出演者はメインキャラクターに萩本欽一さんと大竹しのぶさん、日本テレビのGスタジオには司会として大橋巨泉さん、竹下景子さん。タモリさんも陣取っていた。

テーマは福祉。電動車椅子やリフト付きバス、お風呂カーを施設に寄付しようと、視聴者に募金を呼びかける番組だった。

なにしろ前代未聞の番組で、その第1回目である。
準備には都築さんでさえ考えきれていなかった大きな問題が次々と発生してきた。
日本テレビ内部の制作局、社会情報局、報道局など制作現場はもちろん局を挙げての事業。
それぞれの部署ごとに確執もあったようだ。連絡や調整もたいへんだった。

また、日本中の福祉団体との連絡や募金を管理するといったことも考えなければならない。
加えて系列の地方局まで各局独自に24時間テレビを作るというのに協力するのだから、それは想像を絶する騒ぎだった。

これらをAD含め10人に満たないメンバーで全て仕切っていた。
それも日常の番組を作りながらやっていたのだから、今考えるとずいぶん無茶な企画だった。
その現場で起こった数々のエピソードは次回以降にご紹介してゆこう。
MENUへ▲
ハプニングが連続した24時間テレビ
昭和53年、『24時間テレビ〜愛は地球を救う』がスタートした。

まだ福祉という意識が薄い時代のことだ。
募金が集まるかどうか不安はあったが、放送が近づくとそうしたことに意識は行かなくなった。
とにかく、日本テレビ開局25周年を記念した、前代未聞の特番を何とか乗り切ることだけが目標だった。

8月26日夜7時。いよいよ生放送がスタート。
この時まで私たち中心メンバーだった者たちはもう2日間以上完徹状態。
でも、あと24時間の生放送。
体がもつかどうか自信があるものはいなかった。

日本テレビのGスタジオをはじめ、局内の各所に視聴者からのメッセージを受け付けるため数百台の電話が用意され、社員、ボランティアが6時間交代で対応するよう人員を配置した。

ところが…。
番組がスタートするなり、すべての電話が一斉に鳴り出した。
すぐに回線がパンク。
半数近い電話が受けられなくなった。
当時の郵便貯金ホールでグランドオープニングが始まって、チャリティーパーソナリティーのピンクレディーの歌が終わるかどうかというころだった。

Gスタジオの大橋巨泉さんらが陣取る司会席に面して設置された電話コーナーはてんやわんやの大騒ぎとなった。
使えるのが半分とはなっても電話が鳴り止むことはなかった。
今のような軽やかな呼び出し音のない時代。
ジリリリ〜という音が鳴り止まない。
電話を切るとすぐ次の電話が鳴る。
そのそれぞれが熱いメッセージを伝えてくる。
1人につき2分と予想していた対応が、5分になるのは当たり前。
数十分になるものもあった。

放送開始から2時間ほどして、Gスタジオで電話対応をしていたボランティアの1人が突然椅子から崩れ落ちた。
するとあちらこちらで同様に机に突っ伏すものや体調不良を訴えるものが続出した。
ひっきりなしに鳴る呼び出し音と、視聴者からのメッセージの対応で疲労の限界に達したのだ。
思いもかけない出来事だった。

そんな予想外のハプニングに対応することもままならないとき、ひとりの男性がスタジオに入ってきた。
黒い毛糸の帽子にサングラスという、一見怪しげなスタイルの人だった。
ボランティアとして電話対応をさせて欲しいという。
尾崎紀世彦さんだった。
MENUへ▲
24時間テレビ感動のドラマは続く
昭和53年、第1回目の『24時間テレビ』は開始早々から、電話回線はパンク、電話対応のボランティアたちは続々ダウンするという異常事態となっていた。
事前の想定が甘かったというより、日本中の人たちの熱い心がそれだけ大きかったということだろう。

そんな中、出演交渉などしていなかった尾崎紀世彦さんが突然ボランティアでよいからと電話対応に参加してくれたのは、もう驚きだった。
あくまで一人のボランティアとして電話席に着いて次々と電話に対応してくれた。

電話回線やスタッフの体力に不安をかかえながら、深夜になった。
その時間帯で一番危惧していたのは暴走族の行動だった。
8月26日は土曜日。
暴走族が大挙してやってきたらどうするか。
麹町警察にもこうした場合の対応を求めていたようだ。

案の定、彼等は来た。
20台ほどの一団だ。
靖国通りから信号を無視し、爆音とクラクションを鳴り響かせながら日本テレビの玄関に設置していた募金ブースにやってきた。
そこにいたスタッフに緊張が走った。

その時、リーダーらしき男がポケットから小銭を含め相当な額の金を取り出し、募金箱に入れたという。
まさかという行動にその場のスタッフはあっけにとられた。
中の1人が記帳するようにいうと、彼は「いつも迷惑かけているから、こんな時ぐらいはな。これメンバーの持ち金全部なんだ」といって、そのまま記帳もせず走り去っていったという。

このエピソードがGスタジオに届いた。司会席だけでなく、スタジオの全員が感動した。
誰からともなく拍手も起こった。
スタッフ全員この番組の成功を確信した。

その後もいたるところから想定外の状況を伝える連絡が入る。
募金箱をもって街頭や中継場所で募金を呼びかけたスタッフが足りないという。
深夜になっても募金する人の流れが止まらず、募金箱は一杯。
その重さに耐えられない女性スタッフが続出していたのだ。
首からかけた紐が切れたという報告もあった。

各地方局からも想定外の熱い心が集まっているとの連絡が入ってきた。
その度にスタジオだけでなく、日本テレビ全体が湧き上がった。
感動の輪の広がりを番組にかかわる全ての人たちが実感していた。
MENUへ▲
24時間テレビ綱渡りの制作現場
昭和53年8月26日にスタートした『24時間テレビ』は日をまたいでもその感動の輪は広がり続けていた。

深夜1時からは浅草国際劇場でロックのコンサートが開かれていた。
今や伝説ともなっているブラスロックグループ「スペクトラム」が衝撃的なデビューを飾った。

そんな中、朝の放送に向けて追い込みの作業を続けているグループがあった。
放送に間に合うかどうか、誰も確信できない状態だった。

それは、手塚治虫さんのアニメだった。

第1回目の24時間テレビでは27日朝のアニメが目玉だった。
その手塚アニメがまだ完成していなかったのだ。

アニメの担当者から聞いた話では、声優たちのアテレコはほとんど絵がない状況だったという。
シーンごとの最初のカットがデッサン風に描かれていて、後はフィルムにマジックで線が引かれているだけ。
そこに台詞をあてていったという。
効果音や音楽も画面に引かれた線に従って入れていた。
なんとも恐ろしい話だ。

日本中のアニメーターに連絡し、1シーンだけでもいいからと制作を頼み込んだという。
だから良く見るとキャラクターの色合いや、タッチが微妙に違うところがあったという意見を聞いたことがある。

しかし、そうした普通なら考えられない状況で作業していても、そして何日も徹夜状態を続けても、まだ絵が間に合わない。
多くの人が放送できないということを覚悟した。
24時間テレビの生放送が始まってようやく映像の編集が終わり、そして、そこから収録してあった台詞や効果音などを整合させてゆく。
最終的に作品としてVTRに収められたのはアニメが放送されるまでもう30分もない頃だったと記憶している。

こうして作られた『100万年地球の旅 バンダーブック』は大好評を得た。
初期の24時間テレビの顔ともいわれるようなシリーズとなった。
当時たくさんの連載をかかえていた手塚治虫さんが、24時間テレビという番組の内容に共感し、細部までこだわった結果の産物だ。
全体としては劇場用のアニメに匹敵するようなレベルのものだったと評価されている。

生放送に綱渡り的な作業は日常的なものだが、このときの担当スタッフの心労はたいへんなものだったに違いない。
MENUへ▲
熱いメッセージに現場が音を上げた
第1回目の『24時間テレビ』は予想を上回る反響で日本中を感動の渦に巻き込んだ。

電話対応でダウンしたスタッフには次の時間帯に予定していたボランティアを早く呼び出して人員を補給。
またグランドオープニングに参加した日本テレビ音楽学院の「バーズ」の少女たちが自発的に何人も加わってくれた。
26日の深夜になってようやく電話回線もほぼ復旧した。

ところが、27日の明け方になってある部門から悲鳴が上がった。
リライト室だった。
FAXなどまだない時代。
視聴者からのメッセージは日本テレビの社員やボランティアが受けるが、彼等が書き取るのはほとんどメモ書きの状態。
とても放送で司会者たちが紹介できる文章になっていない。
内容もマチマチだ。
また、電話対応のスタッフによっても聞き取った内容をうまく表現しているもの、その反面どうしたものかと唸ってしまうようなものも数多くあった。

そこで、日本テレビ中で受けたメッセージはすべてリライト室に集められ、番組で紹介したい内容のものをまず取捨選択。
そうして選ばれたメッセージの主旨を失わないよう、しっかりとした文章に直してスタジオに送るようにしていた。

そこには構成作家たちが常時6名ほど張り付いていたが、処理が間に合わない。
テーブルには集まったメッセージがうずたかく積み上げられていた。
もう読むことすらできない。
ましてリライトするだけの体力がもう脳には残っていないほど疲弊していた。
それでもスタジオからは次のメッセージの要求がくる。

急遽、私がこの部門に加わった。
メモ書きの状態でも涙が浮かぶほどのメッセージがこれでもかというほどあった。
ところが、その頃私はもう60時間を超える完全徹夜が続いていた。
スタジオの喧騒から離れ、椅子に座ってメモを読んでいると猛烈な睡魔が襲ってきた。
メッセージを読んでも脳の回路が動かない。
リライトしていても知らず知らずのうちにウトウトしてしまう。
原稿を書いていたサインペンの文字が滲んでいたこともしばしばだった。

こうした極限状態はこのとき従事していた全てのスタッフに及んでいた。
MENUへ▲
思いもよらぬ宣言に悲鳴が上がった
第1回の『24時間テレビ〜愛は地球を救う』は、日本中に感動の波を起こし、数々のトラブルに遭遇しながら、グランドフィナーレに近づいていた。

萩本欽一さん、大竹しのぶさん、タモリさんなどが先導して青山通りをパレード。
代々木公園でエンディングを迎えることになっていた。
パレードする間、膨大な人が集まり、先導車に乗る欽ちゃん、しのぶさんに向かってたくさんのお金が投げられたという。
募金を受けるスタッフも歩いていたのだが、そちらに募金するよりは直接欽ちゃんたちに渡したかったのだろう。
それほど熱い心が高まっていた。
それは数名のスタッフがケガをしたほどだった。

その頃、本部とも言えるGスタジオは新たな問題に直面していた。

グランドフィナーレの最後に募金総額を発表することになっていた。
スタジオには募金を換算するため、最新の機械が置かれていたのだが、これがあまりの金額の多さに読み取りが間に合わない。
機械の周りには男1人では持ち上がらないほど大きく膨れ上がった募金がつまった袋が換算を待っていた。
Gスタジオは番組の進行そっちのけで、募金の換算に意識が集まっていた。

そんな時、信じられない情報がもたらされた。
グランドフィナーレの会場で、当時の日本テレビ社長が来年も24時間テレビを放送すると宣言したというのだ。
中心的に動いていた私たちスタッフは、それは嘘だと思った。
こんなことは二度と続けられるわけないと思っていたからだ。

募金の換算は結局グランドフィナーレの間では途中経過しか発表できなかった。
その時点では確か4億円あまりだったと記憶している。
最終集計では12億円近くが集まったそうだ。

番組が終了して、打ち上げパーティーがJスタジオで行われた。
その挨拶で制作局長だった井原高忠さんから、来年も続行することがあらためて伝えられた。
スタジオ内には、力ない「え〜っ」というスタッフたちの声が響いた。

翌日発表された視聴率は16%を超す予想以上の高さだった。
それ以上に、大きな社会的なムーブメントを起こしたのだからテレビ局として続行するのは当然の選択だ。
しかし、スタッフたちの声は乾杯の声より重く、大きく響いた。
MENUへ▲
24時間テレビが終わった後の意外
昭和53年、第1回目の『24時間テレビ〜愛は地球を救う』は日本中に感動の嵐を生み、数多くのトラブルを乗り越えて成功裏に終了した。

私が抜けてからも、中心メンバーたちには次なる作業が待っていた。

今は番組の制作グループと、募金や福祉団体と連携をとる24時間テレビチャリティー委員会は別個に動いている。
しかし、第1回目はまだそうした組織化は明確ではなく、都築プロデューサーをはじめ5名程度のメンバーで事後の作業にあたっていた。
その最も大切な仕事は募金を元に購入した電動車椅子やリフト付きバス、お風呂カーの寄贈先を決めてゆくことだった。

リフト付きバスやお風呂カーの生産は日産自動車が名乗りを上げてくれていた。
ところが、募金額が想像以上だったことから、当初予定していたよりは数倍の台数を寄贈することができることになった。
ただ、寄贈を希望する施設もそれを上回る数だった。

最初、24時間テレビでは少しでも多くの施設に寄付しようと、車に付けるアクセサリーなどの装備は最低限にしていた。
ところが、寄贈依頼を募った施設からは思わぬ要望・質問が寄せられたのだ。
クーラーをつけて欲しい。
カーステレオをつけて欲しい。
運転手がいないのでその雇用費用はどうなるのか。

いまから30年近く前。一般の乗用車でも装備されているのはせいぜいラジオくらい、エアコンやカーステレオなどまだ少なかった時代のことだ。
スタッフたちは困惑した。
それぞれの施設の要望に合わせた車を作らなければならないのか。
その分の費用増加。
少しでも多くの施設に寄贈したいという理念をどうするのか。

1件ごとに電話で連絡をし、そうしたオプションは付けられないと説明した。
いくつかの施設からはそれならばいらないという回答があったという。
正直、私はそれを聞いて唖然とした。
担当スタッフの困惑の程は想像できる。
結局、標準装備のレベルを上げた車を作ることにし、それを要望する施設に寄付することになったようだ。
福祉ということのむずかしさを、あまり気持ちのよくない形で実感させられた。

私はもう1年24時間テレビにかかわり、一時中断。
そして15回目からまたかかわることになる。
MENUへ▲
有限会社 SECOND EFFORT
〒092-0824 東京都八王子市長房町450-53
TEL:042-661-8788
Mail:info@2eft.com
HOMEへ