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私がAD(アシスタントディレクター)として就いた「11PM」月曜班の吉武ディレクターは、元は「おしゃれ」という番組を担当していた。 今から考えればこうした経歴を考えると水曜イレブンの方が向いていたと思うのだが、ちょうど月曜日を担当していた都築プロデューサーが大きな特番を制作することになったため、月曜班になったらしい。 そんな吉武さんが一度だけ水曜イレブンを担当したことがある。 横浜の元町商店街とタイアップして、元町や横浜をPRするという内容だった。 私たちはある男と女が元町を散歩しながらショッピングをしてファッショナブルに変身してゆくという筋書きを作った。 最初普段着で落ち合った二人が、それぞれ元町のメンズファッションやレディスファッションの店に立ち寄るたびに一点ずつ着替えてゆく。 そして元町のレストランで食事をし、最後は山手周辺を散策しながら去ってゆくというのだ。 吉武さんは早速「おしゃれ」以来仲の良かった岡田真澄さんに出演を依頼した。 そして女性の方は、その頃水曜日のアシスタントだった秋川リサさんにお願いした。 元々岡田真澄さんは山手のセント・ジョセフというアメリカンスクールに通っていたこともあり、元町は庭のような町で、いろいろとアドバイスしてくださった。 結果、この企画は大成功だった。 ちょうど秋風が吹き始めたころだったと記憶しているが、ファッショナブルに変身した岡田さんとリサさんがコートの襟を立て腕を組んで歩く後姿は、今ならばわたせせいぞうの絵のように、声も出ないくらい様になっていた。 最後の夕景に染まる港の見える丘公園から山手、そして外人墓地を散歩する映像は、当時の16mmフィルムの効果もあってとても美しかった。 司会の愛川欣也さん始め出演者・スタッフともため息をつきながら見入っていたのを今も覚えている。 このときの岡田真澄さんと秋川リサさんのロケは1日だけだったので、ADの私としては時間のロスなく次々と段取りをつけるために元町商店街を何往復もダッシュした。 肉体的には本当に厳しかった。 だが、スタッフというものどんなにつらい仕事でもできあがった作品が良ければ、全て報われるということをあらためて実感した。 |
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吉武ディレクターと私のチームは「11PM」月曜班で苦戦が続いていた。 他のディレクターたちのような「これだ!」というオリジナリティーのある番組が作れていなかったからだ。 はっきりいってそれも無理はない。 他のディレクターといえば風俗情報専門の東さん、UFOの矢追さん、社会問題の都築さん、映像の美しさの岩倉さん、若者向の情報を意識した今田さんなど、つわものばかりだったのだ。 大橋巨泉さんのノリも悪い、視聴率も上がらないと担当の回が来るたびに、針の筵に座るような状態だった。 吉武さんはある人の紹介で構成作家を換えた。 南川泰三さんという当時30歳くらいの若い作家さんだった。 後に南川さんはフジテレビの「ムツゴロウの動物王国」シリーズの構成を担当、注目を浴びる作家となるのだが、この頃はまだそれほど有名ではなかった。 そして、南川さんのアイデアによるネタも、なかなかうまくいかなかった。 そんな時、一人のタレントが注目されるようになっていた。 「金曜10時!うわさのチャンネル!!」という和田アキ子さんをメインに、プロレスラーのザ・デストロイヤー、せんだみつおさんなどが出演していたバラエティー番組の中で、「四ヶ国親善麻雀」というわけの分からないコーナーを担当したタレントだ。 片目にアイパッチをして、大きな蝶ネクタイにタキシード姿。 実際には意味のない言葉で中国人やロシア人がマージャンをしたときの様子を表現するのだ。 そのタレントの名前はタモリといった。 私はこの人を私たちの回で登場させようと提案した。吉武さんは最初乗り気ではなかったが、まあ一度会ってみようということになった。 初めて会ったタモリさんは静かなイメージの人だった。 だが、イレブンならではのネタを考えたいというと、彼からびっくりするほどいろいろとアイデアが出てきたのには驚いた。 その頃の十八番だった中洲産業大学教授シリーズをはじめ、食べられなそうで食べられる料理シリーズ、旅行代理店の説明会シリーズ、スチュワーデスの動きに勝手にHなナレーションをつけるシリーズ、形態模写シリーズなどどんどんアイデアが披露された。 私たちはこの出会いから、月曜イレブンでちょっとだけ存在感を作れるようになってゆく。 |
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月曜イレブンを担当していた吉武ディレクターと私のチームは、昭和52年ごろからにわかに注目を浴びる存在となったタレント、タモリさんと出合った。 そして、彼のコーナーを作ったのだ。ネタは、タモリさんから出されたアイデアの、旅行代理店の説明会というものだった。 「YALパックJOY 3発4日 サネヶ島の旅」というツアーを企画した旅行代理店の担当者(タモリさん)が参加者にそのツアーの内容を説明するというものだった。 タイトルからも分かるとおり、いろいろと危険な発言がありそうということで、吉武さんは本番数日前に収録し、危ないことばは編集するか、音を消す処理をすることにした。 ところが、全く同じタイミングで、同じ月曜イレブンの岩倉ディレクターもタモリさんのコーナーを作る準備をしていた。 ネタは、こちらもタモリさんの十八番で、中洲産業大学教授シリーズ。 白衣にアイパッチ、寝癖に見えるヘアスタイルで社会状況をパロディーにするものだった。 そのころ「11PM」は各ディレクターが独自に担当回の企画をしていて、横の連絡というものはなかった。 そのため、同じ月曜イレブンでタモリさんが不定期ながらも1コーナーを持つことになってしまった。 しかも、岩倉さんは放送当日、生放送が始まる前に収録してそのまま放送するという思い切った方法に出ることにしていた。 このため、タモリさんのコーナーを最初に収録したのは吉武チームだったが、最初に放送したのは岩倉さんということになった。 その後、吉武さんは「食べられなさそうで食べられる料理シリーズ」など毎回ネタを変えてタモリさんのコーナーを作ったのに対し、岩倉さんは中洲産業大学教授シリーズで社会を風刺することにこだわった。 最終的にはどこかの大学の教室で講義をしたと記憶している。 今思えば、タモリさんというタレントをテレビに引き出したのは「金曜10時!うわさのチャンネル!!」だったが、彼の存在を広く、強く印象付けたのは11PMだったと思う。 後に矢野義幸さんというドラマ「熱中時代」のディレクターが水曜イレブンに加わり、その頃のタモリさんの芸の集大成ともいえる番組を作ることになる。 そしてこの流れは「今夜は最高」というタモリさんがメインの番組に昇華してゆく。 |
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昭和53年、私たちはその頃の笑いのニューウェイブ、タモリさんと出会うことでようやく月曜イレブンの中でオリジナルな企画が作れるようになり始めていた。 タモリさんが最初に注目されたのは「オールナイトニッポン」というラジオ番組だったと思う。その後日本テレビの「金曜10時!うわさのチャンネル!!」でテレビに本格進出したはずだ。 これに注目した月曜イレブンでは、主に岩倉ディレクターと私がアシスタントしていた吉武ディレクターが、何回かコーナーを作って出演してもらった。 いずれも学生たちを観客として置き、ちょっとしたライブ感覚を持った演出をした。 この狙いは正解だったと思う。 タモリさんのはじけ方がその他の番組とは違ったのだ。 最初はパッケージツアーの説明会でタモリさんが旅行代理店のスタッフ役でいろいろ説明するものだった。 料理シリーズというのがあった。 食べられなさそうで実はおいしいもの、またはその逆もあるが、そうした料理をタモリさんがその話芸とともに実際に作った。 メインディッシュは「ハナモコシのフェレ地中海風」という名の魚料理。 その頃からタモリさんの料理の腕前は素晴らしいいもので、多分ブリだったと思うが、一匹を見事に捌いて見せた。 ただそこからは笑いの世界に入る。本当に食べられるかどうか…、びっくりするような味付けをした。そのレシピは残念ながら記憶に残っていない。 デザートには「お新香パフェ」。 フルーツパフェのフルーツの代わりに、ぬか漬けのお新香が入っているもの。 上にお醤油をかけるのがポイントだ。 他に「チョコしゃぶ」(熱して溶けたチョコレートに牛肉をしゃぶしゃぶ風にして食べる)という案もあったが、これは形にならなかった。 タモリさんはこれらの料理を、そのころ居候していた赤塚不二夫さんたちと、全て作って食べてみたことがあるという。「チョコしゃぶ」と「お新香パフェ」はお薦めだといっていたが…。 大橋巨泉さんと寺山修二さんのものまねで、社会状況について対談するというコーナーも作った。 ものまねが似ていることもさることながら、その発言内容が、いかにも二人が考え、ことばにしそうな内容だったことに驚いた。 しゃべり方だけでなく発想までまねしていたのだ。すごいと思った。 |
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吉武ディレクターと私のチームは、タモリさんのコーナーを作ったことで、一応月曜イレブンでの居場所を作った。 そして、その後いろいろなキャラクターを出演させることで、吉武カラーを出すことになる。 ただ、吉武さんはタレントについて全く疎い人で、「今」おもしろい人たちを提案するのは南川泰三さんという放送作家と私の担当ということになった。 タモリさんに次いで、私が提案したのは、なぎら健壱さんだったと記憶している。 なぎらさんはそのころフォークシンガーとしてごく一部には知られていた。 それは「葛飾にバッタを見た」など発表する曲が次々放送禁止になっていたからだったからだ。 その頃テレビにはほとんど出演の機会はなかった。 私はCMにはいる前の2回、その回のテーマに沿った内容の歌をなぎらさんに作ってもらい、歌うことを提案した。 そして、南川さんの賛同も得てその出演が決まった。 ところが、思わぬところからストップがかかった。 それは日本テレビの考査課からだった。 なにせ出す曲出す曲が放送禁止になるようなものばかり作る人だ。 危険を回避することが任務の人には見逃すことのできないものだったに違いない。 放送当日に吉武さんは考査課に呼び出しを受け、番組内容などの説明をさせられた。 最終的には、なぎらさんが歌う歌詞を放送前に考査課に届け、問題がないことを確認してから正式にOKが出ることになったと記憶している。 もしこれがダメだったら出演はさせないというのだ。 生放送の番組にとって、なぎらさんの歌のために用意した約4分というのはたいへんな時間だ。 吉武さんは彼がスタジオに入るなり、楽譜を考査課に照会した。 結果、それは考査課が危惧したようなものではなく、予定通り生放送にこぎつけることができた。 ギターの弾き語りは良い雰囲気を作っていたと思う。 後日、吉武さんには考査課から出演者については十分考慮するよう指示があったようだ。 逆に、スタッフ間からは11PMという番組の性格上、こうしたキャスティングもあってしかるべきだと支持もあったという。 ただ、なぎらさんはこの1回だけの出演だったのは残念だった。 そして私たちはまた新たなニューウェーブを登場させることになる。 |
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吉武ディレクターと放送作家の南川泰三さん、そして私のチームは、タモリさんなぎら健壱さんなど、その頃は特異といわれたキャラクターを登場させることで、どうにか月曜イレブンに居場所を作れるようになった。 そうしたキャラクターを探すことを指示された私が次に提案したのは新人(実はコンビ歴は長かった)の漫才コンビだった。 その頃、B&Bの出現によってMANZAIブームが起こる気配をみせていたが、東京出身で新しい旗手になると期待されているコンビだった。 彼等の名はツービート。 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」や「コマネチ!」で人気を集めだしたコンビだった。 このときも、以前のタモリさん、なぎら健壱さん同様、私たちはCM入り前のクッションとして二人のコーナーを設定した。 構成の南川さんは、その回のテーマを踏まえて、若い漫才コンビのために約2分で完結する台本を書いた。 ツービートがスタジオに入って台本に目を通した後、私はビートたけしさんから声をかけられた。 これでは笑えない、二人のコーナーの導入部は番組の内容を踏まえるが、後は自分たちのネタでやりたい、というのが彼の主張だった。 当然私の決断できることではなかったので、吉武さんに判断を仰いだ。 その結果、たけしさんの主張を生かすことになったのだが、それは南川さんが作ったものとはかけ離れた内容のもので、持ちネタの「赤信号、みんなで渡れば怖くない」や「コマネチ!」に終始したものだった。 その日の放送終了後、立会いに来ていた南川さんに誘われて一緒に呑みに行った。 そこで彼は荒れた。 若い漫才コンビに自分の作った台本が無視されたのだ。 理解できることではあった。 ただ振り返ってみれば、深夜の、それも生放送で2分かそこらで笑いを作れというほうが無理な要求だったと思う。 その意味でツービートにも南川さんにも責任はない。 こうしたスタッフと出演者の思惑の違い。私はこの後のテレビ屋人生の中で嫌というほど経験することになる。 とはいえ、これが大橋巨泉さんとビートたけしさんの初めての出会いであったはずで、その後お二人が数々の番組でやり取りをしているのを見る度に、この日のことが蘇ってくる。 |
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