第七章 開かれた世界から
第5節 「文章体」なのか、「文語体」なのか

   非制限的関係詞節は「文章体」(あるいは「文語体」)[7−46]であると評されることが多い一方、制限的関係詞節はそのような評され方をすることは少ない[7−47]。ところで、非制限的関係詞節と制限的関係詞節の相違に目を向けた場合、視覚あるいは聴覚を介して知覚しうる相違は、「カンマ」もしくは「間」の有無である。文字表現の場合と比較して、日常的音声表現の中での非制限的関係詞節の使用頻度が相対的に低いとすれば、「堅苦しい[formal]」([7−46]参照)と感じさせる「間」を伴った非制限的関係詞節は、「堅苦しさ」が敬遠されるような状況では避けられる傾向があるとでも判断しておく他はない[7−48]

   《分詞構文》もまた「文語体」(あるいは「文章体」)(に用いられる)と評されることが多い[7−49]。その一方、「主格補語」については格別な文体評価が下されることはない。「主格補語」と《分詞構文》の差異は明示的に記述し得ないという姿勢が示される(本章第1節及び[7−3]参照)ことがあるにもかかわらず、である。ただ、「主格補語」なのか《分詞構文》なのか、「この二つの構造を画然と区別することはできないであろう」(大江三郎『講座第五巻』、p.226)と評されるような「同時生起、それに継起の分詞構文」[7−50]本章第1節参照)については、「話しことばにもふつうに用いられる」(ibid)とも説明される。

   「同時生起を表わす分詞構文」の例として次のものが挙げられている。

(4)a. He sat there( , ) watching TV.
     b. He watched TV( , ) sitting there. (大江三郎『講座第五巻』、p.226)
   文例(4)aについては次のように述べられる。
(4)aは前章最後の節で、主格補語として用いられる現在分詞の例としてあげた(122)aの He sat watching TV. にthereを挿入しただけのものである。こうすることによって分詞句の独立性が高まるとはいえるが、この二つの構造を画然と区別することはできないであろう。(ibid)(下線は引用者)
   「この二つの構造を画然と区別することはできないであろう」という感想が生まれるのは、そこには「カンマ」も「間」も必要であるとは感じられないからである(本章第1節の冒頭部分に引用した「補足節」に関するCGELの記述参照)。本稿がそこに区別を見出したのは、「カンマ」(あるいは「間」)の有無に応じて、並置分詞句あるいは主辞補辞を見出し得ると判断したからである(本章第1節参照)。ただ、文例(4)a、bは、カンマ(あるいは「間」)の有無を論じるための素材としては、他の数々の《分詞構文》の文例(特に、文末に位置する《分詞構文》の文例([4−6]参照))についても指摘し得る通弊であるが、余りにも安易に選択されている。次の例で考えてみる。

(7−23)
He spends his spare time with friends, watching action films at the cinema, or rugby and football matches ; he is a loyal Aston Villa supporter.
〈彼はひまな時間は友人と過ごし,映画館でアクション映画を見たり,ラグビーやサッカーの試合を見ている。アストン・ヴィラの熱心なサポーターである。〉
(注) "He" : 英国王室のPRINCE WILLIAM
(Modern Prince joins the real world BY ALAN HAMILTON AND ANDREW PIERCE, The Times Online, June 17 2000)

   孤立した発話"I caught the boy waiting for my daughter." (CGEL, 15.62)中の分詞句をめぐって三通りの解釈を繰り広げる([2−13]参照)ことが許されるのであれば、(7−23)についても、"watching ……"の前のカンマが欠ければこの分詞句が直前の名詞"friends"の制限的名詞修飾要素であるという解釈が可能になると指摘するくらいのことは許されるはずである。いかにも為にするたぐいの指摘にしかなりそうにはないが。

   (7−23)中の"watching ……"は、文字で表記されている限り、並置分詞句なのか主辞補辞なのか、判断は下し難い。音声で表現された場合、"watching ……"の前に「間」が置かれれば、この分詞句を並置分詞句であると判断しよう。

(7−24)
Tsuyoshi Shinjo sat by his locker this afternoon, smiling as he examined the New York newspapers with his picture on the back page.
〈新庄剛志は今日の午後、自分のロッカーのそばに腰をおろし、笑みを浮かべて、裏頁に自分の写真の載ったニューヨークタイムズ紙をしげしげと眺めていた。〉
(METS 6, EXPOS 3--Shinjo Leads Mets to Victory Again By TYLER KEPNER, The New York Times ON THE WEB, May 22, 2001)

   (7−24)中の"smiling ……"はこの文字表現から判断する限り、並置分詞句である。カンマが欠ければ主辞補辞であると判断する。

   そもそも、《分詞構文》は「文語体」に用いられるのか、それとも「文章体」に用いられるのか(「文語体」ないし「文語的」という用語の方が断然優勢である([7−49]参照))。「文語体」と「文章体」は同じなのか、それとも異なるのか[7−51]。どのような英文を「文語体」と評せるのか。(7−23)と(7−24)は「文語体」であると評すべきなのか、それとも「文章体」であると評すべきなのか。「分詞構文は文語的な表現で、日常的な英文にはむやみに使うべきではない。」(江川泰一郎『改訂三版 英文法解説』、346)と説明される上は、《分詞構文》"compared with …."(本章第4節参照)を含む(7−15)は「文語体」であって「日常的な英文」ではないのか("compared with …."の箇所は「文語的」だが、残る部分は「文語的」ではないなどという反論は、よもや返ってくることはなかろうと思う)。

(7−15)
My problems are insignificant compared with the difficulties he faces.
(彼が直面している難問に比べれば、私の問題はささいなことです)
(江川泰一郎『改訂三版 英文法解説』、236)(斜体と下線は引用者)
   ちなみに、以下はZandvoortが「文語的英語[literary English]」の例として挙げている英文である。
(7−25)
Bruce Richard was a great editor : fortunate those critics who wrote for him.
(Times Literary Supplement, Jan. 13, 1961, front page.)
〈ブルース・リチャードは偉大な編集者であった。幸運なるかな、氏のため筆を振るいし批評家諸氏よ。〉
(Zandvoort, A HANDBOOK, 583)
   英語教師の立場からこの英文の特徴を言えば、教室で英文解釈の教材となる可能性はあっても、英作文の教材に文例として挙げることにはなりそうもない類の英語であり、学生たちが書けるようになるには及ばない類の英語である。

   一度、高校生クラスの学生たちに、現代日本の新聞や雑誌の日本語を「文語体」であると思うか尋ねたことがある。十数名ほどのクラスであったが、一名だけが「文語体」であると思う、と応じた。その一名にとっての「文語体」は「口語体」に対しての「書き言葉」と結びつくということであろうし、その他の十数名にとって、「文語体」は、程度はともかく日常の口語体日本語とは懸隔のある堅苦しさや物々しさを感じさせる言葉遣いと結びつくということであろう(『大辞林』によれば「文語体…文語Aで綴られた文章の形式。候文体・擬古文体・普通文体・和漢混交文体・漢文体・宣命体など。」(「文語A」とは「古典語。平安時代の言語に基づき、それ以後の時代の言葉の要素をも多少加えた書き言葉。」である))。

   稿を進める上で、「文語体」と「文章体」の区別に関わる問題に一応の決着をつけておきたい。現代日本の新聞や雑誌の日本語を、私は「文章体」であると見なすが、「文語体」であるとは考えない。アメリカ合衆国や英国の新聞・雑誌(『ニューヨーク・タイムズ』、『USAトゥデイ』、『ガーディアン』、『タイム』、『エコノミスト』、『フォリン・アフェアズ』など)の記事や論説は基本的に「文章体」で書かれていると判断する(「口語体」をたっぷり交えて書かれている記事も一部あるし、論説の中には「文語的」と評すべき箇所もある)。非制限的関係詞節や《分詞構文》をどうしても「文語体」と結びつけようとすれば、これらの新聞・雑誌の英語を「文語体」と評するよう求められよう。ただし、そうなると「口語体」を除いた全ての英語をほぼ「文語体」に括らざるを得なくなるかもしれない。King James Versionの英語も『USAトゥデイ』の英語も一様に「文語体」と評されることになるかもしれない。

   私たちが接する機会の多い新聞・雑誌の英語は「文章体」であると私は判断する。従って、そうした英語で多用される《分詞構文》や非制限的関係詞節を、私は「文章体」に結びつけることになる。かくして、次のような見解には果たして合理的根拠があるのか、私には極めて疑わしく思える。

生徒は分詞構文を用いて書きたがるが、あまり分詞構文をむやみに使わないように指導したい。
(綿貫陽・淀縄光洋・MARK F. PETERSEN 『教師のためのロイヤル英文法』p.145) [7−52]
   《分詞構文》と同じように「文語体」と結びつけられる非制限的関係詞節については、この種の助言が行われることはない[7−53]。《分詞構文》が多用されているのは、私たちが接する機会の多い新聞・雑誌の英文の中であり、そこで目にするのは、例えば(7−23)(He spends his spare time with friends, watching action films at the cinema, or rugby and football matches ; he is a loyal Aston Villa supporter. )や(7−24)(Tsuyoshi Shinjo sat by his locker this afternoon, smiling as he examined the New York newspapers with his picture on the back page. )のような英文であり、私たちが読むこと、書くこと、更には話すことを学ぶための素材とするのにふさわしい英語である。私たちが教室でまず学ぶのは「文章体」の英語であり、私たちが英文を書く上でまず参考にすべきは「文章体」の英語であり、そこでの出現頻度が極めて高い《分詞構文》は、私たちが書くことをも積極的に学ぶべき表現形式の一つである。とすれば、重大な問題が生じる。私は本稿で、《分詞構文》という了解を否定してきたのである。《分詞構文》は存在しないと述べてきたと言ってもいい。存在しないものをどうすれば学習対象となし得るのか。これは精一杯の婉曲表現である[7−54])。

   「文章体」に関する一見解を紹介しておく。

文章英語[Written English]は詩であれ散文であれ、教育ある人の口頭英語[educated spoken English]とはその形態においてもその統語構造においても殆ど相違がない。また、文語的英語[literary English]に特徴的であると分類されるような少数の形態や構造は、詩においてさえ、一般的に稀である。
(KRUISINGA & ERADES, An English Grammar, 566) [7−55]

  

(第七章 第5節 了)


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© Nojima Akira