第七章 開かれた世界から
第1節 《分詞構文》と主辞補辞……分詞句の場合

   主辞補辞[1−5]参照)(日本の学校英文法では「主格補語」[7−3], [7−18]参照)と通称されている)について何ごとかが語られる場合、その語りはカンマを伴う分詞句の理解に見合ったものになるはずである。主辞補辞の領域は画定的なものではなく、その広がりはカンマを伴う分詞句の領域の広がりと相関性がある。主辞補辞については、《分詞構文》という了解に見合った語り口があり、「補足節」という了解に見合った語り口がある。本稿には本稿として語るべきことがある。

   第一章第3節で次のようなことを述べておいた。

ある名詞句に添えられる非制限的修飾要素は、その名詞句の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがら、即ちその名詞句の指示内容の属性(であると話者に判断されていることがら)の一端が展開される形態の一つである。
   ある名詞句の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端は、その名詞句が主辞の機能を果たしている場合には、主辞に呼応する述辞という形態で展開されることもあり(第一章第5節、及び[1−40]参照)、非制限的名詞修飾要素という形態で展開されることもある。更に、「主辞補辞」という形態で展開されることもある。そして、《分詞構文》との区別を迫られる類の主辞補辞は、形態上は、主辞に呼応する「完全な述辞[7−1]」内にその身を置く。以下の文例中の下線部は「完全な述辞」であり、太字部は「主辞補辞」である。

(7−1)
Another firefighter died Aug. 6 when a helicopter crashed battling fires in Nevada. Five other firefighters, from Arizona, Florida, South Dakota and two from Texas , also have died fighting wildfires this year.
〈更に一名の消防士が八月六日に亡くなったが、ネバダ州で消火活動中、ヘリが墜落したのである。今年は他にも、アリゾナ、フロリダ、南ダコタの消防士五名が、またテキサスの消防士二名が、山火事の消化活動中に亡くなっている。〉
(FEMA director tours fire damage, USA Today.com, 08/12/00- Updated 08:51 PM ET)

   「補足節」という了解は主辞補辞をめぐって次のような記述を展開する(「補足節」とは「従位詞を欠いた副詞的分詞節[Adverbial participle clauses]と副詞的無動詞節[Adverbial verbless clauses]」(CGEL. 15.60))([1−4], [3−3]参照)。

非制限的関係詞節[nonrestrictive relative clauses]との類似性にもかかわらず、補足節[supplementive clauses]は文末の位置に現れる場合、抑揚によって[intonationally]その母型節[matrix clause]と切り離される必要はない。したがって次の例は、同一の文[the same sentence]の代替的表出[alternative renderings]であり、相違点は文例[1]では情報面で二つの焦点があるが、文例[2]では一つしかない、ということだけである。
   The manager APPROACHED us, SMILing. [1]
   The manager approached us SMILing. [2]
(CGEL, 15.62)([6−20], [6−34]でも引用した箇所)
(大文字は原文のまま。[1]では"SMILing"の前にカンマがあり、[2]ではカンマがない。下線は引用者。「母型節」については[1−10]参照)
   CGELのこうした見解に私が同意し難いのは、一つには「抑揚によってその母型節と切り離される必要はない」という点には同意できない[7−2]からであり、一つには「同一の文」という表現によってCGELの筆者が何を言わんとしているかが私には把握し難いためであり、更には文例[1]「情報面で二つの焦点がある文」と文例[2]「焦点が一つしかない文」との間に私は重要な差異を見出すためでもある。分詞句にカンマが伴うことを直接の契機として派生する焦点の数の相違はそのまま主辞補辞と非制限的名詞修飾要素(即ち並置分詞句)([6−19]参照)の差異を分節するというのが本稿の立場である。本稿は分詞句に伴うカンマに重大な関心を向けてきたが、主辞補辞に言及すべき段階に至ってようやく、カンマが介在することに伴う「焦点」の数の相違に注意を喚起する機会がめぐってきた(「非制限的関係詞節」の「相対的独立性」については[1−52]参照)。

   以下に挙げる二つの文例中のいずれの分詞句をも、CGELは「補足節」(つまり副詞要素)と見なすであろう。「補足節」という了解はカンマ(あるいは抑揚)の有無を論点として捉えていないのである。本稿が「カンマを伴う分詞句」の理解としては不適切であるとして退けた「《分詞構文》という了解」によれば、主辞補辞と《分詞構文》の「違い」については次のようにも説明される。

He sat in a corner watching everything but saying nothing.
(彼は隅に座ったまま、すべてを見ていたが、一言も口出しすることはなかった)[主語の様態の記述]
He sat in a corner, watching everything but saying nothing.
(彼は、すべてを見ていながら、しかし一言も口出しすることなく、隅に座っていた)[分詞構文、watchingの前のコンマに注意]。
(安井稔編『コンサイス英文法辞典』, participle(分詞)の項)(下線は引用者)
(この二文例については[1−22]参照)
   CGELの「同一の文」という表現を「同一の意味内容」とでもとりあえず解釈した上で記述を続けると、上記二文例の「意味内容」([1−6]参照)はほぼ同じであり、相違点は「焦点」の数である。二つの焦点を見出せる後者の文を、焦点が二つあることが明らかになるような日本語に敢えて置き換えてみると、「彼は隅に座っていた。すべてを見つめていたが何も言わなかった」とでもなろう。焦点が一つしかない前者の文例は、「(3)主語修飾」[7−3]の例として挙げられている。「(3)主語修飾」については「分詞は、主節動詞の主語を間接的に修飾し、主節動詞の表す動作・状態における主語の様態を記述する機能を持つ。ここで用いられる主節動詞は、stand, lie, come, sitなど出現・存在を表す自動詞が多い」(荒木一雄・安井稔編『現代英文法辞典』, participle(分詞)の項。下線は引用者)という解説が付されている。更に、上記の引用に先立つ箇所(分詞の「副詞的機能」の箇所)で既に「分詞は後述(3)のように、主節動詞の主語を間接的に修飾し、主節動詞と同格的に、主節動詞の表す動作・状態における主語の様態を叙述する働きを持つ」(ibid)(「後述(3)」とは「(3)主語修飾」のこと)とより詳しく解説されている[7−4]

   上記の二文例について、私は、「焦点」の数が相違する、と指摘するにとどめておく(そしてこれで十分であり、これ以上述べるべきこともない)。前者の文例中の分詞句は主辞補辞であり、後者の文例中の「カンマを伴う分詞句」は非制限的名詞修飾要素(即ち並置分詞句)である。いずれの分詞句の暗黙の主辞も一応"He"であると判断し得るが、非制限的名詞修飾要素(即ち並置分詞句)の暗黙の主辞について述べてきたことは、主辞補辞である分詞句の暗黙の主辞についても同じように当てはまることが分かるはずだ。「すべてを見つめていたが何も言わなかった」のは、「隅に座っていた彼」であるといった事情である(上記の『現代英文法辞典』からの引用、及び[7−4]参照。更に、第一章第4節第五章第3節、及び[1−31], [1−39]参照)。

   しかし、『コンサイス英文法辞典』(『現代英文法辞典』も)はこれら二種類の形態の分詞句の「違い」を更に解説している。

分詞構文の付帯状況の用法との区別がむずかしいことがあるが、分詞構文の場合は分詞の前に休止が置かれ、分詞よりも主節の動作・状態に強調がある。それに対して、ここでの主語修飾の用法での分詞は、分詞のほうに強調がある
(安井稔編『コンサイス英文法辞典』, participle(分詞)の項)(下線は引用者)
   文字で表記された孤立した発話([1−6]参照)を吟味する場合、議論を過剰に展開せぬよう心する必要がしばしば生じる。例えば、''I must do my homework.''という発話は話者の「断固たる決意」を示している、などとは軽軽に断言せぬよう心がけるといったことである[7−5]。ある発話中のどの部分が強調されているか(あるいは、どの部分が「新情報」であり「旧情報」であるのか([1−40]参照))を判断するにはその発話に関わる言語的脈絡([1−6]参照)を初めとして様々な要素を判断材料とせねばならない。音声による発話の場合には、どの箇所に強勢が置かれているかが重要な判断材料となろう。例えば"We have our work done."は、いずれの語句に強勢が置かれるかに応じて、「仕事は人にやってもらう」ということにもなろうし、「仕事は片付いた」ということにもなろう[7−6]

   以下に挙げる文例の場合、『コンサイス英文法辞典』の指摘するように、「主語修飾の用法での分詞は、分詞のほうに強調がある」と判断すべきなのか。

(7−2)
In a sign of growing British involvement, General Sir Charles Guthrie, chief of the defence staff, is flying to Sierra Leone this weekend accompanied by a senior Foreign Office official.
〈英国が関わりを深めつつあることの証しとして、参謀総長サー・チャールズ・ガスリー将軍は今週、外務省高官を伴ってシエラレオネに飛ぶことになっている。〉
(Britain takes war to Sierra Leone rebels by Chris McGreal in Freetown, Richard Norton-Taylor and Ewen MacAskill, Guardian Unlimited, Saturday May 13, 2000)

   分詞句"accompanied by …."にはカンマが伴っていない故、私はこの分詞句を主辞補辞であると判断し、そこに独立の焦点を見出さない、と述べておくにとどめる。「主語修飾の用法での分詞は、分詞のほうに強調がある」とまで語ってはおそらく語りすぎである。

   主辞補辞と《分詞構文》の《違い》はあちらこちらで解説されている。

   同時生起を表わす分詞構文の例としては(4)のようなものがあげられよう。分詞句はふつう文尾に来る。
     (4) a. He sat there ( , ) watching TV.
           b. He watched TV ( , ) sitting there.

   (4)aは前章最後の節で、主格補語として用いられる現在分詞の例としてあげた(122)aの He sat watching TV. にthereを挿入しただけのものである。こうすることによって分詞句の独立性が高まるとはいえるが、この二つの構造を画然と区別することはできないであろう。 (4)のaとbとは、描かれる二つの同時生起的できごとは同じだが、その違いはいずれに重きを置くか、つまり前景として表現しようとするかという話し手の意図の違いに起因する。この意図はしばしば談話的に規制される。また、この種の分詞構文はあとから思いついて付加された要素、追想付加であることも多い。その場合書かれる文ではコンマによって、話しことばではポーズによって前を区切られる。こうなると分詞句の独立性はいっそう強まる。
   同時生起、それに継起の分詞構文は時や理由を表わす、従属節にパラフレーズされるような分詞構文とは異なり、話しことばにもふつうに用いられる。
(大江三郎『講座第五巻』、p.226)(句読点原文通り。”there ( , ) watching”の箇所ではカンマが括弧に入れられている。下線は引用者)[7−7]

   《分詞構文》という了解に基いて「同時生起」やら「追想付加」やらを語るといったこと、つまり、母節と分詞句の関係をその意味内容の関係に還元した上でその関係の在り方を解読する(第二章第2節参照)といったことは、カンマを伴う分詞句について枝葉末節を語ることにしかならないことは既に述べた通りである(第六章第5節参照)。『講座第五巻』の筆者は、カンマの介在を《分詞構文》の要件であるとは認識していないようだが([7−3]参照)、カンマが介在することで「分詞句の独立性はいっそう強まる」ことは認識している。ただ、「分詞句の独立性はいっそう強まる」こと、言い換えると、焦点の数が増すことを、認識するのではなく感じていれば、「この二つの構造を画然と区別することはできないであろう」と記述することはなかったであろう。同じことが、以下に引用する記述の筆者にもある程度当てはまる。説明を頼りに分かろうとするのではなく、二つの文にただ向き合って違いを感じていれば、その語り口から洩れ出ている困惑や苛立ちを味わうことはなかったかもしれない。
……ここでもう一度アメリカの教科書に戻ってみよう。次の例は、最も簡潔に分詞の働きを説明したものである。
(1) The singing choir marched onto the stage.
(2) Singing, the choir marched onto the stage.
In these sentences, singing, like a verb, expresses action; like an adjective, it modifies the noun choir -- the singing choir.
-----English Grammar and Composition
   分詞構文の特色は、「読者に判断を委ねるところにある」と前に述べたが、判断の材料はあくまでも前後関係、即ち分詞句と主文とのつながりから生まれるもので、それ以外の要素が入りこむ余地はないといえよう。(1)(2)文とも「singingは"歌う"という動作を表すとともにthe choirを修飾する形容詞の働きをしている」という上記の説明から、この二つの文の違いを読み取ることができるであろうか
   両者の違いを知るためには、(1)のThe singing choirがjunctionの関係にあり、(2)の文の方は(The choir) singing, the choir marched …….と考える――つまりnexusの関係を認める――ということが前提となるのではないか。junctionは「恰も1幅の完成した絵のようであり」、nexusは「恰も展開していく劇の趣がある」(『英語学辞典』(研究社))と表現した人がいるが、前記教科書の説明からは、(1)と(2)の間に「静」と「動」の違いを感じ取ることは不可能であると言わざるを得ない。CurmeのいうPredicate appositiveの働きのうち、「形容詞」の要素を重要視した当然の結果といえようか。
(田村泰『しなやかな英文法』、pp.135--136))(下線は引用者)[7−8]
   なるほど「前記教科書の説明からは、(1)と(2)の間に「静」と「動」の違いを感じ取ることは不可能である」し、「この二つの文の違いを読み取る」こともできない。その点はこの筆者の指摘する通りである。そして「前記教科書の説明から」「この二つの文の違いを読み取る」ことができない理由は単純である。カンマを伴う分詞句については英米の専門家の理解もまた不十分であるが故に、彼らにも十分な説明は出来ないということであり、それゆえ「前記教科書の説明」も不十分だということである。(1)と(2)の違いを感じ取るには「両者の違いを知る」(あるいは「読み取る」)ことが必要なのではない。頭を捻るのではなく感じるのである。(2)に焦点が二つあることを感じるには英語を母語としている必要はない。二つの発話に出現する二通りの分詞句になぜ一通りの説明(「singingは"歌う"という動作を表すとともにthe choirを修飾する形容詞の働きをしている」)しか与えられていないのかに思いをはせることはむしろ感じることの妨げになる。

   (1)と(2)が映画やテレビドラマ用脚本のト書きであった場合、監督や撮影技師の言語感覚がよほど鈍いものでない限り、出来上がる映像は(1)と(2)では全く異なるはずである。(1)を普通に映像化すれば、歌いながら行進する合唱隊を全体として捉えたものになろうし、(2)の映像は、まず合唱隊が歌っている(singingはthe choirを修飾する、とは、歌っているのは鳥でも蛙でもなく合唱隊であるということだ)様子をくっきり捉えた映像に加え、合唱隊が行進する様を捉えた映像という、少なくとも二つの角度と距離からの撮影になる複合的映像が出来上がるはずである(「非制限的関係詞節」の「相対的独立性」についての[1−52]参照)。

   (1)と(2)が「同一の文[the same sentence]の代替的表出[alternative renderings]」であるかどうかという点はともかく、「文例(2)では情報面で二つの焦点があるが、文例(1)では一つしかない」(cf. CGEL, 15.62)という相違は看過することのできない要素なのである。

  

(第七章 第1節 了)


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© Nojima Akira