ここには当館をご利用いただいている皆様への管理人からの月々の便りを載せています。モラリストとも言われた芹沢氏と対話するような気持ちで、その時々の思いを綴っています。感想など皆様のお便りをお寄せいただければ幸いです。

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管理人の創作

 

2000年1月1日 counter:3988

あけましておめでとうございます。青天のつづくこの頃、大晦日の昨日もいつもと変わらず洗濯物を干すお隣さんを横目に真っ白な太陽に挨拶をしました。これからネットワークが普及して、外に出なくても用が済む時代に入っていくでしょうが、こころのゆとりと感謝を忘れないために、一日に一回必ず天を見るように努めたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。今回はミレニアム記念で、芹沢氏に挑戦して一編の作品をお贈りします。

最近、よく寿司を食べます。近所のスーパーで売っているパックの寿司ですが、先日も朝から食べていて、ひとくち目に、いなりを豪快に食べました。その甘辛い味が口中に広がったとき、ふと想い出した風景があります。

その頃僕は高校を卒業したばかりで、大学が始まるまでの春休みの最中でした。友人の父親が経営する建築系の会社で測量のバイトがあり、僕はその友人と共に参加しました。早朝まだ寒い中を迎えに来た車に乗って、春の香りのする郊外へとバイパスを走り、まもなく現場の近くの町に着きましたが、作業は山の中なので、昼食を買っていくことにしました。寄ったのは寿司店で、何を買ったか、さすがにそこまでは憶えていません。それから作業場に入ったが、本当に山の中で、農家のおばちゃんからはっさくをもらったり、測量の合間にタケノコを採ったりと、遊びのような仕事でした。それだと言うのに、僕は文句の多い嫌なバイトだったのです。その文句が、僕と友人の他にバイトとして参加したもう一人の学生に起因しました。

彼は中学の同級生で、三年ぶりに再会したのですが、頭のいい子で、野生児の僕たちとは一線を画す存在だったので、なぜこんな肉体労働に参加したのか不思議でした。彼は見るからにひ弱で、社員の方も役に立ちそうもないと判断したのでしょう。川に落ちそうな藪をわたったり、丘に登ったり、サバイバルな仕事はほとんど僕の役割となりました。そうやって汗水垂らして働いて、山の中の道ばたで食事になりましたが、労働の後で、しかも草っぱらに囲まれたお日様の下での昼食は、安物の寿司をごちそうに変えてくれました。おそらくそのひとくち目がいなりだったのでしょう。それで、現在の僕とオーバーラップした記憶回路が、当時に直結したのではないでしょうか。これを書きながら想い出したが、僕は納豆巻きが好物でした。好物でしたというのは、病気で納豆を禁じられて以来、納豆から離れていたので、好物であったことを忘れていたからです。その時ももちろん納豆巻きを買っていて、そのうまかったこと! それにおかしかったのが、若い社員の食べ方でした。その人は寿司を食べるのに、前歯を使って食べるのです。先輩の社員がそれに気づいて、「君の食べ方はリスのようだ」と指摘したが、本当にその通りで、皆で大笑いしながら食べたものです。

その楽しい昼食で元気を得て、また午後の仕事にかかりましたが、相変わらず働くのは僕ばかりで、ひ弱な彼の出番と言えば、例えば畑に杭を打ち込む際に、木槌を振り上げる僕の補助として、打ち込まれる杭を支えるくらいのことでした。これで給料は同じというのだから、僕は段々文句が多くなって、社員を困らせたものです。その社員の二人ですが、やさしい素朴な性格の人たちで、僕の愚痴を怒りもせずに、うんうんと聞いてくれていました。仕事の最後には、乗ってきた会社のバンに、僕は記念にと言ってマジックで自分の名前をローマ字で書いたのですが、社員の人はローマ字が読めないと言って、読み方を訊きました。僕はローマ字が読めない大人がいることに驚いて、二人を笑ったが、社員は落書きを怒りもしませんでした。本当に気の良い人たちで、後になって社会に出て、当時を想い出したとき、バイトの身でありながら、なんと横柄な態度をとったことだろうと恥ずかしくて、その時の社員に合わせる顔もないと思いましたが、あの二人の素朴でやさしい笑顔が今も胸に残っています。

記憶というのは不思議なもので、一度その当時の記憶に直結すると、次から次に、憶えていても仕方のない細かなことが思い浮かんできます。若い方の社員は、ちょうど車を買おうとしていて、スカイラインのDOHCにしようか、ターボにしようかと悩んでいたこと、あの別の日、今度は町中での測量だったが、歌手のチャゲ&飛鳥の母校があって、その校庭の水道で水を飲んだことや、測量をした庭先に薪が積まれて、梅の木が赤い花をつけていたことや、昼食をとったファミリーレストランが雑炊フェアをやっていたこと、車を降りて歩いた舗道の側溝――

あれが18の春だから、もうおよそ18年前のことです。今では、申し訳なかったという恥ずかしさも薄れて、あの二人の社員への愛情だけが残っているのだから、時というのはありがたいものです。お二人はどうされているでしょう。幸せでありますように――

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2000年2月1日 counter:4220

先日スーパーでたらの芽の天ぷらが出ていて、思わず手に取りました。まだ春には遠いが、身のまわりに気の弾むNEWSがなくて、春を待つこころがさせたのでしょう。そう言えば裸の木々も近寄って見ると、冷たい風の中に精一杯芽を膨らませて、さあ来いと春を待っているようです。

世間では、環境問題の話題が多くNEWSに上っているようです。愛知万博は、万博当局から「これでは自然と共生を謳っているのにほど遠い」と見直しを迫られ、吉野川河口堰は住民投票が過半数を突破し、市長が姿勢を反転させ反対の立場をとりました。僕の近所でも東京湾埋立問題は縮小見直しを余儀なくされ、その縮小案でさえ未だ認められません。開発一辺倒だった時代の流れが、自然との共生という大きな流れに変わってきたのでしょう。

最近、古本屋で立て続けに芹沢氏の本を発見して、楽しい毎日を送っていますが、その中にごく初期の短編集である『眠られぬ夜』があります。氏はこのあとがきで、「創作は行であり、祭壇に上るようなもの」と語られていますが、創作当初からのこの考えを天に帰するまで持ち続けたのでした。34歳という若さで、そんな考を持てたのには、大病という経験が大きな役割を果たしてないでしょうか。

僕は昨春の終わりに病に倒れた経験をどう生かせるか考えています。いまだ不自由な身体を抱えて、生きること、死ぬこと、を秤にかけて、空を仰ぎます――

我が家の横の寒椿 先頃書いた僕の拙い処女作を読んでくれた若い友が「生きることは愛することだったという件が胸に迫りました。私は愛よりも夢を追って一生、一条の光を見つけられないかもしれない」と言いました。彼女にとって生きるとは「生きた証をこの世に残したい。『汝草木と同じく朽ちんと欲するか』という句を詠んだ頼山陽のように」だと言います。

この正月、若い友の母が天に帰ったという通知を受け取りました。僕は元気なお母さんの姿が思い浮かんで、いまだに信じられないのですが、彼のお父さんは、初めて会った僕をもう一人の息子だと親しんでくれた温かい家族でした。お母さんの想い、お父さんの想いが、若い彼の想いと重なって複雑に僕のこころを揺らします。

生きるということ――――

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2000年3月1日 counter:4404

芹沢家の庭には、ある時期タンポポが豊富に咲いたようです。氏はそれで初めてタンポポが四季咲きだと知ったと随筆『こころの広場』に書いていますが、我が家のそばでも、真冬に花のない緑ばかりの道路沿いに黄色い一点を見つけると、何かホッとした気分を味わわせてくれます。

2/27の朝日新聞に、ある書家が文学からパソコンとワープロを排除すべきだと唱えている文学界の記事を論説していました。その書家によると、文学とは極限の状態で生まれるが、ワープロだと変換、選択という余分な操作が入って、純粋に集中できないというのです。なるほど面白い説ですが、その方はあまりにも文学を自己に限定してしまってはいないでしょうか。

文学には、人間に個性があるように、作者の描き方にもそれぞれ個性があって、パソコンの操作を邪魔にしない書き方をする人もいるでしょう。或いは、パソコンの方が優れた文章を書けるという方もあるかもしれません。特に、これからのパソコンが日常のツールとして身に付いている世代には、よりそういった人たちが多くなるのではないでしょうか。

僕はそれよりも、その書家が言っている他の一文に目が留まりました。「メールは言葉の垂れ流しでしかない。手紙にはやっとの思いで封筒に入れ、ポストまで来て出さないこともあるほどの重さがある」というものです。これは全くその通りです。メールは書いてしまえば、ボタンひとつで送信されてしまいます。この手軽さは、手紙とは全く異質のものです。親しい者とのメールの交換は、電話のように時間を気にしないで良い、手紙のように手間も日数もかからない、と良いことづくめですが、問題はそれほど親しくない人とのやりとりではないでしょうか。親しい人と同じようなメールを出して相手を困らせた、或いはもらって困ったという経験を多くの人が経験しているようです。

要は、使う人の常識がものを言うのですが、新しいツールの登場と共にその常識も新しくなるから、人間はそれに対応しなければなりません。新しいツールが登場するのは、文明が進歩する限り世の常です。それを使いこなす人間は、文明と同じように進化を求められているのかも知れません。最後に、使う使わないは個人の自由ですね。

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2000年4月1日 counter:4628

待望の春になりました。こんなにも春を待ったのは初めてのような気がします。野に出て明るい日差しのしたで、今日という一日を満喫しようと思います。夜にはもう死ぬのだと一日生涯として生きた芹沢氏のように。

この春に、うれしい知らせが二つ入りました。ひとつは、長らく大学院で将来を模索していた友に講師の口が来て、田舎に帰って新生活をはじめることです。もうひとつは、長く子供ができず、不妊治療を続けていた友に、待望の赤ちゃんができたのです。待望と言っても、欲しかったのは奥さんだけで、夫の方は天に任せるというか、授かりものだからと、なかなかできないことも気にしていなかったようですが。

その友によると、最近は晩婚化が進んで、高齢出産が増えたために早期流産が多いそうです。友も以前それを経験しています。その事による女性のショックはかなり大きいようで、あの雅子妃もそうですが、皇太子殿下が雅子妃をかばう発言をされていたように、友も奥さんをかばうようになって、最近では「やさしくなったね」と言われているようです。今回は随分慎重に振る舞って、奥さんは身体に負担になるような日は仕事を休んだり、周りへの報告も安定するまで控えていました。子供のために、生活自体を大幅に変えようという計画もあるようです。

こんな知らせは理屈抜きにうれしいものです。雅子妃のような苦しみを体験した多くの女性に明るい朗報のような気がして。

新しいいのち――生まれたときから、重荷を背負ういのち、幸福な家庭に生まれるいのち、といのちは運命を担って生まれてきます。少し気弱だがやさしい友の家に生まれる子は幸せではないでしょうか。来年には子育ての苦労を嬉しそうに話す友の顔が見れるでしょう。幸せに生きるんだよ。いつでも自分が幸せであることに気づくだけで、幸せに生きられるのだから。

芹沢氏の交友関係の一覧を作りました。未完ですが。

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2000年5月1日 counter:4898

白とピンクのツツジが絨毯のように道を埋めるのを見て、不自由な身体を持つ悲哀を忘れるほど、こころを天使の気が満たしました。そのツツジの横のいつもの定食屋に入ると、世界でいちばん美味いと思っている季節物の筍の土佐煮が出ていて、「ああ今年もこれを食べられた」と喜びました。幸福は些細なことの中にありますね。皆さんも晩年の芹沢氏に負けないくらいのこの世の幸せを享受してください。

先々月末から大きなNEWSが続いて、すこし世の中が騒がしかったようです。なかでも有珠山の噴火は大きな衝撃でした。その日はちょうど近所の桜が開花して、待ちわびた春の訪れを喜んでいたから、余計に驚いたのかも知れません。吹き上げる黒煙と岩石の雨は、見る者を圧倒する大自然の力です。犠牲者のないことが救いで、それも前回の噴火での体験が生かされたからと言うが、近隣住民の皆さんは避難生活や降灰の被害での心労が重なっていることでしょう。そちらの方面では、あの神戸の経験が生かされることを祈ります。そして精神面のみならず、こんな時にこそ身体のある者は身体を、金のある者は金を奉仕して、一日も早い復旧を目指すようにしたいものです。住民の皆さんに震災前以上の笑顔がもどるように。

僕は最近、芹沢文学愛好会に入り、会合には出席していない幽霊会員ではありますが、毎月送られてくる月報を楽しみにしています。そのなかに「窓辺」と題する芹沢文子さんの連載随筆(静岡新聞の切り抜き)があります。会員の皆様が文子先生と呼ぶ(僕にとっては母より年上の)女史をつかまえて「文子さん」は失礼だが、それには理由があります。

僕が芹沢作品と出会ったのは、氏が天に帰られるひと月前のことでした。当時は神シリーズを教えてくれた友と毎日のように「光治良さんが」「ジャックが」と興奮して話していたものです。あれから7年が経ち、芹沢作品と共に生きてきた自分にとって、芹沢氏は勿論先生ではありますが、それにも増して人生の友のような親しみを感じる存在です。ですから、この文学館を作った縁で芹沢文学愛好会に入会し、会員の皆様にとって「光治良さん」が芹沢先生であり、「文子さん」が文子先生であることを知っても、僕にとってお会いしたことのないお二人は作品のなかの登場人物であり、相変わらず良き先輩の「光治良さん」であり、「文子さん」であるわけです。若輩者の放言とお許しください。

その文子さんの短い随筆ほど、僕をたのしませてくれるものはありません。今までに知らなかった、人から見た光治良さんを知れるからです。また文子さんのなかに、光治良さんを感じるからです。先月号では「金江さん」のことが書かれていました。記憶力の良いお母様はきれい好きだったそうです――愛好会に興味がおありの方はこちらへ。

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2000年6月1日 counter:5260

九州では早くも真夏日を観測したりと暑い日が続いて、今年の夏は暑くなりそうですね。5月は風の強い日が多くて、荒川の流れも速く、雀など小さな鳥たちは、強風にあおられてなかなか飛ぶのも大変そうでした。

芹沢文学を読んでいるときに、登場人物のふとした言葉や動作にふれて、本を置くことがよくあります。それは大抵その行動なり言葉の裏にある心理に感心するからですが、そんなときは同時に自分の未熟さを思い知らされもします。そんな些細なことも出来ていない自分が哀れになるのです。そんなときは見るともなく天井を見上げながら、よしと思い、「ふーっ」と息を吐いて、また本を手に取り、読み始めるのです。そんな楽天的で前向きな性格だけは、自分でも認めるところですが。

春はひとの動きがある季節です。この文学館にもいつもよりリアクションが多くなりますが、作品の提供などのご協力をいただくほかに、芹沢文学の愛読者の方々の考えに触れる機会が増えることは、よろこびであり、また勉強になります。こんな未熟な自分の付き合ってくださる方々には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

芹沢文学を愛する方々は誰でも、やはり同じように他の方々の考えに触れてみたいと思われているのではないかと考えて、「こころの窓」という読者の皆様のページを設けました。「こころの窓」とは勿論、芹沢氏のあの随筆集からお借りした名前です。皆様のご意見、ご感想を一つひとつの窓として載せたいと思っています。

芹沢作品にまつわるご自分の体験談、感想文、芹沢文学との出会い、日常のなかでの芹沢文学の生かし方など、形にこだわらない自由な投稿をお待ちしています。文学には読んだ人の数だけ捉え方、生かし方があると思います。皆様の貴重な声をぜひお聞かせください。

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2000年6月1日 counter:5642

若いいのちたちに、梅雨の長い雨のようなNEWSが続いています。犯罪に走る少年、部屋に1年以上も引きこもる子どもたち、今の社会に何も希望がもてないと口を揃える若者。

今、子どもたちのネット閲覧が問題になっています。ネットはあらゆる情報が取り出せる情報の宝庫であると同時に、犯罪まがいのサイトへも自由に出入りできるからです。例えば、爆弾や毒薬の作り方といった情報が簡単に取り出せる。僕の周りでも、父である友人の無垢な中学生の娘が、チャットで見ず知らずの男に携帯の番号を教えたのを知って、血相を変えて事後策に奔走したという事件もありました。

最近、芹沢文学の愛読者とふれる機会が多くなって、芹沢文学とは人生の書であるが、それはあらゆる形で現代に根を下ろしているのだと思うようになりました。たとえ次の世代で、芹沢文学に触れる人が多くなくても、芹沢文学で育った人が先生であれば、教育というなかで、必ずその先生のなかに在る芹沢文学の栄養が、生徒という種に立派な花を咲かすだろうし、会社の上司であれば、部下に花を咲かせ、家庭の母であれば、子どもたちに立派な花を咲かせるでしょう。また、農夫であれば、それこそ芹沢文学の愛に育まれた美味しい実を各家庭に届けて喜ばれるでしょう。

親たちにお願いしたい。会話のない家庭にはしないでください。子どもたちがIT革命の進む混沌とした社会に負けないよう、しっかりと話をして育ててあげてください。

若い種たちに、贈りたい。生きていればいろいろなことがある。たのしいこと、さびしいこと、かなしいこと――だが、どんなことがあっても、諦めないで、それを笑い飛ばして、生き抜く強さを身につけてほしい。大自然の愛を信じて、陽気に、明るく生きていってください。あなたの仲間たちが、遠く笑顔であなたを見守っているから、そのことを忘れないで。そうだ、淋しいときは、自然の中に出てみるといい。昼には青い空が、白い雲が、太陽が、緑の木々が、鳥たちが勇気づけてくれるだろう。夜には紺色の闇のなかで輝く月が、灰色の雲が、そして風がやさしく語りかけてくれるだろう。

大丈夫だよ。安心して自分の道を進みなさい――と。

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2000年8月1日 counter:6002

2000年の月蝕 入道雲の夏が過ぎていきます。猛暑のなかの沖縄のサミットも終わりました。僕は本番よりも高校生のサミットの方が興味深く、面白かった気がします。人間の知恵では止められなかった今までの争いという現実の中で、それでも諦めずに平和を探求する若者達に希望と好感を持ちました。

束の間のサマーバケイション。2000年のサマーバケイション。
「合格することに答えがある」
「10年ぶりの友だちに会いました」
「僕は信じています」
「生徒たちはかわいいよ」
「祈りましょう」
 今年の夏もそれぞれのいろいろな想いが過ぎていきます。変わるもの、変わらないもの、届かない想い、伝わる想い、走り続けるもの、立ち止まるもの、生まれるもの、秘めた愛、焦慮、涙、訪れる安らぎ。この街にまたひとつ刻んだ想い出のSCENE――

「思いやりは大切だよ」
「わかっていても許せないことがあります」
「ごめん。僕が言い過ぎた」
 君がどこかで頑張っているから、僕も頑張ろう。僕はもう何も欲しがらないけれど、いつか君と再会して、笑い合えるように、頑張ろう。

皆さん、暑いなか、お仕事ごくろうさまです。愛好会の皆様は鎌倉緑陰セミナーをたのしまれましたか? 鎌倉は落ち着いたすてきな町ですね。僕はもうすぐはじめての軽井沢を訪れる予定です。勿論、芹沢氏の山荘を訪ねるのがいちばんのたのしみです。写真館に載せる写真を久しぶりに更新して、皆様への残暑見舞いにできれば。今からもう心が躍っています。

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2000年9月1日 counter:6391

見晴らしの良い丘の上、風よけに植えた木々、それがいつしか大木に成長して、昼間でも電灯をつけなければならないほどの森となった――これがどこの場所のことであるか、氏の読者ならおわかりのことと思います。1932年、『ブルジョア』の賞金で買った中軽井沢の芹沢氏の山荘。今から68年前のことです。

その山荘をはじめて訪ねました。山荘はすぐにわかりました。窓には戦時中に白ペンキで書かれた「芹沢」の文字。まさか、こんな森の中とは――見晴らしが良い丘どころか、木々に囲まれて空も見えない森の中でした。周りには沢山の山荘。氏の作品に出てくるイメージとは随分違います。

誰もいなければ、こっそり庭を見せていただいて、戦前仕事のない地元民に運んでもらったという庭石に腰を下ろして、木々と語らい、氏を偲んだでしょう。だが、庭には車が停まり、ガラス窓の向こうには人影が。それではと、庭の写真だけでも撮らせていただこうと、思い切ってベルを押しました。僕よりすこし年上のご婦人が出てこられて、そうお願いすると、書斎を見学なさいませんかとやさしくおっしゃっていただきました。当然断るべきですが、わが口は「お願いします」と答えていました。先生の書斎が見れる――その誘惑には勝てません。ダメですね。

約束もなく、お休みのところにおじゃまするのは大変恥ずかしいことですが、山荘を見せていただいたからには、このHPを見てくださる方の代表として見せていただいたのだと考えて、報告するべきでしょう。以下はご婦人(孫だとおっしゃったから、おそらく氏の次女朝子さんの次女裕子さんではなかったでしょうか?)からお聞きした話です。

山荘には、玄関を上がってすぐの庭に面した部屋に、あの寝椅子が置いてあり、その部屋と続きになった畳の間で、氏は床を取られていたそうです。畳の間の奥の部屋が書斎で、氏の執筆机がありました。その後方には親族の方への手紙などが収められたガラスケースが展示してあり、氏やバルザックの作品集が並ぶ小さな書棚もありました。僕は氏から野沢孝氏(朝子さんのご主人)への手紙を感慨深く拝見した後、寝室だったという畳の間で、テーブルの上に用意していただいたアルバムを拝見しました。氏の写真が古くは戦前のものから天に帰られる数日前のものまで収めてある貴重なアルバムでした。その部屋から見た庭の木々――

とにかく早くお暇しなければと、10分ほどで山荘を出ましたが、その10分間が残した胸の余韻は、森の中を歩きながらもなかなか消えませんでした。図々しいことをしてしまったと反省しながら喫茶店でお茶を飲んだ後、山荘からすぐの高原教会に寄ってみました。歴史を感じさせる古い教会はSTAFF ONLYで入れませんでしたが、隣の真新しい結婚式場が開放されて、中に入ると誰もいない三角屋根の会堂内で女性がハープを演奏していました。一番後ろの席で、正面のガラスの向こうに映る真っ直ぐに伸びた木々に目をやりながら、その音色に耳をかたむけていると、胸に鳩ならぬ温かいものが降りてきて、それがまるで芹沢氏が、汚れた僕のこころを洗い清めてくれているように感じて、涙がこぼれそうになりました。

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2000年10月1日 counter:6800

厳しい残暑が続いた東京も、黄色く染まりはじめた木々とともに、穏やかな秋を迎えました。今日も秋の高い空が夕焼けに染まり、その赤い雲のすき間から、鋭利な三日月が顔を覗かせています。

オゾンホールが過去最大の大きさになりました。南極の2倍もあるそうです。オゾンが減れば、紫外線を遮るものが無くなり、生態系への影響は計りしれません。夏は真っ黒になってという僕たちの子ども時代の常識も夢となり、海水浴という言葉さえ消える日があるかもしれません。アイドリングを禁止する動きが増すなか、東京の杉並区が面白い条例を検討しています。

「レジ袋税」の導入です。

スーパーが配るレジの袋に1袋5円の課税をかけ、配布数を減らして、住民に買い物袋持参の意識を定着してもらおうという試みです。これは、お客が欲しがるからという悪循環を絶つ実にすばらしい提案ではないですか。ぜひ実現し、成功して、それに習う自治体が続々と出てほしいものです。今、私たちは、本気で考えるべきときに来ているのですから。

有珠山につづいて、三原山の噴火に伴う全島避難、名古屋の水害、自然の猛威には人間は為す術がありません。せめて自分たちの手で、その猛威を引き寄せるような愚かな真似は、無くさなければと思いませんか。子ども達にこのすばらしい星を残すために。小さなことでいい、自分にできることをやっていきたいと思います。

最後になりましたが、散歩に良い季節になりました。僕は特にこの季節の夕刻が好きです。夕焼けと、いろんな種類の虫の音が秋の豊かさを感じさせてくれます。

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2000年11月1日 counter:7317

愛好会の皆様は「我入道の集い」いかがだったでしょうか。会長の鈴木様をはじめ、このページでお世話になっている皆様に、はじめてお会いできるチャンスだと思って、今回は出席したかったのですが、体調がいまひとつで残念でした。またいつかチャンスがありますよね。

出席できなかったからというわけでもないのですが、今回は、その「我入道の集い」でテキストになった『遠い国の近い話』についてすこし。

この作品は昭和17年5月に少年誌に発行されています。編者は共に初期の日本ペンクラブを支えた藤村です。藤村はこの雑誌の一番最後に芹沢氏の作品を置いています。そして昭和17年と言えば、前年末に日本が真珠湾攻撃を仕掛け、太平洋戦争が勃発しています。芹沢氏はその直前から連載を始めた『巴里に死す』の執筆中でもあります。

これらの事実を並べたとき、この作品が次代を担う少年少女に向けた『巴里に死す』ではなかったかと思うのです。『巴里に死す』によって、出兵する兵士達に、生命を大事にしてくれという思いを投げかけたように、次代を担う少年少女達に、戦争の意味、生命の大切さをやさしい言葉で語りかける芹沢氏の愛情が胸を熱くします。

いま、世界に目を向けると、北朝鮮が雪解けの気配を見せている一方で、イスラエルとパレスチナは聖地エルサレムを巡って、はげしい争いをくり返しています。イスラエルの人よ、パレスチナの人よ、わたしたちは同じ地球人ではないか。僕はこの作品を読みながら、そう祈りを込めて、呼びかけ続けたい思いです。

幸せは自分のこころの中にある。空を見ても、大地を見ても、そこに素晴らしい造形がある。小さな事に幸せを見いだせる心を忘れたくはないと思います。

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