第六章 開かれた世界へ
第3節 ある教科書が自ら身を置いた窮境

    その容易でなさは、高校用教科書New Encounter English Tが挙げている文例を吟味することで体験できる。同教科書では、(1−1)(A big Martin Marina rescue plane, containing a crew of 13 men, quickly took off.)を「名詞を追加説明する現在分詞の用法」の例としていることは既に第二章第5節で記した。

   更に同教科書は-ed分詞句についても「名詞を追加説明する過去分詞の用法」の例を挙げている。以下二例がそうである

(6−11)
Some even think that the lost island of Atlantis, thought to be in this area, is exercising its strange powers on these missing planes and ships. (p.18)
〈消えたアトランティス島はこの区域にあると考えられ、これらの行方不明の航空機や船舶にその不思議な作用を及ぼしている,と考えている人さえいる。〉
(私訳。斜体・太字と下線は引用者)("thought"の暗黙の主辞は"the lost island of Atlantis")

(6−12)
Many ships and planes have mysteriously disappeared in this area, known as the Bermuda Triangle. (ibid)
〈数多くの船舶や航空機が、この区域(バミューダ三角地帯と通称されている)で不思議な消え方をしている。〉
(私訳。斜体・太字と下線は引用者)("known"の暗黙の主辞は"this area"。-ed分詞句"known as ……"「〜として知られている」はほぼ定型化した表現で、文中でも文末でもときおり見かけるものである。)

   特筆すべきは(6−12)の-ed分詞句である。日本の諸々の学習用文法書でも自余の教科書でも、故あって、徹底的に避けられ見捨てられているものであり( [5−1]参照)、同教科書だけが自覚的に取り上げている形態の-ed分詞句である(ただし、(6−12)は、同教科書本文をもとに、新たに意図的に組み立てられた発話である。[6−14])。これまで見てきたように、この形態の-ed分詞句を取り上げた瞬間、「分詞句の非制限的名詞修飾用法」が目の前に立ちふさがる(第四章第2節第四章第3節、及び[4−6], [5−1]参照)。目を閉じて同じ場所にいつまでも佇むか、後ずさりすることしかできなくなる。それ以前と変わることなく無邪気に分詞句の世界を跳びはねることが難しくなる[6−15]。分詞句の世界は卒然として様変わりする。この形態の-ed分詞句が日本の文法書で、故意か偶然か、避けられてきた所以である。

   同教科書は-ed分詞句と-ing分詞句が名詞句を非制限的に修飾する場合のその位置を二通り示している。主辞[=分詞の暗黙の主辞]の直後の位置(文例(1−1)及び(6−11)中の分詞句)と文末の位置(文例(6−12)中の分詞句)の二通りである。ところが、この二通りと見えるものは、本章第1節で見たように、一通りに集約可能である。いずれの場合も、分詞句の位置はその暗黙の主辞の直後なのである。

   英語教師たる私は老婆心を抱かざるを得ない。(6−11)中の分詞句について、生徒から「分詞構文ではないのか」という質問を受けた場合、この教科書を使用して教えていた教師はどう対応したのか。文例(1−1)と(6−11)に見られるような分詞句は、自余の教科書でも諸々の学習用文法書でも予備校でも、《分詞構文》(副詞要素)であるというのが公式見解なのである。名詞修飾要素(形容詞要素)である場合と《分詞構文》(副詞要素)である場合がある、とでも答えたのか。「どんな場合に名詞修飾要素であり、どんな場合に《分詞構文》(副詞要素)であるのか」と問われたらどう対応したのか。どちらかといえば名詞を修飾しているように感じられる[6−16]場合は名詞修飾要素で、どちらかといえば副詞的修飾であるように感じられる[6−16]場合は副詞要素、とでも応じたのか。「形容詞節(関係詞節)の場合にはカンマの有無で修飾の在り方に制限的と非制限的の区別をするが、分詞句の場合はどう考えるのか」とさらに尋ねられたらどのように応じたのか([2−2]参照)。関係詞節は関係詞節、分詞句は分詞句、東は東、西は西、そんな禅問答風の対応をしたのか。

   同教科書に見られる分詞句をめぐる判断の出自として考えられそうな記述と文例を、既に第二章第5節で挙げ、必要な記述も行った。そこでも見たように、出自らしき文法書に、非制限的名詞修飾要素として機能する分詞句を含む文例とそれに関連する幾分かの記述は見つかるが、《分詞構文》に関する明証的な記述は見出せなかったのである。同教科書はきわどい隘路に足を踏み入れてしまっている。現実に背を向けることなく勇を鼓して向き合う一方で、そうすれば露呈することが必然であるような現実の歪み――《分詞構文》という了解(第一章第2節及び[1−12]参照)――と相対峙することになってしまったのである。同教科書が自ら身を置いた窮境の内実を改めて吟味し、第二章第5節の記述を補っておく。

   同教科書には、故意か偶然か、《分詞構文》の条件を充たすような「文末に位置する-ed分詞句」を含む文例は挙げられていない。《分詞構文》の条件(第一章第2節及び[1−12]参照)を充たすような「文末に位置する-ing分詞句」を含む文例は掲載されている。

(6−13)
He tried to remember the telephone number, repeating it over and over again.(p.73)(斜体・太字と下線は引用者)
〈彼はその電話番号を記憶しようと、その番号を何度も口にした。〉(私訳)
(-ing分詞"repeating"の暗黙の主辞は一応この文の主辞"He"である。この-ing分詞句は《分詞構文》の条件を充たしている)

   同教科書は、何故に(6−13)中の分詞句を《分詞構文》と判断しているのか。この分詞句が母節([1−10]参照)を副詞的に修飾しているように、つまり、「その電話番号を何度も口にして彼はその番号を記憶しようとした」という風に感じ取れるからか。恐らくそうではあるまい。(1−1)(A big Martin Marina rescue plane, containing a crew of 13 men, quickly took off.)や(6−11)(Some even think that the lost island of Atlantis, thought to be in this area, is exercising its strange powers on these missing planes and ships.)中の分詞句も、そんな風に読み取れそうな気はする。

   あるいは、(6−13)中のing句は「by + -ing句」と解し得るという理由で、あるいは、「by + -ing句」の代わりに単なる-ing句を用いるという古い英語の語法の名残であるという理由で副詞要素であると結論づけるに至ったのか。そうでもあるまい。カンマを伴う-ing句の内、「by + -ing句」に置き換え得るように感じられるのはその一部でしかない。「in+ -ing句」や「after+ -ing句」にまで手を広げてみても同じことである[6−17]

   同教科書が、上記(1−1)、(6−11)、(6−12)中の分詞句と、(6−13)中の分詞句を、互いにその機能を異にする分詞句であると判断した根拠としては、私には一つしか考えつかない。同教科書が根拠としたのはおそらく、分詞と「その暗黙の主辞」の「隔たり」であろう。同教科書が身を寄せているらしい了解のもとでは、どうやら、暗黙の主辞の直後に位置する「カンマを伴う分詞句」は非制限的名詞修飾要素であり、暗黙の主辞の後に位置するが、その間に介在する語句によって暗黙の主辞から隔てられている「カンマを伴う分詞句」は《分詞構文》と判断されることになるのである[6−18]。関係詞節(形容詞節)の場合はもちろんこんな事態は生じない。先行詞と関係詞節の間にいくら余計な語句が介在していようと([1−20]参照)、(先行詞を把握しにくくなるではあろうが)関係詞節はあくまでも形容詞節である。

   同教科書によれば、暗黙の主辞と「カンマを伴う分詞句」の間に何らかの語句が介在する場合、そうした分詞句は、隔たった位置にある名詞句に関わる非制限的名詞修飾要素であるとは判断し難いのである。文頭の分詞句を、その直後に出現するその暗黙の主辞を非制限的に修飾する形容詞要素であるとは判断し難い([2−19][2−22]参照)のと同じように、である。 

   ところが、すでに(第五章第3節及び本章第1節)述べたように、暗黙の主辞と接しているか隔たっているかは、「カンマを伴う分詞句」の機能の差異を分節するに足るほどの示差的要素とはならない。むしろ、暗黙の主辞より後の位置にあるという共通点を、(1−1)、(6−11)、(6−12)中の分詞句と、(6−13)中の分詞句については指摘し得るのである。これらの分詞句はいずれも、暗黙の主辞の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがら(即ちその指示内容の属性)の一端が展開されている名詞修飾要素であると判断し得るのである。一方は名詞修飾要素であり、他方は《分詞構文》(副詞要素)であるという判断を許容するに足るほどの示差的要素はここには見出し得ない。個々の分詞句についてはそこに、あるいは「副詞的勾配」の方を感知しやすかったり、あるいは「形容詞的勾配」の方を感知しやすかったり、という事情を指摘し得るであろう[6−19]が。

   とまれ、暗黙の主辞と「カンマを伴う分詞句」の間に何らかの語句が介在する場合、そうした分詞句は《分詞構文》であると同教科書は判断する。

   では、暗黙の主辞の直後に位置する「カンマを伴う分詞句」だけを非制限的名詞修飾要素であると同教科書に判断させているのは何か。推測でしか語れそうもない。そこには確たる論拠を見出せそうもないということでもある。これは冷静に考えれば容易ならざる事態なのだが、この事態について言うべき言葉としては、本稿の冒頭の記述(第一章第1節)――「カンマを伴う分詞句の読解について言うと、日本の学校英語の世界は戦国乱世であるといっていい。教師一人一人が一国一城の主である」――に尽きる。「カンマを伴う分詞句」に関する統一見解とされる「《分詞構文》という了解」(第一章第2節参照)が不備であることはこれまで縷縷と述べてきた通りであり、その記述はまだ終わっていない。

   暗黙の主辞の直後に位置する「カンマを伴う分詞句」だけを非制限的名詞修飾要素であると同教科書に判断させるに至ったのは、一つにはおそらく、英文を日本語に置き換えようとする際に体験する「ある感じ」であろう。

   例えば、非制限的名詞修飾要素を含む文例(1−1)(A big Martin Marina rescue plane, containing a crew of 13 men, quickly took off.)や(6−11)(Some even think that the lost island of Atlantis, thought to be in this area, is exercising its strange powers on these missing planes and ships.)では、分詞句はそれぞれ「十三名の搭乗員を乗せたマーティン・マリーナ号という大型の救援機」とか、「この区域にあると考えられている消えたアトランティス島」というふうに、分詞句が暗黙の主辞を制限的に修飾しているかのような日本語への置き換えも可能であると感じられる([1−31]参照)。「感じられる」どころか、そのような置き換えも適切であると判断し得る(第五章第3節参照)。

   ところが、(6−13)(He tried to remember the telephone number, repeating it over and over again.)では、「その番号を何度も口にする彼は…。」という日本語への置き換えが十分適切なものであるとは感じにくいのである。同じことであるが、分詞句とその暗黙の主辞の「隔たり」は受け手に、当該分詞句に名詞修飾的機能を認めにくいと感じさせるのである。むしろ、この分詞句によって実現されている関係の内、対母節関係の方が優位であり、この関係の在り方を解読しこれを「付帯状況」と判断し、「彼はその電話番号を何度も口にして(しながら)その番号を記憶しようとした。」という日本語に置き換えるほうが適切であるように受け手には感じられるのである。分詞句によって実現されている関係は対「暗黙の主辞」関係というよりむしろ対「母節」関係であると感じられ、その関係の在り方は「付帯状況」という副詞的な修飾を実現しているように感じられるために、この分詞句は副詞的機能を発揮している、という「感じ」を受け手は与えられることになる。

   もう一点も推測でしかない。分詞句読解の鍵はその暗黙の主辞との関わりにこそ見出せる(第五章第1節末尾)という道を同教科書はひたすら辿り得なかったということかもしれない。具体的には、分詞句の暗黙の主辞の在り方の吟味(第五章第3節参照)に欠けるところがあったということになる。この欠如を糊塗してくれるのは、英文を日本語に置き換えようとする際に体験する「ある感じ」であろうし、辿るべき道を辿り続ける上で妨げとなったのもそのような「感じ」であろうと推測し得る。辿るべき道が「感じ」の靄の中で見失われた時、《分詞構文》という了解が導きの手を差し伸べることになったのである。

   前節末尾に次のようなことを述べておいた。

   -ed分詞句が名詞句を非制限的に修飾する場合を、文形式@(S[=暗黙の主辞] +,分詞句,+V+….)中の分詞句に確かに体験できるのであるが、このことから、「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」も同じように非制限的名詞修飾要素であることを記述するのは、実際にはさほど容易ではない

   更に本節の冒頭でこう述べた。「その容易でなさは、高校用教科書New Encounter English Tが挙げている文例を吟味することで体験できる。」

   以下のように体験できるのである。

   前節で『現代英語ハンドブック』から文例((1−2a)(Last month I read a novel and a biography. The novel, which especially appealed to me, was written by Hawthorne.)、(1−3a)(Last month I read several novels and a biography. The novel which especially appealed to me was written by Hawthorne. )及び(6−9)(While in Rome. I took photographs in the vicinity of St. Peter's. The square, designed by Michelangelo, is perfectly symmetrical.)、(6−10)(While in Rome, I took photographs of squares designed by Michelangelo, Bernini, and Borromini. The square designed by Michelangelo is perfectly symmetrical.))を挙げて、関係詞節と-ed分詞句のそれぞれについて、その修飾の在り方には「制限的」と「非制限的」の区別があることを体験した時には決定的な事実であるかに思われた「-ed分詞の非制限的名詞修飾用法」という範疇は、もう一つの恣意的了解の産物へと堕ちかねないのである。つまり、同教科書が身を寄せているらしい了解――暗黙の主辞の直後に位置する「カンマを伴う分詞句」は非制限的名詞修飾要素であり、暗黙の主辞の後に位置するが、間を何らかの語句によって隔てられている「カンマを伴う分詞句」は《分詞構文》である――に確たる論拠を見出すことはついにできなかったのである[6−20]

   そもそもの一つは歴史ある恣意性。関係詞節(形容詞節)についてはカンマの有無を契機としてその修飾の在り方に「制限的」と「非制限的」の区別が見出され、分詞句についてはカンマの有無を契機として形容詞要素と副詞要素の区別が見出される云々。さらに、非制限的関係詞節は、副詞節で書き換えられることがあるにもかかわらず形容詞節であり、「カンマを伴う分詞句」は副詞節で書き換えられることがあるが故に副詞的句である云々。

   もう一つの恣意性、本節で取り上げている教科書が自ら身を置いている窮境。暗黙の主辞の直後に位置する「カンマを伴う分詞句」は非制限的名詞修飾要素であり、暗黙の主辞の直後ではなく、隔たったところに位置する「カンマを伴う分詞句」は《分詞構文》(副詞要素)である云々。

   確かに見て取ったと思えた「分詞句の非制限的形容詞用法」は夢であったのかと見まがうばかりの覚束ない様を露呈する。主辞の直後の「カンマを伴う分詞句」が非制限的名詞修飾要素であるというのは確かなんだろうか。副詞要素として読めるではないか。文形式C(S+V … 名詞句[=暗黙の主辞]+,分詞句.)中の分詞句はなるほど副詞要素としては読めそうもないが、こんな文例が挙げられているのはこの教科書だけであり、しかも意図的に組み立てられた用例([6−14]]参照)がたった一例挙げられているに過ぎず、文法書、参考書を何十冊手にとり頁をめくってみても他にはどこにもこんな文例は載っていないし([5−1][5―1]参照)、文法項目として採り上げられてもおらず、ましてやこうした分詞に関する解説などいずこにも見出しようもない。だとすれば、文形式C(S+V … 名詞句[=暗黙の主辞]+,分詞句.)中の分詞句の場合に体験できる「分詞句の非制限的形容詞用法」は夢で見たことの記憶に過ぎないのではないか…。《分詞構文》こそが現実ではないのか…。

   かくして歴史ある《分詞構文》が生き残り、「-ed分詞の非制限的形容詞用法」という範疇は殆ど夢の中の思い出と化す。同教科書や『現代英語ハンドブック』、更にはCGELなどに見られる記述と文例に頼った場合、ある分詞句を非制限的名詞修飾要素であると判断し得ることの根拠は、英語で書かれたある文法書及びある高校用教科書中のわずかな文例と多少の記述のほかには見当たらないということになる。ある分詞句を非制限的名詞修飾要素であると判断し得るのはなぜかと問われても、ある本にそう書いてあったし、そう読める文例も載っていたから、とでも応ずるしか術はない。それなら《分詞構文》のほうが遥かに多量の記述と文例を見出せるではないか。

   「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」が非制限的名詞修飾要素であることを記述するのは、さほど容易ではなかったのである。

  

(第6章 第3節 了)


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© Nojima Akira