第六章 開かれた世界へ
第1節 異邦人の孤立

   これまで殆ど孤立無援の戦いをしてきたような気がする。その孤立の在り様を、どれくらい、どのように、そしてなぜ、孤立を感じるに至ったのかを、英語で書かれた書物の記述と文例を手掛かりに辿ってみたい。

   PEGの「誤った関係づけをされている分詞[Misrelated participle]」(「懸垂分詞」と称されることもある分詞)という一節の中に次の記述が見られる。

分詞はこれに先行する名詞/代名詞に帰属していると考えられる。(PEG, 280)
   PEGはこの記述に続けて、「分詞の暗黙の主辞」と分詞との位置関係を三通り示している。-ed分詞句を含む文例だけを示されている順に挙げてみる。この「順」は無意味ではない。初めの二例は既出である。
(3―4)
Tom, horrified at what he had done, could at first say nothing. (ibid)
〈トムは、自分がやってしまったことが恐ろしく、初めは何も言えなかった。〉
(斜体・太字と下線は引用者)
第三章第3節及び[2−16], [3−5]参照)
   この位置関係にある分詞句を含む文を、文形式@(S[=分詞の暗黙の主辞]+,分詞句+V….)と分類しておく。以下の文例についても文形式を示す。
(3−2)
Jones and Smith came in, followed by their wives. (ibid)
〈ジョーンズとスミスは中に入り、彼らの妻が続いた。〉
(斜体・太字と下線は引用者)
文形式A(S[=分詞の暗黙の主辞]+V…,+分詞句.)
   (3−2)には次のような注がついている。
分詞は主動詞[main verb]によってその名詞/代名詞から切り離される場合もあることに注意。(ibid)。
   以下に挙げる文例(6−1)に先立って、「こうした位置に名詞/代名詞がない場合、分詞は、その後に来る主動詞の主辞に帰属すると考えられる。」(ibid)という記述がある。「こうした位置」とは「分詞に先行する位置」(上記の文例(3―4)や(3−2)の場合)のことである。
(6−1)
Stunned by the blow, Peter fell heavily. (Peter had been stunned.) (ibid)
〈その一撃で意識を失ったピーターはゆっくりくずおれた。〉(ピーターは意識を失っていた。)
(斜体・太字と下線は引用者)
文形式B(分詞句,+S[=分詞の暗黙の主辞]+V….)
   文例の挙げられている「順」から何ごとかを汲み取れるとしたら、PEGの著者の判断によれば、(発話が実現される場合)分詞とその暗黙の主辞の関係づけはこの「順」で誤たれにくいということだろう。(6−1)(文形式B)の場合に最もその関係づけが誤たれやすい、と筆者は判断しているように見えるということでもある。従って、関係づけが誤たれている例として挙げられているのが、分詞句が文頭に位置する例であるのは成り行きとして頷ける。

   以下は関係づけの誤たれている例(-ing分詞句の例しか挙げられていない)である。

(6−2)
*Waiting for a bus a brick fell on my head. (ibid) [6−1]
《*バスを待っていた一つの煉瓦が私の頭上に落下した。》
(斜体・太字と下線は引用者。カンマがないのは原文通り。記号「*」については[1−24]参照)
   これでは「煉瓦がバスを待っていたように思われる」という記述に続き、「このように不適切な名詞/代名詞に結びつけられた分詞は『誤った関係づけがされている』と言われる。」(ibid)という指摘が行われる。書き改められるべきであるとして、次の文が示される。
(6−2a)
As I was waiting for a bus a brick fell on my head. (ibid)
〈私がバスを待っていると、煉瓦が一つ私の頭上に落下した。〉
(下線は引用者。カンマがないのは原文通り)
   PEGの著者は「分詞句」を「副詞節」に書き換えているように見えるが、書き換えの趣旨は多分そこにはない。"waiting for a bus"という分詞句の使用が適切であるためには、ここではまず"I was"を補うことで"waiting"とその暗黙の主辞との適切な関係づけを明示的に実現し、その結果「節」が実現されることを受けて、今度は二つの節を適切に関係づけるために更に"as"を書き加えるのが妥当である、という指摘が行われているように見える。誤った関係づけをされている分詞句を含む文に適切な関係づけを実現するには複数の選択肢がある。分詞句という形態にあくまでもこだわり、母節([1−9][1−10]参照)に修正を施して適切な関係づけを実現するという方法[6−2]だけではないのである。

   ここではPEGの著者には《分詞構文》について記述しているという意識は極めて希薄(たぶん、ゼロ)であるはずだ。まず意識されているのは分詞とその暗黙の主辞の関係、そしてその適切な関係づけである。"waiting for a bus"にまず"I was"を、その結果として求められることになる"as"を更に加えるのも一つの選択肢であるし、"Waiting for a bus"に続く母節を"I"で始めるのも一つの選択肢となる。PEGでは前者が選択された。分詞句はどのような読み方が可能か、ではなく、分詞句の適切な使用にはどのような条件が課されているか、これが記述の視点である。受け手の視点というより、話者の視点から記述がなされている[6−3]と言っても同じである。記述に際しての立ち位置は話者のものであり、発話を実現するに際しては、分詞とその暗黙の主辞の関係づけを誤つことがないよう注意を喚起しているに過ぎない。

   分詞とその暗黙の主辞の関係づけという視点から評価すれば、文形式@(Tom, horrified at what he had done, could at first say nothing.)と文形式A(Jones and Smith came in, followed by their wives.)にそれぞれ見られる分詞句は、PEGの著者にとっては異なると見なされるべき形態の分詞句とはならないだろう。更に言えば、既出(第五章第3節)の文例(5−3)(Mr Hull said BMW wanted to move quickly with a sale of Rover Cars, worried that the market would pull its share price down if delays were incurred.)に見られる分詞句とて同じことだ。暗黙の主辞に後続する分詞句の場合、暗黙の主辞の直後に位置しようと、暗黙の主辞から動詞辞などで切り離され、その結果どれくらい隔たった位置にあろうと、「既に発話されている暗黙の主辞」の後から分詞句を発話すればいいだけのことなのである。暗黙の主辞は既に発話されているがゆえに、暗黙の主辞と分詞の関係づけが誤たれる可能性は小さい[6−4]ことに変わりはない。

   ところが、文形式B(分詞句,+S[=分詞の暗黙の主辞]+V….)の場合、まず発話されるべきは(分詞句を導く)分詞、続いて分詞句全体、しかもこの分詞句全体は母節に先立って、つまり、分詞の暗黙の主辞に先立って発話されるのである。続いて発話されるべきは母節の主辞(としての機能を発揮する語句)であるが、この語句は「母節の主辞」であると共に大概は「分詞句を導く分詞を発話した段階で話者の脳裏にはあったはずだが、分詞句全体の発話が完了しても未だ発話されていなかったその分詞の暗黙の主辞」であるという条件をも充たす語句でなくてはならないのである。このとき、必要にして十分な条件を備えた語句の発話を実現するために意識が担うべき作業量と辿るべき過程は、文形式@や文形式Aの場合より確実に増大し複雑化している。話者の意識にかかる負荷が増すに伴い、そのいずこかで誤りが生じる可能性はそれだけ高まる[6−5]。「関係づけ」は時には、執拗に意識されることが必要なのである。

   このような分析を経て明らかになるのは、本稿が「カンマを伴う分詞句」を吟味する過程の一歩を踏み出すに当ってその起点とした形態の分詞句、即ち、文末に位置し、その直前の名詞句を非制限的に修飾する-ed分詞句(「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」)に関する記述や文例は、PEG中にも見られないということである(この形態の-ed分詞句を含む文を、文形式C(S+V…名詞句[=分詞の暗黙の主辞]+,分詞句.)とまとめておく)。PEGに文形式Cの文例が示されることがないというのは、恐らく、"Waiting for a bus a brick fell on my head."に見られるような「関係づけの誤り」が発生するという現実、即ち、"Waiting for a bus"という分詞句に副詞的勾配[6−6]を感知することが、PEGの著者たちを含め、英語を母語とする話者(そして受け手)にとって十分あり得る受感の在り方であるらしいという現実と相関的な事態である。文形式C中の分詞句は、そこに副詞的勾配を感知することがまずもってできないような分詞句、名詞修飾的な機能を発揮していることを感知せざるを得ない分詞句であり、このことは、そこでは分詞句と暗黙の主辞との関係づけを誤つという事態が極めて起こりにくいという現実と直結しているのである。PEGが文形式C中の分詞句をどう評価するかは、記述が欠けているため窺い知ることはできないが、次のように推測することは可能である。分詞とその暗黙の主辞の関係づけに焦点を絞れば、PEGにおいては、文形式C(S+V…名詞句[=分詞の暗黙の主辞]+,分詞句.)中の分詞句は、文形式@(S[=分詞の暗黙の主辞] +,分詞句,+V….)中の分詞句と等価であると見なされることになるであろう、と。暗黙の主辞の直後に位置する分詞句の場合、「既に発話されている暗黙の主辞」の後から分詞句を発話すればいいという点で、文形式C及び文形式@のいずれの場合も分詞とその暗黙の主辞の関係づけは最も誤たれにくいと言えるのである。

   文形式Cの文例が示されることがないのはPEGの場合だけではない。浩瀚な文法書CGELにおいてさえ、私に見出せた限りでは、文形式Cの文例は以下の二例だけである(これらの文例は「7.27補足的形容詞節」中のものである。「補足的形容詞節」には日本の学校英文法の《「(being+)形容詞」に導かれた分詞構文》が含まれる)([5−12]参照)。(以下はすでに[2−10]でも挙げた文例。(6−3)については[4−3]を、(6−4)については[5−8]参照。)

(6−3)
She glanced with disgust at the cat, stretched out on the rug.
〈彼女は胸糞悪そうにその猫を見やったが、猫は敷物の上に長々と寝そべっていた。〉
(6−4)
She glanced with disgust at the cat, mewing plaintively.
〈彼女は胸糞悪そうにその猫を見やったが、猫は悲しげに鳴いていた。〉(以上二例、CGEL, 7.27)(太字と下線は引用者)
   この文例に先立つ記述――「分詞節の場合、その暗黙の主辞はまた文の主辞以外のものである可能性もある[can]」(ibid)――は、斜に構えて読めば、次のようなことを示唆しているようにも読めないことはない(ただし、私の個人的経験は、CGELの述べるところとは異なり、"the implied subject is often other than the subject of the sentence"〈分詞節の場合、その暗黙の主辞は文の主辞以外のものであることがよくある〉というものである。(6−3)や(6−4)中の分詞句に類する分詞句が出現する例をしばしば目にしているのである)。つまり、文末に位置する「カンマを伴う分詞句」の暗黙の主辞がその直前に位置する名詞句であるという在り方は、文末に位置する「カンマを伴う分詞句」と「その暗黙の主辞」の位置関係の在り方としては一般的ではない、というようなことを。次のような事実は、CGELの記述から上記の如き示唆を汲み取ることが決して不適切な了解ではないことを示している。つまり、分詞句がその直前の名詞句を非制限的に修飾する場合について記述している箇所(17.34「非定動詞節による非制限的後置修飾」)に、文形式@(S[=分詞の暗黙の主辞]+,分詞句,+V….)の文例は挙げられていても、文形式C(S+V…名詞句[=分詞の暗黙の主辞] +,分詞句.)の文例は見当たらない、という事実である。CGELのこの一節(17.34)こそ、文形式Cの文例が挙げられていてしかるべき箇所であり、文例のみならず、関連する記述を残してほしかった箇所なのである。

   かくして、文形式Cに見られる分詞句は殆ど忘れ去られているかのような形態の分詞句である(実態に則して記述すれば、既に第四章第3節でも述べたように、二重に欠落した範疇、欠落しているという意識が欠落している範疇である、とするほうが正確であろう)([1−49][5−1]参照)。とまれ、この形態の分詞句を含め、分詞句とその暗黙の主辞の関係は、形態的には三通りに分類すれば足りることが分かる。分詞句の暗黙の主辞を基準にして、(1)暗黙の主辞の直前に位置する分詞句(文頭)(2)暗黙の主辞の直後に位置する分詞句(文中、もしくは文末)、そして(3)暗黙の主辞から隔たった位置にある分詞句(文末)、この三通りである。文形式@と文形式Cの中の分詞句はいずれもその暗黙の主辞の直後に位置するという点で区別されるべき分詞句とはならないであろう。文形式Cの場合には、文形式@の場合と同様、分詞句とその暗黙の主辞の関係づけは最も誤たれにくいであろう。

   分詞句はその暗黙の主辞との関係があまりに重要であるために、場合によっては次のような事態が生じる。『現代英語ハンドブック』の、カンマを論じた章の中に、長い修飾句[Long Modifying Phrases]を用いる場合のカンマの用法を述べている箇所がある。様々な句についてカンマの用法を述べた後、カンマが省かれる場合があるとして、次のような記述に続き、文例が二つ挙げられている。

(修飾)句が比較的短く、それによって修飾される節との関係が密である場合、カンマは省かれることが多い。(『現代英語ハンドブック』11.2)[6−7]
(6−5)
In this context [ ] the meaning is entirely different.
〈この文脈ではその意味は全く異なっている。〉
(6−6)
To evade the draft [ ] he moved to Costa Rica.
〈徴兵を逃れようと、彼はコスタリカに移った。〉(ibid)
(下線は引用者。[ ]はカンマが省かれていることを示すための表記)
   更に、以下のような注意書きに続いて-ed分詞句を含む文例を挙げてある。
しかし、(修飾)句が節とゆるく[loosely]結びついているに過ぎない場合、あるいは、(修飾)句が離れている語句[distant expression]を修飾する場合は、曖昧さを防ぐためにカンマが用いられるべきである。
(6−7)
Wilson nervously watched the man, alarmed by his silence. [The phrase modifies Wilson, not man.] (ibid)(下線は引用者)
〈ウイルソンは落ち着かない様子でその男を見つめたが、男の沈黙に不安を感じていた(のである)。[6−8]〉[この句は"man"ではなく"Wilson"を修飾する]
   "nervously"一語があるおかげで、文の読解に不可欠な分詞の暗黙の主辞の把握("Wilson"なのか、"the man"なのか)が容易になっているこの文例に先立つ記述を見る限りでは、-ed分詞句が主辞[Wilson]の直後に位置する場合、つまり、修飾語句と被修飾語句が離れておらず接している場合にはカンマが不要であるかのようにも思われる。つまり、(6−7a) * Wilson alarmed by his silence nervously watched the man.のように。けれども、(6−7a)を目にすればすぐ気づくように、この-ed分詞句を主辞("Wilson"という固有名詞)の直後に置く場合にはカンマはもちろん不可欠なのである((6−7b) Wilson, alarmed by his silence, nervously watched the man.)。ただし、(6−7)中の分詞句に「可動性[mobility](第二章第5節及び[2−19], [2−20]参照)」を許容し得るかどうかは別の問題である。

   『現代英語ハンドブック』の著者は、この-ed分詞句を主辞の直後に置く場合カンマは不要である、と示唆しているのではもちろんない。同書はカンマのために一章を割き、カンマの用法を比較的詳細に解説している。ただ、記述にこうした遺漏(英語を異言語とする私にはそう思える)が生じるのは、この部分の記述についていえば、著者によって重要であると意識されているのは、分詞句とその暗黙の主辞との関係、分詞句が修飾しているのは"Wilson"であるということだけであるからであろう([2−23]参照)。『現代英語ハンドブック』の著者には、この場合、わざわざ記述することが必要とは感じられないほど、カンマの必要性は自明であると感じられているようである。

   こうしてみると、なるほど、発話を実現するに際しての、分詞句とその暗黙の主辞の関係に対しては、確かにある程度の注意が払われている。しかしながら、この関係に向けられている注意の絶対量はPEG、PEU、さらには『現代英語ハンドブック』の著者の場合だけではなく、総体的に決して十分であるとは思えない。そのことは、次のような文例を目にするとき具体的に明らかになる。

(6−8)
It rained for two weeks on end, completely ruining our holiday. (= . . . so that it completely ruined our holiday.) (PEU, 455)
〈二週間雨が降り続き、おかげで私たちの休暇は台無しになった。〉(下線は引用者)
(堀口・吉田『英語表現文法』は「付帯状況」を表す分詞構文は「ある動作に付随して生じる事柄を表すこともある」(p.209)として「"It rained heavily for full two days, completely ruining our holiday. (=...two days so that it completely ruined our holiday)(まる2日雨が激しく降り、休日をまったくだいなしにしてしまった)」(ibid)(下線は引用者)を挙げている)
   PEUの著者はこの文例を、"Not knowing what to do, I telephoned the police. (= Because I didn't know what to do, . . . )" 〈どうしたらよいか分からなかった私は警察に電話した。〉(PEU, 455)などと同列の、何の変哲も無い「分詞節」の例として挙げている。少し読み進んだ先にある記述、「通常、分詞節[participle clause]の主辞は文の主節の主辞と同じである。」(PEU, 455)に示されている通り、(6−8)中の分詞句の暗黙の主辞は母節([1−10]参照)の主辞"It"であるから"so that it …"なのであり、ここには何の問題もない、とでも言っているかのように思えさえするほどだ。(6−8)中の-ing分詞句の暗黙の主辞の在り方は格別異数のものなどではない(正にその通りである[6−9])から、PEUの読者として想定されている、英語を外国語として学ぼうとする学習者でさえ、(6−8)について筆者が示している書き換えに格別の疑念を抱くはずはない、と信じられているかのようである。ところで、(6−8)の分詞句の暗黙の主辞は、当然のことながら、母節の主辞"It"ではなく、母節全体である([6−5]の文例I参照)。にもかかわらず、PEUの記述を見る限り、分詞句の暗黙の主辞のこのような在り方に読者たる英語学習者の注意を喚起するような解説は付されてはいない。

   記述のこうした在り様が明かしているのは、ただ一つのこと、分詞句とその暗黙の主辞の関係に向けられている注意の絶対量が十分ではないということである。あたかも、(6−8)中の-ing分詞句が適切な英語表現であることは、英語を異語とする学習者にとっても明瞭であるはずだし、そこに実現されている分詞句とその暗黙の主辞との関係(及びその在り方)は特段の細心さをもって対処することを求められるほど手強い事柄であるはずはない、と見なされているかのようである。

   分詞句とその暗黙の主辞との関係(及びその在り方)に対して恬淡なさまは、R.A.クロース、齊藤俊雄訳『クロース 現代英語文法』[6−10]の記述においても共有されている。その記述は以下に見るように、わずかな行数であり、その内容には特に見るべき点もない。

   [32] Lying in the sun like this, I feel perfectly at ease.
     (このように横になって日光浴をしていると、私は完全にくつろぎます)
この文では、I が lying の主語であると考えられる。つまり、'I am lying here, and I feel perfectly at ease.'である。次の文は、横になっているものが太陽ではないので、容認されないことに注意されたい。
   [33] * Lying here on the sand, the sun feels very warm.
しかし、次の文には何の異論もないであろう。
   [34] Running to the water, I feel the sand burning beneath my feet.
     (私は海のほうに走りながら、砂が足の下で焼けついているのを感じた)
この文では走っているのが「私」で、焼けついているのが「砂」であることは明瞭である。(295)
   有益な示唆を与えられることの多い同書「第3章 冠詞」などの記述に比べると、貧しさばかりが目に付く。同書が想定している読者層が「英語を外国語として学ぶ上級の学生とそれを教える教師」(同書「はしがき」)であることを考えると、文例の質(「‘-ed’節」の文例はなく、「‘-ing’節」の例は文頭に位置するものだけ)と量(九例のみ)、及びそれに関する記述内容の貧困は「無意味」であるような気はしない。

   私の探し求めるものは文法書の行間に(そして何よりも今ここにある数々の英文の中に)読み取るほかはなかったのかもしれない。英語を異言語とする私のような学習者の立場からすると、幾つかの文例と、その文例についての詳しい解説がどうしても必要であると痛感される形態の分詞句が一つ、呑気に等閑視されているとしか思えない(浩瀚なCGELに見られる記述でさえいかにも不十分であった[6−11])。あえて採り上げるまでもないほど、分詞句とその暗黙の主辞の関係づけは誤たれにくいと彼らには感じられているらしい分詞句、「文末に位置し、直前の名詞句を非制限的に修飾する-ed分詞句」は、彼らにはあたかも生まれた街の風景の一部、それどころか風景そのものであるのかもしれない。今更に対象化するほど物珍しいものでも、不可解なものでもなく、皮膚に馴染み目に親しく耳慣れた風情であるのかもしれない(実際、ありふれた形態の分詞句なのである。第五章第2節参照)。とはいえ、異国の風景の中に彷徨い込んだ私からすれば、時には風景の中のありとあらゆるものがその存在を自ら言い立ててこの身めがけて飛びかかって来るが故に、反って、確かにそこにあるはずにもかかわらず、風景に溶け込んでいるがために、時に、いずれにせよ私の知覚にはいっかな判然と受感されることがない、そんな対象であった。「文末に位置し、直前の名詞句を非制限的に修飾する-ed分詞句」を探し求めていた私の孤立は、文字通り異邦人の孤立であったかのようである。

  

(第6章 第1節 了)


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© Nojima Akira