『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)


第七章 開かれた世界から

第6節 何が曖昧なのか

その七 「相[aspect]」の曖昧さ

   PEGに次のような記述がある。

"Eating his dinner he rushed out of the house"は、彼は皿を手にしたまま家を出たという感じを与えることになろう。それゆえ、この場合は、"Having eaten his dinner..."と言う方が適切であろう。
(PEG, 276)("Eating his dinner"の直後にカンマが置かれていないのは原文通り。下線は引用者)
   こうした記述が生まれるのは、この"Eating his dinner"は「食べ終えた」と解釈されるべきなのか、それとも「食べているところである」と解釈されるべきなのか、必ずしも明白ではないと感じられているからである。つまり、この分詞句の表す活動の「相[aspect]」[7−74]は(そして付随的に時制は)曖昧であると感じられているのである。過去時制に置かれた発話に関する指摘――「現在という視点からは、我々は当然のことながら、過去の出来事を開始と終結のある完全な単一体[a complete unit]であると見なす」(CGEL, 4.15)――を念頭においた場合、"Eating his dinner"という活動は、現在という視点から見れば、過去に属するがゆえに既に完結しているはずの活動であるという判断が一方では成立することになろうが、発話の表す状況が過去に属するものである場合、現在という視点からいわば俯瞰的にそこに示されている活動や事態を検討してその相を判定するわけではなく、あたかも目の前に展開する出来事であるかのようにその詳細を検討して相を判定することになる。PEGの上記の記述には次のような判断を読み取れる。つまり、"Eating his dinner"という活動は発話に示されている時点における「彼」の「継続的活動」であるという解釈(「彼はまさに食べているところであった」という解釈)は、例えば"I have been cycling to work for the last two weeks." (CGEL, 4.40, Note[b])を「この二週間、職場を目指してずっと自転車で走っているが、未だに職場には着いていない」と読む解釈が現実的に判断して「不条理である[absurd]」(ibid)と感じられるのと比較すると、必ずしも馬鹿げているとは感じられないという判断である。そして、"Eating his dinner"に曖昧さが感じられ、その結果、「Having eaten his dinner...と言う方が適切であろう」と判断されることになるのは、"Eating his dinner"に継続的活動を読み取るという解釈が必ずしも馬鹿げているわけでも成立不可能なわけでもないと感じられるがゆえなのである。これが例えば、"Opening the drawer he took out a revolver."〈彼は引出しを開け、回転式拳銃を取り出した。〉(PEG, 276)の場合には、"Opening the drawer"を「引出しを開けつつあった/開けようとしていた」と解釈するのは馬鹿げていると感じられる(結果的に、その相に曖昧さは感じられない)がゆえに、「この場合、完了分詞を用いてHaving openedと言う方がより論理的であるように思われるであろうが、現在分詞の使用が曖昧さにつながる可能性がある場合以外は、そのようにする必要はない。」(PEG, 276)と判断されることになる。その一方、"I have been cycling to work for the last two weeks."の場合、"have been cycling"が表しているのは習慣的活動ではなく今まさに行われている活動であるとする解釈は現実的に判断して馬鹿げていると感じられるがゆえに、"have been cycling"の相に曖昧さは感じられないのである。一義的には-ing分詞句を適切に用いるための-ing分詞句の時制に関わる注意事項であるかに見える上記のごときPEGの記述は、-ing分詞句の表す活動の相を判定しようとする際、曖昧さが感じられることはあり得るということを示唆している。

   時制や法の判定と比べると相対的に困難であると感じられることがあり、判定するに際して曖昧さを体験することもあり、結果的に、解読の努力を最も求められることになりそうなのが-ing分詞句の表す動作活動、作用、あるいは事態の相である(-ed分詞句についてはこうした曖昧さを体験することはない)。こうした判断は基本的に、並置分詞句という了解に基いて「カンマを伴う-ing分詞句」の読解に当る際、相の判定に迷うことがあるという体験に導かれたものである(カンマを伴う分詞句の場合、解読の努力をもっとも求められる要素の一つが相である可能性を既に指摘しておいた。[1−14], [2−18]参照)。そして、こうした曖昧さの濫觴の一端はおそらく-ing分詞の特性である。

現在分詞中の動作活動[action]は完結的[complete]か未完結的[incomplete]かのいずれかであろう。 "I saw him changing the wheel."が意味するところは、私はその動作活動全体[the whole action]を見た、あるいは、その一部だけを目にした、のいずれかであろう。
(PEG, 273)[7−75]
   「私はその動作活動全体を見た」とは、「私」は「交換しているところを見たし、交換し終えるところまで見た」ということであろうし、「その一部だけを目にした」とは、「私」は「交換しているところを見たが、交換し終えるところまでは見なかった」ということであろう。いずれであるのかを判断するにはこの孤立した発話に関わる脈絡が必要であるが、この発話がこのように孤立したままであっても、この"changing the wheel"に継続的動作活動を読み取ることは可能である。本稿では、「カンマを伴う-ing分詞句」が表す動作活動、作用あるいは事態の相の判定については、母節に示されている出来事の傍らにあって、当該の-ing分詞句が表す動作活動は「継続的」(あるいは「未完結的」)であるのかどうか、あるいはその-ing分詞句が表す動作活動が完結して生じる事態は「継続的」であるのかどうか、という点に概ね限定する[7−76]

   時制や法と同様、相の判定に際してもある種の解読が介在する[7−77]のであり、カンマを伴う-ing分詞句には必ずしも継続的活動作用を見出せるわけのものではない。そうであればこそ、カンマを伴う-ing分詞句の表す活動作用の相は時には曖昧であるように感じられもするのであるが、並置分詞句という了解に基いた場合、曖昧であると感じられる事例の出現頻度は、実際には、決して高いものではない。まずPEGの記述と文例を参考にしてその点を確認し、加えて、母節と「カンマを伴う分詞句」とが表す二つの事態の間に、同時性を含む時系列を感じ取れるのか、それとも因果関係をあるいはその他の論理的関係を感じ取れるのかといった点は、カンマを伴う分詞句を論じるに当っては枝葉末節に属することを改めて確認する。

   第六章第5節で、PEGの276節 "A present participle phrase replacing a main clause"[主節の代わりをする現在分詞句]では、主辞を共有する二つの動詞(いずれも動態動詞。一つは母節の「動詞辞」、一つは「-ing分詞」)の表す動作活動の関係の在り方が三通りに分類されていることを述べた。即ち、次の三通りである。

   (1)二つの動詞の表す動作活動[action]が同時である場合
   (2)二つの動詞の表す動作活動に時系列を見て取れる場合(二つの動作活動に時間的前後関係を指摘できる場合)。
   (3)第二の動作活動が、第一の動作活動の一部を構成する、あるいは第一の動作活動の結果である場合

   静態動詞に導かれた-ing分詞句は277節 "A present participle phrase replacing a subordinate clause"[従位節の代わりをする現在分詞句]で取り上げられている。この点は後述する。

   (1)二つの動詞の表わす動作活動が同時である場合の例として次のような文例が挙げられている(挙げられているのは以下の二例のみ)。

(6―20)
He rode away. He whistled as he went.
= He rode away whistling. 〈彼は口笛を吹きながら馬で走り去った。〉
(6―21)
He holds the rope with one hand and stretches out the other to the boy in the water.
= Holding the rope with one hand, he stretches etc. 〈彼は片手で綱をつかみ、もう一方の手を水中の少年に差し伸べる。〉
(PEG, 276)(下線は引用者)
(荒木一雄・安井稔編『現代英文法辞典』participial construction[分詞構文]の項にも(6―21)の右辺と同一の文"Holding the rope with one hand, he stretches out the other to the boy in the water."が「同時発生」の文例として挙げられている。また、"Holding …."を"By holding …."に置き換えているCurmeの記述と文例については[6−17]参照)
   (6―20)の右辺"He rode away whistling."の場合、「馬で走り去った彼」は「馬上でずっと口笛を吹き続けていた」と感じられる[7−78]がゆえに「二つの動詞の表す動作活動が同時である」という判断も成立可能であろう。しかし、(6―21)の左辺(実況中継の一部あるいはト書きめいた発話)については、いずれも現在時制に置かれている「つかむ」そして「差し伸べる」という「二つの動作活動」[7−79]には同時性よりむしろ時系列を見て取るのが妥当であると思われる――これがト書きであれば、演じ手の振る舞いはまず綱をつかむことであろう――ことに加え、左辺の発話の代替表現として示されている右辺の発話の場合、「片手を水の中の少年に差し伸べる彼」は「片手で綱をつかみつつある/つかもうとしている」という解釈はどこか馬鹿げていると感じられるし、「片手で綱を握った状態にある」と解釈するにしても、これは活動というより「つかむ」という動作活動が完結して生じる継続的事態である。 更に、「二つの動詞の表す動作活動が同時である」なら二つの動作活動の順序を変えることも可能であるように思えるが、"He stretches out one hand to the boy in the water and holds the rope with the other. "という発話にはどこかちぐはぐさを(と同時に物理的危さも)感じる。要するに、(6―21)の「母節の動詞辞」と「-ing分詞句」の表す二つの動作活動が同時であるとは感じられないのである(ただし、母節の動詞辞の表す動作活動には-ing分詞句の表す事態が付随しているとは感じられる)。それゆえ、(6―21)は「二つの動詞の表す動作活動が同時である場合」よりむしろ「二つの動詞の表す動作活動に時系列を見て取れる場合」に分類されていいはずだと感じる(「同時」とは「ほぼ同時」を含むという弁論は余りにも姑息である。「ほぼ」はどの程度の時間差を示唆あるいは許容するのか、と応酬されることになろう)。「つかむと同時に差し伸べる」という解釈は成立不可能なものではないかもしれないが、一般的解釈を示そうとするのであれば、成立不可能であるわけではないような解釈を示して、これが解釈である、と言い立てるのは不適切である。ちなみに、以下の(7―34)は、二つの動詞が表す動作活動は同時であると感じられる例である。
(7―34)
The explosion wrecked a car and damaged several shops.
〈その爆発は車一台を粉砕し、数件の商店を損壊した。〉
(CGEL, 4.15)
   (7―34)は、「しかしながら、時には[sometimes]、連続する二つの動態動詞[dynamic verbs]は同時的解釈[simultaneous interpretation]を与えられることがある。 」(ibid) (下線は引用者)という記述の後に挙げられている文例である。

   (2)二つの動詞の表す動作活動に時系列を見て取れる場合の例として次のような文例が挙げられている(この場合「分詞は先頭に位置せねばならない。」(PEG, 276)とされる)。

He opened the drawer and took out a revolver =
Opening the drawer he took out a revolver.
〈彼は引出しを開け、回転式拳銃を取り出した。〉
(6―22)
She raised the trapdoor and pointed to a flight of steps.
= Raising the trapdoor she pointed to a flight of steps.〈彼女は上げ蓋を引き上げ、下へと続く階段を指差した。〉
We take off our shoes and creep cautiously along the passage =
Taking off our shoes we creep cautiously along the passage.
〈私たちは靴を脱ぎ、廊下を用心深くこっそり歩いてゆく。〉
(以上三例、PEG, 276)(下線と文例番号は引用者。分詞句の直後にカンマがないのは原文通り)
(荒木一雄・安井稔編『現代英文法辞典』participial construction[分詞構文]の項では(6―22)の右辺と同一の文が「継起」の文例として挙げられている)
   これらの-ing分詞句については、「(彼は)引出しを開けつつあった」という解釈、「(彼女は)上げ蓋を引き上げつつあった」という解釈、「(私たちは)靴を脱ぎつつある」という解釈、いずれもどこか馬鹿げているように感じられるため、相対的に-ing分詞句の表す動作活動の相の曖昧さは感じ取りにくいほど後方に退いている。先にあげた"Eating his dinner"の例とは異なり、これらの例では、-ing分詞句には継続的動作活動を感じ取りにくいために、結果的に、その分だけ二つの活動に時系列を見出し易くなっている。だからこそ次のように記述されることになる。
この場合、完了分詞を用いて Having opened, Having raised, Having taken off と言う方がより論理的であるように思われるであろうが、現在分詞の使用が曖昧さにつながる可能性がある場合以外は、そのようにする必要はない。(PEG, 276)[7−80]
   (3)第二の動作活動が、第一の動作活動の一部を構成する、あるいは第一の動作活動の結果である場合の例として次のような文例が挙げられている。
(6―24)She went out, slamming the door. 〈彼女は出てゆきドアをばたんと閉めた。〉
(6―25)He fired, wounding one of the bandits. 〈彼は発砲し、(その結果)強盗団の一人が負傷した。〉
(6―26)I fell, striking my head against the door and cutting it. 〈私は倒れ、ドアに頭をぶつけて切ってしまった。〉
(PEG, 276)(下線と文例番号は引用者)(荒木一雄・安井稔編『現代英文法辞典』participial construction[分詞構文]の項では(6―26)と同一の文が「継起」の文例として挙げられている)
   これらの-ing分詞句については、「ドアをバタンと閉じつつあった」という解釈、「〜を傷つけつつあった」という解釈、「頭を打ちつけつつあった」という解釈、いずれもどこか馬鹿げているように感じられる。このことはつまり、いずれの-ing分詞句にも継続的動作活動を感じ取りにくく、結果的に、これらの-ing分詞句の表す動作活動の相に曖昧さは感じられないということでもある。-ing分詞句に展開されているのはそれぞれ、「出て行った彼女」が行った動作活動(「彼女が出て行ったという出来事」に付随する事態)、「発砲した彼」が引き起こした事態(「彼が発砲したという出来事」に付随する事態)、「倒れた彼」が見舞われた事態(「彼が倒れたという出来事」に付随する事態)、いずれも母節に表されている出来事((6―24)〜(6―26)のような場合、例えば「倒れた彼」は「彼が倒れたという出来事」と等価であると感じられるのである。[6−32]]参照)に付随する動作活動なり事態であり、いずれも並置分詞句(ここでは-ing分詞句)の暗黙の主辞について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端である。これらの並置分詞句についてはこれ以上のことは枝葉末節であり、そして、枝葉末節に属することであるがゆえに、個々の受け手がその存念を如何様に開陳するのも、そこに重大な誤読が伴わない限り、自由勝手な領域でもある。

   「発砲した」と「倒れた」の方が「負傷させた」と「打ちつけた」より、厳密に判断すれば、時間軸上ではより以前の時に属することは明瞭なのであるから、(6―25)と(6―26)は「(2)二つの動詞の表す動作活動に時系列を見て取れる場合」に分類してもいいのではないかという見解を披瀝することも、包含関係の読み取りをおそらく求めている(6―24)の「出て行った」と「ドアをばたんと閉めた」はほぼ同時ではないのかという見解を披瀝することも自由勝手である。こうした見解に対して、(6―25)と(6―26)については時間的前後関係を指摘することは確かに可能ではあろうが、これらの場合には二つの動作活動(あるいは事態)の間に時系列を見ることより因果関係を見ることの方が適切であるし、「ドアをばたんと閉めた」は「彼女は出て行った」という事態に伴った動作活動であるから、同時性よりは包含関係を見出す方が適切であると応酬するのも自由勝手である。(6―24)〜(6―26)については第六章第5節で「これらの例は(1)二つの動詞の表す動作活動[action]が同時である場合にも(2)二つの動詞の表す動作活動に時系列を見て取れる場合にも含まれないとするPEGの判断の支えとなるような合理的根拠を見出すことは難しい。」と記したが、カンマを伴う分詞句と母節との間の時系列や論理的関係をめぐって受け手がてんでんに繰り出す所説は合理的根拠に基いている必要はないのである。「(2)二つの動詞の表す動作活動に時系列を見て取れる場合」と「(3)第二の動作活動が、第一の動作活動の一部を構成する、あるいは第一の動作活動の結果である場合」を「継起」に一括するという分類の仕方が主張されてもおかしくないし、PEGの上記三分類(1)〜(3)のすべてを「付帯状況」に一括するという分類の仕方が主張されても不思議ではない[7−81]

   分詞句の分類は個々の受け手の存念次第であるという事情は、静態動詞に導かれた-ing分詞句についても当てはまる。PEGの277節 "A present participle phrase replacing a subordinate clause"[従位節の代わりをする現在分詞句]で取り上げられている以下に見るような-ing分詞句(いずれも静態動詞に導かれている)の表す継続的事態は、母節に表されている出来事と同時である(あるいはそれに付随する)、という見解を披瀝するのもこれまでと同様自由勝手である。

(6―27)
Knowing that he wouldn't be able to buy food on his journey he took large supplies with him = As he knew etc.
〈旅の途中では食糧を購入できないことが分かっていた彼は、多量の食糧を携えて行った。〉
Fearing that the police would recognize him he never went out in daylight
= As he feared etc.
〈警察に見つかることを怖れていた彼は、昼間は決して外出しなかった。〉
Being a student he was naturally interested in museums
= Because/As he was a student etc.
〈学生であった彼は、当然のことながら博物館に関心があった。〉
Realizing that he hadn't enough money and not wanting to borrow from his father, he decided to pawn his watch.
〈十分な金がないことは分かっていたのだが、父に借りたくはなかった彼は、腕時計を質に入れることにした。〉
Not knowing the language and having no friends in the town, he found it hard to get work.
〈言葉が分からず町に友人もいなかった彼は、仕事を見つけるのが困難であった。〉
(以上五例、PEG、277)(下線と文例番号は引用者。初めの三例にカンマがないのは原文通り)

   あるいはまた、"Being poor, he could not afford to buy books."(大塚高信編『新英文法辞典』Participial construction(分詞構文)の項)中の-ing分詞句を「貧しかったので」と読み、「原因・理由を示すもの」(ibid)であると主張するか、それとも「貧しかった(彼は)」と読み、付帯状況であると主張するかは、これもまた個々の受け手の存念次第である。PEGから引用したいずれも文頭に位置する-ing分詞句を含む上記五文例は、「現在分詞[present participle]は as/since/because + subject + verb の代わりをすることがある。即ち、現在分詞はその後に続く動作活動を説明する働きをすることがある。」(PEG、277)(下線は引用者)という記述の後に挙げられているものだが、「その前に示されている動作活動や事態を説明する働きをする」ように感じられる-ing分詞句もある(第六章第5節参照)。

(7―35)
The terrorists are traitors to their own faith, trying in effect to hijack Islam itself.
〈テロリストは彼ら自身の信仰に背くものたちです。実際にはイスラムそれ自体を乗っ取ろうとしているのです。 〉
(President Bush's Address on Terrorism Before a Joint Meeting of Congress, The New York Times ON THE WEB, September 21, 2001) [7−82]

   継続的動作活動を表すこの-ing分詞句に「説明する働き」を読み取れば、「テロリストは、実際にはイスラムそれ自体を乗っ取ろうとしているのですから、彼ら自身の信仰に背くものたちです。」とでもなろう。

   -ing分詞句の分類を支える受感の在り方や程度は受け手ごとに様々である。二つの動作活動(あるいは事態)の間に同時性を含む時系列を感じ取るのか、それとも因果関係をあるいはその他の論理的関係を感じ取るのかは、時には受け手の《信》の在り方を映し出す鏡[7−83]となることがあるにしても、「カンマを伴う-ing分詞句」の読解にとっては枝葉末節に過ぎない。ただ、その受感が《分詞構文》という了解に支えられている場合、時には誤読につながるような感じ取り方も生じるというだけのことである。かくして、時系列や種々の論理的関係が読み解かれ、受け手の性向、恣意、世界認識の在り方を映し出すことになる「カンマを伴う-ing分詞句」の分類については、曖昧さが感じられることも異論を提議したくなることも少なくないはずである。しかし、並置分詞句という了解に基いた場合、その動作活動や事態の相について曖昧さが感じられるような「カンマを伴う-ing分詞句」の出現頻度は、実際には、決して高いものではない。

   並置分詞句という了解に基いた場合、以下の(7―36)中の-ing分詞句の表す動作活動の相についても、曖昧さは感じられない。

(7―36)
He put on a tie, explaining that it was a formal party.
= He put on a tie and, while he was doing so, he explained that it was a formal party.
(清水周裕『現代英文法』、p. 357)(下線は引用者)
   (7―36)は「彼はネクタイを着用した。(そしてネクタイを着用するにはそれなりの理由があった)パーティーは正式なものなのだと(ネクタイを着用する理由を)説明した。」と読める。過去のある時点における彼は黙ってネクタイを締めただけではなかったのであり、ネクタイを着用する理由を説明しもしたのである。彼はネクタイを選びながらその説明をしたのか(この場合、説明をしてからネクタイを着用したということになろう)、ネクタイを締めながら説明したのか、既にネクタイを着用した状態で説明したのか、などといった時系列に関わる事実関係は、この孤立した発話からは判断がつかないが、(これらの動作活動の時系列が重要な点であるとすれば)この発話に関わる脈絡が示されさえすれば自ずから判明するはずのことである。「カンマを伴う分詞句」にとって枝葉末節に属するこの種の時系列をこの孤立した発話から是が非でも読み取りたいというのであれば、重大な誤読が伴わない範囲で、受け手はその解読にある程度の裁量が認められていると述べておく他はない。ただ、(7―36)中の"explaining ......"には継続的動作活動(あるいは未完結的動作活動)も継続的事態も見出し得るような感じはしない(「〜説明しつつあった」、「〜説明しているところであった」、「〜説明し続けていた」、いずれの解釈もどこか馬鹿げているように感じられ、結果的に、その相に曖昧さは感じられない。上記("while he was doing so, he explained that it was a formal party.")の如き書き換えを示している受け手にもおそらく-ing分詞句の表す動作活動の相に曖昧さは感じられてはいない)。ちなみに、(7―36)に見る"S+V …., explaining ......"という表現形式は時折り目にするものであり、この-ing分詞句には同時性を見出せるわけでも時系列や結果を見出せるわけでもないことは、並置分詞句という了解に拠らずとも、類例によって体験できる。
(7―37)
My wife had a long talk with Sally, explaining why she didn't want the children to play together. ("My wife" is the subject of "explaining".〈My wifeはexplainingの主辞〉)
(PEU, 455)(下線と斜体は引用者)[7−84]
〈私の妻はサリーと長時間話し合い、(その話し合いの中で)その子供たちが一緒に遊ぶのをなぜ妻は望んでいないのかを説明した。〉
   《分詞構文》という了解を共有する受け手は、(7―36)を「彼は、そのパーティーは正式のパーティーなのだと説明しながらネクタイを締めた。」(清水周裕『現代英文法』、p. 357)(下線は引用者)と解読している。この受け手は、「分詞構文の表す意味」を「(1)時;(2)原因・理由;(3)条件;(4)譲歩;(5)付帯状況」(ibid, pp.355--357)に五分類し、「(5)付帯状況」を更に(a)「〜して…する[した]」と(b)「〜しながら」に二分類し、(a)を更に「(イ)同一の主語による第1の動作にすぐ第2の動作が続く場合は、第1の動作を現在分詞で表すことができる場合が多い。」(ここには「この場合は、分詞は文頭に置かなければならない」という注が付されている。PEG(276 B)に見られる記述"The participle must be placed first." である)と「(ロ)第2の動作が、@第1の動作の一部を成す場合、A第1の動作の結果・結末である場合は、第2の動作を現在分詞で表すことができる。」に二分類している。また、(b)「〜しながら」を「同一の主語による2つの動作が同時に起こる場合は、通例その一方を現在分詞で表すことができる。」と説明している。

   つまり、PEG(276節)の上記三分法を踏襲した上で、この三分類を「(5)付帯状況」に一括しているのである。「(5)付帯状況」の(a)「〜して…する[した]」の「(イ)同一の主語による第1の動作にすぐ第2の動作が続く場合は、第1の動作を現在分詞で表すことができる場合が多い。」はPEGの「(2)二つの動詞の表す動作活動に時系列を見て取れる場合」に対応し、「(ロ)第2の動作が,@第1の動作の一部を成す場合、A第1の動作の結果・結末である場合は、第2の動作を現在分詞で表すことができる。」はPEGの「(3)第二の動作活動が、第一の動作活動の一部を構成する、あるいは第一の動作活動の結果である場合」に対応し、(b)「〜しながら」はPEGの「(1)二つの動詞の表す動作活動が同時である場合」に対応する。(a)の(イ)の例として挙げられている"Opening the drawer, he took out a paper knife."(清水周裕『現代英文法』、p. 357)(下線は引用者)は、PEG(276 B)の"Opening the drawer he took out a revolver."(カンマがないのは原文通り)に対応する文例である。(a)の(ロ)の例として挙げられている"He went out, slamming the door. = He went out, and slammed the door as he did so."(ibid)(下線は引用者)は、PEG(276 C)の"She went out, slamming the door."に対応する文例である。(b)「〜しながら」の例として挙げられているのが、(7―36)(He put on a tie, explaining that it was a formal party.)(下線は引用者)である。

   この受け手はなぜ(7―36)に、時系列もしくは包含関係ないし因果関係を見出さず同時性を見出したのか。例えば、この受け手はなぜ(7―36)を「彼は、そのパーティーは正式なものなのだと説明してネクタイを締めた。」と読まなかったのか。もろもろの分詞句を上記のごとき分類へと導く了解を共有するこの受け手は、ことによれば、「〜説明して」という読解には時系列に関してどこか狂い(例えば、「説明した後でネクタイを締めた」といったような)が生じているように、つまりどこかしら馬鹿げた点があるように感じたのかもしれない。というのも、この受け手の了解に拠れば、そこに時系列を見出し得るためには一定の条件(「この場合、分詞は文頭に置かなければならない。」(清水周裕『現代英文法』、p. 357)が充たされることが必要なのである。あるいは、「〜説明して」という読解は包含関係を感知させる余地があるがゆえに不適切であると感じられたのかもしれない。しかしながら、この受け手はなぜ(7―36)に同時性を見出しはしても包含関係を見出すことはなかったのか。この受け手は別のところで、"He went out, slamming the door." (清水周裕『現代英文法』、p. 357)(下線は引用者)(「(ロ)第2の動作が、@第1の動作の一部を成す場合」に分類されている)を「彼はドアをばたんと閉めて出て行った。」(ibid)(下線は引用者)と読んでいる。ところで、「ドアをばたんと閉めた」は「彼は出て行った」という出来事に伴った動作活動であるから、同時性よりは包含関係を見出す方が適切であるという判断は、「そのパーティーは正式なものなのだと説明した」は「彼はネクタイを締めた」という出来事に伴った動作活動であるから、同時性よりは包含関係を見出す方が適切であるという判断と比べて、どの程度より適切あるいはより不適切であると判断し得るのか。あるいは、ひとたび包含関係を感じ取れると思い決めた上は、「〜ばたんと閉めながら」という読み方は同時性を感知させる余地があるがゆえにどこか馬鹿げている(即ち、不適切である)と感じられることになり、(7―36)には同時性を感じ取れると思い決めた上は、「〜説明して」という読み方は包含関係を感知させる余地があるがゆえにどこか馬鹿げている(即ち、不適切である)と感じられることになるのか。それにしても、包含関係と同時性の違いは何か。

   この受け手の了解によれば、文末に位置する「カンマを伴う分詞句」については時系列を読み取ることが許されていない。さりとて(その経緯はともかく)包含関係や因果関係を読み取れるような感じもしないとなれば(その上、時や原因といったその他の論理的関係も見出しにくいのである)、たとえ誤読となる可能性があるにせよ、可能な解釈として残されていたのは「同時性」だけだったのであり、「同時性」という解読結果は「〜説明して」よりむしろ「〜説明しながら」という日本語表現を用いる方がより適切に反映されるとこの受け手には感じられたのかもしれない[7−85]。結局のところ、この受け手は、孤立した発話(7―36)をもとにした解読によって、"explaining that it was a formal party"にどのような相を読み取っているのかは(そもそもこの受け手は相の判定を行っているのかどうかをも含めて)、受け手が示している日本語訳(「彼は、そのパーティーは正式のパーティーなのだと説明しながらネクタイを締めた。」)及び書き換え("while he was doing so, he explained that it was a formal party.")をもとにして判断する他はないように思われる([7−77]参照)。《分詞構文》という了解を共有する受け手の関心は時系列を初めとする諸々の論理的関係の解読に集まっている。そのような受け手が相に向けている関心の度合いは、結果的に、個々の受け手の存念に委ねられた解読の結果を多分に反映する日本語訳の中にかろうじて窺い取れるほどのものでしかないこともしばしばであり、受け手がたとえ相の判定に関わる解読を行っているのだとしても、そこにどのような相を見出しているのかは、大抵の場合、おそらく受け手には妥当であると感じられているはずの日本語訳の中に見え隠れするのを感知する他はないように思われる。更には、相の判定という課題はこうした受け手の視野の外にある可能性をも念頭におく必要があるかもしれない。

   《分詞構文》という了解を共有する別の受け手は、文末に位置するという点では変わるところのない以下の-ing分詞句を「〜して」と読むのも「〜しながら」と読むのもどこか馬鹿げているとおそらく感じている。

(7―38)
The train left Tokyo at seven, arriving at Nagoya at nine.
(列車は東京を7時に出て9時に名古屋に着いた)。
(荒木一雄・安井稔編『現代英文法辞典』(participial construction[分詞構文]の項)
   この受け手は"arriving ……"に「継起」を読み取っている([7−81]参照)。ところで、(7―36)中の"explaining……"を「〜説明しながら」と解読した受け手(更にはPEG)に拠れば、時系列を読み取るには一定の条件(「この場合は、分詞は文頭に置かなければならない」)が充たされる必要がある以上、(7―38)中の"arriving ……"に継起を読み取るにしても、それは単なる時系列ではなく結果であるといった分析が更に重ねられることになるのだろうか。「〜到着しながら」あるいは「〜到着して」という読み方は、おそらくどこか馬鹿げていると感じられるが故に訳文として採用されることがなかったのであろうが、ここには未完結的動作活動(「〜到着しつつあった/到着するところであった」)は見出し難いといった判断が下された結果として採用が見送られたのかどうかまでは見極め難い(相についても基本的には、受け手による注意深い解読が必要なほどの曖昧さは残されていないと考えていい。第七章第6節「その三」, 第七章第6節「その四」参照)。それにしても、包含関係と併せて継起に一括されることもある([7−81]参照)時系列と結果の違いは何か。

   これまで再三述べてきたように、並置分詞句に展開されるのは、その暗黙の主辞について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端である。文形式B(分詞句,+S[=分詞の暗黙の主辞]+V….)第六章第4節「その五」参照)や文形式@(S[=分詞の暗黙の主辞]+,分詞句,+V….)(第六章第4節「その三」参照)の場合、並置分詞句に展開されるのは基本的に、その暗黙の主辞についてまず語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端であり、その暗黙の主辞について更に語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が母節に展開される。また、文形式A(S[=分詞の暗黙の主辞]+V…,+分詞句.)第六章第4節「その四」参照)の場合、並置分詞句の暗黙の主辞でもある母節の主辞についてまず語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が母節に展開され、母節全体によって「特定」が実現されている暗黙の主辞第五章第3節及び第六章第4節「その四」参照)について更に語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が並置分詞句に展開される。

   (7―38)の場合、話者は「その列車」についてまず「7時に東京を出た」と語り得るのであり、「その列車(=7時に東京を出た列車)」について更に語り得ることがらの一端を、"arriving at Nagoya at nine"という並置分詞句の形で"The train left Tokyo at seven"という母節の傍らに置いた。「その列車(=7時に東京を出た列車)」について更に語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が母節に並置されているのである。文形式Aの場合に限らず、並置分詞句に展開されることがらと母節の表す事態との論理的関係は基本的には中立的なものであり、そこに時系列や種々の論理的関係が見出されるとすればそれは、重大な誤読を導かない限りという条件つきで時には放恣であることさえ許容される受感を媒介にした受け手の解読に導かれた臆見である[7−86]。並置分詞句という了解に基けば、(7―38)は「その列車は7時に東京を出た(そして列車は通常通りに運行した)、(つまり)9時には名古屋に着いた。」と読める。日本の社会に暮らす平均的市民は(7―38)に関わる非言語的脈絡を話者と共有しており、「新幹線に乗れば東京から名古屋までは二時間ほどである。その列車は新幹線であり、格別のことは起こらなかったから、到着までの所要時間はほぼ時刻表通りだった」といったこの発話に関わる背景を特に説明されるまでもなく察知し得るはずである。こうした事情は(7―38)を(7―38a)The train left Tokyo at seven in the morning, arriving at Nagoya at nine in the evening.〈その列車は朝の7時に東京を出た、(つまり)夜9時に名古屋に着いた。〉と対比することでより鮮明に浮かび上がる。(7―38a)の場合も"The train"は新幹線に該当するとすれば、到着が大幅に遅延するような何か特別な事情があったはずなのだが、その事情は受け手には明かされていない。(7―38a)ではいわば「到着が大幅に遅れたのにはちょっとわけがあってね。」と言われているに等しい。(7―38a)に関わる非言語的脈絡を話者と共有してはいない受け手は、到着が大幅に遅れることになった背景が改めて言葉を介して説明されない限り、これほどの遅延の理由について首を傾げる他はない。この発話に関わる言語的脈絡を示されない限り、話者が乗ったのは新幹線ではなく停車時間も長く乗り換えを繰り返す必要のあった各駅停車ではなかったのか、それほど到着が遅れたのは何か重大な事故があったせいかもしれない、いずれ特別な事情があったに相違ないと憶測をめぐらし得るのみである。

   (7―38)中の-ing分詞句の働きは、私の中では次のような発話中の-ing分詞句の役割に対応する(第六章第4節「その四」及び第六章第5節参照。第七章第6節「その四」中の類似文例(7―28)参照)。

(7―39)
I explained the whole document to him, going through it word for word with him.
(7―40)
They surrendered, throwing out their weapons and walking out with their hands above their heads.

   これは次のような発話を書き換えたものである。

(7―39a)
I explained the whole document to him, (that is) I went through it word for word with him.
(私はその書類全体を彼に説明してやった、つまり彼とともに一字一句読み通してやった)
(7―40a)
They surrendered, (that is) threw out their weapons and walked out with their hands above their heads.
(彼らは降参した、武器を捨てて手を挙げて出てきたのだ)
(以上二例、荒木一雄・安井稔編『現代英文法辞典』、Apposition(同格(関係)の項)より)(文例番号は引用者)[7−87]

   上記二文例は、「(4)名詞以外の同格。同格という関係は名詞(語句)対名詞(語句)に限られないことも多い。」(ibid)として挙げられている例である(本稿では"apposition"に「並置」という語を充てている[1−1]参照))。(7―40)の場合、《分詞構文》という了解に支えられた受感をもとにすれば、「継起」が見出されることになるのかもしれない。しかし、既述のように、並置分詞句に展開されることがらと母節の表す事態との論理的関係は基本的には中立的なものであり、そこには時系列や種々の論理的関係を(読み取れる感じがすることがあるにせよ)先験的に見出し得るわけではない([7−86]参照)。(7―40)を「彼らは降伏し、それから/その結果、武器を捨てて…」と読むのは誤読に近い。受感をもとにしてのあれこれの分類は、カンマを伴う分詞句にとっては枝葉末節に属することがらであり、受感に基いてそこに何を見出すかは、繰り返しになるが、重大な誤読が伴わない限りという条件つきで、個々の受け手の存念に委ねられているに過ぎない。

   ところで、カンマを伴う-ing分詞句が「〜しながら」という日本語に置き換えられる場合、そこには受け手のどのような了解が反映されているのか。(7―36)中の"explaining ......"が「〜説明しながら」と解読される場合、そこには継続的動作活動が見出されているわけではない。「〜説明しながら」という日本語訳に反映されているのは、(7―36)"He put on a tie, explaining that it was a formal party. = He put on a tie and, while he was doing so, he explained that it was a formal party."(清水周裕『現代英文法』、p. 357)(下線は引用者)の右辺に見られるように、"put on a tie"には瞬間的に完結する動作活動というよりむしろ一定時間継続する動作活動("was doing so")を見出すことによってそこに一定の幅のある「時間的枠組み[temporal frame]」[7−88]を設定した上で、その継続的動作活動と同時生起的であると判断されている"explaining ......"の表す完結的動作活動("explained ......")をその時間的枠組みに囲い込むという了解である。しかし、このような了解に基いた場合、(7―36)には同時性よりむしろ包含関係を見出す方が妥当であると感じられるし、「彼はネクタイを締めながら、そのパーティーは正式なものなのだと説明した。」という日本語訳を充てても不都合は感じられない。

   (7―36)に同時性を読み取っている受け手は、(7―36)で行ったような囲い込みが難しいと感じられる場合、包含関係を見出している。この受け手が包含関係を見出している(既に引用したことのある)以下の事例では次のような書き換えが示されていた。

(7―41)
He went out, slamming the door. = He went out, and slammed the door as he did so.
(清水周裕『現代英文法』、p. 357)(下線は引用者)(「第2の動作が第1の動作の一部を成す場合」の文例)
   この書き換えに窺い取れるのは、"went out"には継続的動作活動というよりむしろ瞬間的に完結する動作活動が見出されるがゆえに、そこには"slamming the door"を囲い込むための一定の幅のある時間的枠組みを設定することは難しいという判断である。-ing分詞句の表す動作活動は一定の幅のある時間的枠組みに囲い込まれるのではなく、瞬間という時間的枠組みの中に押し込まれ、このことが包含関係であると理解されている。-ing分詞句の表す活動は母節の動詞辞の表す瞬間的動作活動に包含されると理解されているのである。結果的に、-ing分詞句の表す動作活動の相については曖昧さが感じられてはいないことになるのかもしれない。しかしながら、(7―41)中の-ing分詞句の表す動作活動は"went out"の表す瞬間的動作活動と同時並行的であることを示唆するこうした了解に沿えば、包含関係よりむしろ同時性を見出す方が妥当であると感じられる。

   以下の(7―42)の場合、示されている日本語訳から判断する限り、-ing分詞句の表す動作活動にどのような相が感じ取られているのかは定かには窺い取れない。

(7―42)
He waited, remembering the first time he had counted the seven spots on a ladybird.
(彼は待った。自分がテントウムシの7つの点を初めて数えたときのことを思い出しながら
(荒木一雄編『新英文用例事典』p.245。「付帯状況を表す場合」の例として挙げられている)(下線は引用者)
   日本語の「〜しながら」は、それに後続する動作活動と同時並行的に生起する動作活動を表すものではあっても、後続する動作活動が構成する時間的枠組み全体を充たすような間断なしの継続的動作活動を必ずしも表すわけではない。また、( 日本語の)「〜しながら」の表す動作活動は、これに後続する動作活動が構成する時間的枠組みに囲い込まれることがあるにしても、その時間的枠組みの一部を充たすに過ぎない場合もあろうし、(瞬間的と継続的の違いはあれ)反復的と判断すべき場合もあろう。「テレビを見ながら夕食を食べた」という日本語の場合、食事中テレビから一瞬たりとも目を離さなかったということであるはずもない[7−89]。本稿では(7―42)を「彼は待った。テントウムシの背の七つの斑点を初めて数えたときのことを思い出していた。」と読み、-ing分詞句の表す動作活動は継続的であると一応判断するけれども、いかんせん、脈絡が不足していると言わざるを得ない。果たしてこの「彼」はどれくらい「待った」のか。

   -ing分詞句がやはり「〜しながら」という日本語に置き換えられている次の(7―43)の場合、-ing分詞句の表す動作活動にはどのような相が感じ取られているのだろうか。

(7―43)
A Michael was driving along the country road, singing and whistling.
(マイケルは歌を歌ったり口笛を吹きながら、田舎道をドライブしていた)
(堀口・吉田『英語表現文法』p.209)(下線は引用者)
   この文には次のような解説が付されている。
A(a) Michael was driving along the country road.
     (b) Michael was singing and whistling.
Aは(a)を主節として、その付帯状況として(b)を分詞構文化したものである。@と同様、2つの文の主語が同じだから主節の主語を示すだけでよい。(ibid)[7−90]
   (7―43)中の"singing and whistling"に反復的動作活動を読み取る代わりに、「(一瞬たりとも休むことなく)歌い続け、口笛を吹き続けていた」と読むのが馬鹿げているのは、"I have been cycling to work for the last two weeks." (CGEL, 4.40, Note[b])に習慣的動作活動を読み取る代わりに、「この二週間、職場を目指してずっと自転車で走っているが、未だに職場には着いていない」と読む解釈が現実的に判断して「不条理である[absurd]」(ibid)と感じられるのと同じである。"singing and whistling"という表現は、"singing"と"whistling"という二つの動作活動は間断なしの継続的動作活動であるわけではないことの証である(「歌う」と「口笛を吹く」を同時に行うのは超人的な離れ業である)。「歌を歌ったり口笛を吹きながら」と訳出されている"singing and whistling"は、母節内の"was driving"が構成する時間的枠組みに囲い込まれている反復的動作活動(「(時には)歌を歌い、(時には)口笛を吹いた」)であるとは感じられるが、この-ing分詞句には継続的動作活動を見出せるような感じはしない[7−91]。本稿では(7―43)を「マイケルは田舎道を車で走っていた。歌を歌っては口笛を吹いた。」と読む。この"Michael"について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が、"(Michael) was driving along the country road."であり"(Michael) sang and whistled."であると判断する。

   -ing分詞句の表す動作活動は継続的であるという判断には、(その囲い囲まれ方はどうあれ)囲い込みが伴うわけではない。

(7―44)
"It breaks my heart," she said, staring out the window.
〈「それには胸が傷みます。」と彼女は語った。窓の外を見つめていた。〉
(注) It : 彼女が売却した土地の樹木が伐採されること。
(When Development Outstrips Desire : Longtime Farmer Gives Way to Biotech Sector, With Regrets By Dana Hedgpeth, Washington Post Staff Writer, Washington Post.com, Monday, February 19, 2001; Page A01)

   母節に示されている出来事は、"staring out the window"が構成する時間的枠組みに囲い込まれているわけではない。話者は「彼女」について「…と語った」と語り得る(と判断している)のであり、更には「〜見つめていた」とも語り得る(と判断している)のである。ここでは-ing分詞句に継続的動作活動を見出せる。ただ、新聞・雑誌の報道記事や論説のなかでは、"sit/stand/spend ...... -ing"といった定型表現を除くと、文末に位置し、継続的動作活動を表す「カンマを伴う-ing分詞句」を目にする機会は稀であると言っていい[7−92]。例えば、以下の文例(7―45)中の-ing分詞句は継続的動作活動を表すのか否かを判定するには些少の慎重な吟味が求められる。

(7―45)
Dressed in stained sweaters and tattered parkas, the men began milling in the hangarlike building well before dawn, smoking and stamping their feet on the ground against the biting cold.
〈汚れたセーターとぼろぼろのパーカ姿の男たちが、夜明けのかなり前から格納庫風の建物の中にひしめき始めた。煙草を吸い、身を切るような寒さで床を踏み鳴らしていた。 〉
(注)大阪のホームレスに関する記事。
(Japan Struggles in Dealing With Its Homeless By HOWARD W. FRENCH, The New York Times ON THE WEB, February 2, 2001)

   "smoking and stamping ......"という表現をもたらしているのは正確な描写を目論む意識というよりむしろ常套的筆遣いである。「犯人は堂々とした態度で連行されていく」代わりに「ふてぶてしい態度で連行されていく」ように、「そのホームレスたちの中には煙草を吸っている人もいたし、……床を踏み鳴らしている人もいた」の代わりに「ホームレスたちは(皆)煙草を吸っていたし、……床を踏み鳴らしていた」のである。"smoking and stamping ......"が表しているのは「ホームレスたち」の現実の継続的動作活動というよりむしろ話者が彼らに感じ取った印象である。この取材が行われた日の大阪の早朝が果たして「身を切るような寒さ」であったのかどうか知りたいという気にならなくもない。    どのような場合に相の曖昧さが、あるいは相の見極めの難しさが体験されるのか。微妙な困難さが感じられるような例を挙げてみる。以下の文例は「同時生起の、後置される分詞構文と関係する重要なグループの例」(大江三郎『講座第五巻』、p.233)として挙げられている。

(7―46)
a. He brought my drink over to me, turning his head to speak to Taverner as he did so. -- Christie
(7―47)
b. She came close to me and laid her hand on my arm, looking up in my face. -- ibid.
(7―48)
c. With a quick motion, Mason moved around the table, interposing himself between Tragg and the telephone. -- Gardner
(7―49)
d. ' You're just wasting time,' Della pointed out, opening the car door, jumping out into the rain. -- ibid.
(7―50)
e. The old lady settled herself comfortably, removing her white cotton gloves and putting them up with her purse on the shelf in front of the back window. -- F. O'Connor
(大江三郎『講座第五巻』、p.233)(下線は引用者)[7−93]
   いずれについても日本語訳は示されていない。これらの文例を、脈絡の不足を承知の上、ここに与えられた条件のもとで、-ing分詞句の表す動作活動の相に関心を向けつつ、読んでみることにする。

   (7―46)中の"turning his head ......"には継続的動作活動というよりむしろ一時的動作活動が完結して生じる継続的事態を見出す[7−79]参照)。分詞句"turning his head ......"のもたらす事態は、"as he did so"の"did so"の表す動作――"did so"によって代替されている"brought my drink over to me"は一時的動作活動というよりむしろ一定の時間を要する動作活動である。本節の初めの部分でも引用し第六章第5節でも挙げた文例(6―20)参照――と同時並行的であると判断し得るがゆえに、この-ing分詞句には継続的事態を見出すのである(相を判定する上での手掛かりは様々な要素に求められる[7−94])。ただ、"turning ......"に継続的事態を見出すにしても、継続の程度については見極め難い。(7―45)を「彼は私のところまで飲み物を持ってきてくれた。そうしながらタバナーの方を向いて話しかけていた。」と読む。なお(7―45)については、「『彼』が『私』に飲み物をもってきたことと『彼』が振り向いて他の人に話しかけることとは同時的というよりは継時的であろうが…」[7−93]参照)、という解説が付されている。

   (7―47)中の"looking up ......"にも継続的動作活動というよりむしろ一時的動作活動が完結して生じる継続的事態を見出す。分詞句"looking up ......"は「見上げた」という一時的動作活動であるとともに、その後に「目をそらす」という動作活動が生じない限り、「見上げていた」という継続的事態をもたらしもする。(7―47)を「彼女は私に近づき、その手を私の腕に当てた。私の顔を見上げていた。」と読む。(7―47)については「最後を分詞句にすることにより、『彼女』の第二の行為と節三の行為とがほとんど同時といえるほど間髪を入れぬものであったこと、第三の行為の時、第二の行為はまだ継続しており、両者が重なっていることが暗示される。」[7−93]参照)という解説が付されている。

   (7―48)中の"interposing himself ......"には一時的動作活動を見出す。"With a quick motion"は"moved"が一時的動作活動であることを示唆しており、(7―48)では二つの一時的動作活動が並置されている。(7―48)を「素早い動きでメイスンはテーブルの反対側に移動した。トラッグと電話の間に割って入った。」と読む(第七章第6節「その四」中の文例(7―28)、本節中の(7―39)、(7―40)参照)。(7―48)については「最後の分詞句が表わす第二の行為は第一の節が表わす第一の行為の必然的結果で結びつきが緊密である。また最初の前置詞句with a quick motionによっても速やかな動き、位置変化が示唆される。」[7−93]参照) という解説が付されている。

   (7―49)中の"opening the car door, jumping out into the rain"には一時的動作活動を見出し、「『あなたたちは実際時間を無駄にしています』とデラは指摘した。車のドアを開け、雨中に跳びだした。」と読む。デラは時間を一刻も無駄にすることなく「車のドアを開け、雨中に跳びだした」のである。(7―49)に付されている解説は「Dellaの『指摘する』(発言)行為と二つの後続する分詞句が表わす行為とは継起的である。しかしほとんど同時的といえるほど相ついで生じている。」[7−93]参照) というものである。ところで、「継起的」と「ほとんど同時的」とはどう違うのか。「ほぼ」はどの程度の時間差を示唆するのか、という疑念を既に提起しておいた。

   (7―50)中の"removing ...... and putting ......"を"by removing ...... and putting ......"とでも考えれば[6−17]参照)、「後置された二つの分詞句――第一のできごとに継起するできごとを表わす――がandによって連結されており、それ自体の継起性がよく示される。」[7−93]参照) といった解説が付されることはなかったろう。本稿では、"removing ...... and putting ......"には一時的動作活動を見出し、(7―50)を「老婦人は居心地よく腰を落ち着けた。白い綿の手袋は脱いで、ハンドバッグとともに後部の窓の上の棚に置いた。」と読む。この老婦人は「腰を落ち着けた」後で手荷物を棚に上げたわけではなかろう(ただし、いかんせん、脈絡が不足している)。

   最後に、(7―51)中の-ing分詞句の表す動作活動の相を考えてみる。

(7―51)
"We have been the cowards, lobbing cruise missiles from 2,000 miles away."
〈「我々は臆病者だった。二千マイル離れたところから巡航ミサイルを発射していたんだ。」〉
(注) コメディアンBill Maherが彼の深夜番組で口にした発言として紹介されている。
(Patriotism Calls Out the Censor By RICHARD REEVES, The New York Times ON THE WEB, October 1, 2001)

   "lobbing cruise missiles ......"が一回限りの完結した動作活動なのか、反復的動作活動なのか、それとも、今も継続中の動作活動なのかを、つまりこの-ing分詞句の表す動作活動の相を判定するには、この発話に関わる言語的脈絡(即ち、この時評Patriotism Calls Out the Censor 全文)に依拠するだけではおそらく不十分であり、合衆国は過去、アフガニスタンやスーダン内の《標的》に向けて幾度も巡航ミサイルを射ち込んでいたという事情に通じていることが必要かもしれない[7−95]。"lobbing cruise missiles ......"は「二千マイル離れたところから数発の巡航ミサイルを一度射ち込んだことがあった」(過去における一回性の動作活動)ではなく、「……巡航ミサイルを今も射ち込み続けている」(継続的動作活動)でもなく、「……これまで幾度となく巡航ミサイルを射ち込んできた」(現在に至るまでの反復的動作活動)ということである。このような場合、相の判定は、脈絡(言語的及び非言語的脈絡)をもとに行うことになるのであり、母節内に明示されている時制標識"have been"を重要な手掛かりにするにせよ、この孤立した発話だけをもとに行うわけでも、更には、この孤立した発話に関わる言語的脈絡(この時評全文)だけをもとに行うわけでもない[7−94]参照)

  

(第七章 第6節 その七 了)

(『カンマを伴う分詞句について』 了)


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