第七章 開かれた世界から
第3節 文頭・文中に位置する「カンマを伴う形容詞句・名詞句」
《分詞構文》という了解に通底する何かを感じさせる記述をCGELに見出すことができる。
Ron Pall, a blatant liar, was expelled from the group. [4]
〈いけずうずうしい嘘つきのロン・ポールは、仲間から追放された。〉
Ron Pall, a blatant liar, used to be in my class at school. [4a]
〈いけずうずうしい嘘つきのロン・ポールは、学校で私と同じクラスだった。〉
A blatant liar, Ron Pall, used to be in my class at school. [4b]
〈いけずうずうしい嘘つきは(ロン・ポールのことだ)、学校で私と同じクラスだった。〉 (以上三例、CGEL, 17-84)(下線は引用者)
([4b]の「A blatant liar, Ron Pall(不定冠詞+並置要素)」という形については、CGEL, 17-77 Identification の頁に、"A company commander, (namely) Captain Madison, assembled his men and announced their mission."という文例が示されている)
この三種の発話については、受け手の視点から、それぞれ次のような解説が加えられている。
例えば[4]では、a blatant liarは原因を表わす(無動詞)副詞節[(verbless) adverbial causal clause]と解釈されよう。なぜなら追放の原因はポールがいけずうずうしい嘘つきであったことに求めるのが妥当だからである。 (ibid) (下線は引用者)
[4a]では, a blatant liarは並置[apposition]の事例と理解されるのが普通であろう。[4a]では、ポールが同じクラスにいたということは彼がいけずうずうしい嘘つきであったということと何らかの関係がある、と思わせるような要素は全くないのである。しかしながら、並置要素[appositives]の語順が[4b]のように逆になれば、人[one]は、そこにはそうした因果的ないし説明的意図があると見なすであろう。 (ibid) (下線は引用者)
(CGELは"Ron Pall, a blatant liar"に二つの並置要素[appositives]を見出している。本稿では"a blatant liar"は、"Ron Pall"に対する並置要素であり、"Ron Pall"を非制限的に修飾する名詞句である。なお「人[one]」とは発話[4b]の「受け手」のことであろうと推測する)
つまり、"a blatant liar"という「カンマを伴う名詞句」は、[4]では副詞要素、[4a]では並置要素であると解釈されているように見える。しかし、[4b]中の"a blatant liar"([4b]の主辞である)をCGELが如何様に判断しているのかはその記述からは伝わって来ない(「人[one]は、そこにはそうした因果的ないし説明的意図があると見なすであろう」という曖昧な記述は、「ポールが同じクラスにいたということと彼がいけずうずうしい嘘つきであったということには何らかの関係がある」と[4b]の話者は考えているから、話者は"a blatant liar"を主辞の位置に置いたのであろう、という受け手(ここではCGELの筆者)の判断が述べられた記述であるように読める。そして、私に伝わるのはそれだけである)。その上、解釈の結果得られた判断がそのまま文法として記述されているかに見える[7−24]。CGELが繰り広げている語り口は、「《分詞構文》という了解」が分詞句の「意味合い」を感じ取る際の語り口そのものである。以下の記述中の「分詞句」を「名詞句」に置き換えれば、《分詞構文》のように解釈し得る「名詞句」が出現する。
カンマを伴う分詞句が実現している諸関係の内、あらかじめ対母節関係(A)に排他的地位を与え、その関係(A)を、カンマを伴う分詞句と母節それぞれの意味内容の間に成立している関係(B)に還元した上でその関係(B)の在り方を解読し、その結果突き止められた関係(B)の在り方を再現し得るような日本語表現へと分詞句を置き換え(ようとす)る場合、そこに現れ(ようとす)る日本語表現が、ほぼ「分詞句に感じ取られた意味合い」ということになる。関係(B)の在り方をどのように解読するか、そこにどのような「意味合い」を感じ取れるかは、受け手の内部で成立済みの「世界認識」を媒介にして、受け手に備わる解読格子を通して行われる解読にかかっているため、「感じ取られた意味合い」は、第三者の目には時には「恣意的」であるように感じられることもあるかもしれない。([6−45]参照)(《分詞構文》という了解については、第一章第2節、及び[1−8], [1−14]参照)
私は、"Ron Pall, a blatant liar, was expelled from the group. [4] "という発話に、話者はロン・ポールをいけずうずうしい嘘つきと判断しているということを読み取り、更に、ロンがいけずうずうしい嘘つきであったことと彼が仲間から追放されたこととの間に何らかの関係があったかもしれないと想像するにせよ、想像の結果を記述することは保留したい。ロン・ポールが仲間から追放されたのは、CGELが解釈するように、ロンがいけずうずうしい嘘つきであったことが原因であったかもしれないにせよ、孤立した発話(本章第1節、及び[1−6]参照)を元に判断を急いでは話者から思いがけぬ非難を受けるやもしれぬから[7−25]。
しかしながら、CGELが「カンマを伴う分詞句」は副詞要素である可能性を示唆する箇所では、解読結果を旗印にして記述を展開するといった語り口に出会うことはなかった。以下は既に引用したことのある記述である。
非制限的後置修飾は非定動詞節[nonfinite clause]([2−17], [3−3], [6−29])を用いても実現可能である。例えば、
The substance, discovered almost by accident, has revolutionized medicine. (’which was discovered almost by accident …….’) [2]
〈その物質は殆んど偶然に発見され、医学の世界を革新した。〉
……
非制限的非定動詞節は意味[meaning]を変えずに文頭に移すことが可能である。例えば、
Discovered almost by accident, the substance has revolutionized medicine. [2a]
しかし、こうした可動性[mobility]は実は、非制限的非定動詞節が名詞修飾的[adnominal]働き[role]をするものなのか副詞的[adverbial]働きをするものなのか曖昧であるということを含意している。
(CGEL, 17.34)(下線は引用者。更に第二章第5節、[6−6]参照)
「カンマを伴う分詞句」が副詞要素である可能性を提示するに当って、CGELが拠りどころとしたのはまず第一にその「可動性」であった[7−26]。形容詞句の場合も同様である(「形容詞節は主辞と結びついているだけではなく、述辞とも結びついている」(CGEL, 7.27)という記述のように、解読を判断の拠りどころとしているように見えることもありはしたが、その場合でも「可動性」を引き合いに出すことを忘れてはいない([5−12]参照))。
主要語[head]が、等位的に連なる形容詞群によって非制限的に[nonrestrictively]修飾される場合、形容詞群を後置することが普通である。
A man, timid and hesitant, approached the official. [4]
〈一人の男がおどおどと躊躇いを露わに、その係員に近づいた。〉
しかしながら、等位的に連続する形容詞群の潜在的可動性[potential mobility]は、この形容詞群が全体として名詞句から引き離されることを許容し、さらに、この形容詞群が名詞句の一部というよりむしろ副詞的要素[adverbial]であることを示す。
Timid and hesitant, a man approached the official. [4a]
A man approached the official, timid and hesitant. [4b]
(CGEL, 17.58)(下線は引用者。[6−6]参照)
更に、解読結果を拠りどころに記述を展開しつつも、解読結果が全ての判断の拠りどころであるわけではないことを示す記述もある。。
The river lay in its crescent loop entirely without movement, an artifice of green-black liquescent marble.
〈その川は微動だにせず三日月の弧を描いており、溶解した暗緑色の大理石からなる造化であった。〉(ibid, 14.9)(下線は引用者)
この文例中の文末の「カンマを伴う名詞句」については、ただ次のように記述され、その記述の支えとなっているはずの判断の根拠は何も示されていない。従って推測せざるを得ないのだが、その判断の主たる拠りどころはおそらく解読を介して感知される「勾配」([6−6]参照)の在り様である(本章第2節冒頭部のCGEL(10.16 Subject complement and verbless clause [主辞補辞と無動詞節])からの引用参照)。
我々はこの名詞句を副詞要素として機能している無動詞節[verbless clause]と見なすことができよう[could]。(ibid)
解読結果をもとにすれば、その位置が移動しようとやはり副詞要素であると判断されていいような名詞句"an artifice of green-black liquescent marble" ([6−28]参照)についての次のような記述は、解読結果を拠りどころとしているようには見えない。
文末の名詞句が主辞に隣接して置かれていた[had been placed]とすれば、我々はそれを完全並置[full apposition]と見なしたことであろうに[would have regarded]。
(ibid) (「文末の名詞句」が主辞に隣接して置かれれば、"The river, an artifice of green-black liquescent marble, lay in its crescent loop entirely without movement."となる。)
(「完全並置」と「部分並置[partial apposition]」については[7−12]、もしくはCGEL17.66参照)
また、以下に引用する記述においても、解読結果は記述の支えとはなっていない。
文例[3]では条件(ii)が充たされていない。
Norman Jones, at one time a law student, wrote several best-sellers. [3]
〈ノーマン・ジョーンズは、以前は法律の研究者であったが、数冊のベストセラーを書いた。〉
Norman Jonesは文例[3a]において主辞である。しかし、At one time a law studentは文例[3b]において主辞ではありえない。
Norman Jones wrote several best-sellers. [3a]
〜*At one time a law student wrote several best-sellers. [3b]
しかしながら、この前置詞句[the prepositional phrase]は主辞に先立つ位置を占め、文例[3]と同じ意味[the same meaning]を維持しつつ、副詞的機能[adverbial function]を果たすことが可能である。
At one time a law student, Jones / he wrote ....... [3c]
(CGEL, 17.66)(「条件(ii)」とは「完全並置」の三条件の内の二番目である。[7−12]参照)(下線は引用者)
ここでCGELは「並置要素"at one time a law student"」は「前置詞句」であると判断した上で、その副詞的機能に言及している。
しかし、唐突に次のようにも語られる。記述の拠りどころとなるはずの、解読を介して感知される「勾配」への言及さえない。
実際、名詞句を伴う部分並置[partial apposition]の多くの例を、同様に[equally]、無動詞節[verbless clause]と見なすことが可能であろう。例えば、
Judge Clement Turpin, now a federal appeals court judge, is being considered for appointment to the US Supreme Court.
〈クレメント・ターピン判事は現在連邦控訴裁判所判事であるが、合衆国最高裁判所への登用が検討されている。〉
(CGEL, 14.9)(下線は引用者)
(「同様に」とは、「"The river lay in its crescent loop entirely without movement, an artifice of green-black liquescent marble."中の文末の名詞句(下線部)と同様に」、ということである([6−6], [6−28], [7−9])。「部分並置」ついては[7−12]参照)
こうした記述を「唐突」と評し得るのは、これが、「意味上の可能性の幅」([7−26]参照)や解読結果を遠まわしの拠りどころとすることさえなしに下されている判断、いわば宣告のように響くからだ。そしてこの判断は「カンマを伴う名詞句は、時には並置要素であり、時には無動詞節である」といった宣告に相当する。「述辞並置要素」は述辞を修飾するのであり副詞要素の「意味力を有する」([7−19]参照)と語りつづけるCurmeもまた、ある箇所で唐突な宣告を下していた。
一つの述辞[predication]は別の述辞[predication]を修飾することがある。 (CURME, Parts of Speech, 8) ([6−37]参照)
という宣告である。
類似の宣告は他の箇所でも行われていた。以下は、第二章第5節でも引用した記述である[7−27]。
先行詞の直後の位置は分析にとって最も多くの難題を突きつける。主辞のない補足節[subjectless supplementive clauses]がその位置に生じると、後置修飾分詞節[postmodifying participle clauses]との識別が、あるいは、((主辞のない補足節が)無動詞節[verbless clauses]の場合)並置関係にある名詞句との識別が不可能なこともある[may]。かくして、この二つの構造は、文例[1]中の分詞節が文例[1a]中の非制限的関係詞節と機能的に[functionally]等価であると見なされるべきかどうかを決することは不可能である(それに意味の上では[semantically]重要ではない)という点で、融合することもある[may]。
This substance, discovered almost by accident, has revolutionized medicine. [1]
This substance, which was discovered almost by accident, has revolutionized medicine. [1a]
〈この物質は殆んど偶然に発見され、医学の世界を革新した。〉
(CGEL, 15.61)(下線は引用者)(「この二つの構造」とは「主辞のない補足節と後置修飾分詞節」)
そして、「可動性」によって実現される文頭の位置については次のように述べられる。「主辞のない補足節」は副詞要素であるという語りから宣告の響きを消し去り、代わりに文法の彩りを与えてくれるのが「可動性」なのである。
無動詞節は前置されることもよくある。無動詞節[verbless clause]の副詞的身分[adverbial status]をなお一層示す事実である。
He drove the damaged car home completely undismayed.
〜 Completely undismayed, he drove the damaged car home.
〈彼は傷んだ車を運転して自宅に向かったが、全く意気消沈していなかった。〉
(CGEL, 10.16, Note[d])(下線は引用者)(本章第2節及び[2−20]参照)
CGELは、Kruisinga & Eradesが折に触れて繰り広げる「意味上の関係や論理的関係をもとにした語り」([1−8]参照)を様々な局面で慎重に避けようとしているように見える。そこに解読し得る意味上の関係や論理的関係をもとに文法を語り始めたら収拾がつかなくなることをおそらく承知しているはずなのである。Kruisinga & Eradesが掲げている戒め――「そもそも文法が関わるのは、明示的な[explicit]もの、即ち、形態的に表現されているものである。」(KRUISINGA & ERADES, An English Grammar, 90-6)、更に、「文法においては、形態、機能、意味に応じて様々な区別が可能である。これら三つの基準がここで挙げられている順序はそれらの相対的重要性を表わす。形態が第一であり、あらゆる記述文法において基本的なものであり、この上なく明白に確認しうるものである。意味は最後である。なぜかといえば、意味は主観的であり、変動し、しばしば種々の解釈を許容するからである。」(ibid, 251-6) ([1−8]参照)――をCGELは当然のことながら肝に銘じているであろうと私は推察する(CGEL, 14.5[Note]、あるいは第六章第5節参照)。ただし、このような戒めを掲げつつもKruisinga & Eradesは他方では、非制限的関係詞節の一部を"semi-adverbial clauses"と呼称し、例を挙げ、次のような解説を加えていた。
"Then we'd better go at once", said the old rat, who was chief. Sweet, Sp. Engl., p. 67
〈「それでは我々はすぐに行く方がいい。」と老ねずみは言った。彼は頭だった。〉
. . . , and at the same time I caught sight of my two fellow-fugitives, who were just running into a copse. Ib, p. 91.
〈そして同時に、ぼくは逃げている仲間二人の姿を認めた。彼らはちょうど雑木林の中に走りこもうとしていた。〉
これらの例(五例挙げてあるがここでは最初の二例だけ引用した…引用者)のうち最初の四例では、主節との関係が因果的なものであることは明らかである。老ねずみは助言を与えたが、彼が頭だったからであり、その少年が逃げている仲間の姿を見つけたのは、彼らが雑木林の中に走りこもうとしていたからだった。
(KRUISINGA & ERADES, An English Grammar, 137.1)(下線は引用者。[2−12]参照)
関係詞節と関係詞の先行詞を含む節との関係の在り方が意味内容の水準で解読されているのである。しかし、非制限的関係詞節を副詞要素のように読める感じがする場合についても、CGELは、「非制限的関係は、意味の上では[semantically]、接続詞を伴う等位関係や接続詞を伴わない等位関係に、もしくは副詞的従位関係に非常に似ていることがしばしばある。」(CGEL, 17.23)(下線は引用者)(第二章第4節及び[2−12]参照)という慎重な記述を残すにとどめていた。
多くの箇所でかろうじて保たれている記述の規矩を無闇に乱さずとも、CGELは、名詞修飾要素は様々に解釈することが可能であり、副詞要素のように解釈し得る場合もあると述べておけば足りたはずである。制限的名詞修飾要素すら様々に解釈し得る。いわんや非制限的名詞修飾要素をや、である。Curmeからは、副詞要素のように解釈し得る名詞修飾要素を初めとする様々な語群の例、及びそれに関する解説をいくらでも引用できる。以下にCurmeから引用する記述は、Curmeの「述辞並置要素」は副詞要素であると(Curmeの読み手が)判断することの妥当性を評価する上で有益な手掛かりを与えてくれるはずである。(「解読」については更に第六章第5節「解読という誘惑」及び[2−12]参照)。
6 Cに説明されているように、述辞並置形容詞[predicate appositive adjective]は主辞と主動詞双方に対する関係を保持し、かくして、しばしば副詞節の意味力[force]を有する。
'Cruel beyond belief ( = as he was cruel beyond belief --- 原因の副詞節[adverbial clause of cause]), he didn't listen to their pleadings.'
〈信じ難いほど酷薄な彼は彼らの懇願に耳を貸さなかった。〉
(CURME, Syntax, 10-I-5)(下線は引用者) (「6 C」とは、「6-C. Predicate Appositive. [述辞並置要素]」の一節である。「フォース[force]」については[6−37]参照)
述辞並置要素"Cruel beyond belief"は副詞要素である――日本の学校英文法によれば、beingの省略された《分詞構文》。本章第2節及び[7−10]参照――とすれば、以下に引用する文例中の形容詞"cruel"(更に"old")も同じように副詞要素であると判断されることになるのか。それとも、形容詞"cruel"(更に"old")は単に副詞要素のように解釈し得るに過ぎず、文法的に語るとすれば、これらの形容詞は名詞修飾的形容詞であるとしか語れないということになるのか。
付着的形容詞[adherent adjective]と名詞修飾的並置形容詞[appositive attributive adjective]は、主辞を修飾する場合には、述辞並置形容詞と同じ意味力を有することが多い。
'The cruel man, or the man, cruel beyond belief, didn't listen to their pleadings'
= 'The man didn't listen to their pleadings, as he was cruel or cruel beyond belief ' (原因の副詞節[adverbial clause of cause]).
'This old woman still dolls herself up like a young lady'
= 'This woman still dolls herself up like a young lady, although she is old ' (譲歩の副詞節[adverbial clause of concession]).
〈この老婦人は未だに若い女性のようにめかしこんでいる。〉
(CURME, Syntax, 10-I-5)(下線は引用者。「付着的形容詞」と「名詞修飾的並置形容詞」については[1−18]参照)
ここに挙げられている文例を整理すると次のようになる。
'The cruel man didn't listen to their pleadings'
= 'The man didn't listen to their pleadings, as he was cruel. '
'The man, cruel beyond belief, didn't listen to their pleadings'
= 'The man didn't listen to their pleadings, as he was cruel beyond belief '
付着的形容詞"cruel"も名詞修飾的並置形容詞句"cruel beyond belief"も一様に、副詞節に書き換えられている。
あるいはまた、次の文例中の命令文は条件を表わす副詞節であると判断されることになるのか。
andによって結びつけられている二つの文、あるいは結びつきが与えられていない二つの文があり、そのうちの一つの文が命令的叙想法[imperative subjunctive]ないし願望的叙想法[volitive subjunctive]を含む意志の表明である場合、意志の表明を含む文は条件節の意味力を有しており、そのような節に置き換え可能である。
'Give him an inch and he'll take a mile.'
'Stir and, you are a dead man.'
'One step further ( = take one step further) and you are lost.'
'Do it at once, you will never regret it.'
(CURME, Syntax, 31-1)(下線は引用者)
あるいはまた、以下に引用する文例中の等位節もやはり条件を表わす副詞節であると判断されることになるのか。
二つの平叙文が離接的接続詞[disjunctive](or, else あるいは otherwise)によって結ばれている場合、最初の文はしばしば条件節に相当する[equivalent to]。
'He cannot be in his right mind, or (or else あるいは otherwise) he would not make such wild statements '
= 'If he were in his right mind, he would not,' etc.
〈彼はまともな精神状態であるはずがない。さもなくば、あのように乱暴な発言はしないだろう。〉
(CURME, Syntax, 31-1)(下線は引用者)
数知れず繰り返される「〜の意味力を有する[have the force of ….]」というCurmeの記述をどう受け止めればいいのか。"Cruel beyond belief, he didn't listen to their pleadings."あるいは"The man, cruel beyond belief, didn't listen to their pleadings."中の述辞並置要素"cruel beyond belief"は、Curmeによって「副詞節の意味力を有する」と説明されているが故にこれを「副詞節(あるいは副詞要素)である」と判断し、この判断を貫くことにすれば、"The cruel man didn't listen to their pleadings."や"This old woman still dolls herself up like a young lady."中の形容詞"cruel"と"old"については「述辞並置要素と同じ意味力を有する」という説明が該当する形容詞であろうし、ここでは副詞節に書き換えられている以上、やはり副詞要素であると判断することになろう。
更に、"Do it at once, you will never regret it."中の前半部の命令文は「条件節の意味力を有する」と説明されているがゆえに、これを副詞節であると判断することになり、"He cannot be in his right mind, or he would not make such wild statements."中の初めの等位節は「条件節に相当する」(「相当する」はほぼ「意味力を有する」のことだと理解して不都合はないと判断する。"or"がある分だけ、書き換えには注意を要するのである)と説明されている以上、副詞節であると判断することになる。それとも、"cruel beyond belief"だけを副詞要素であると判断し、その他の語群と差別するのであれば、差別の根拠は何か[7−28]。
各種学習用文法書に答えを求めるのは酷であることは承知している。ところで、学習用文法書に次のような文例が挙げられることは極めて稀である[7−29]。
(7−7)
A renowned raconteur, Ustinov has received acclaim for his glib and humorous lectures and one-man shows.
〈名だたる話し手であるユスチノフはその達者でユーモアたっぷりな語りと一人舞台を称えられている。〉
(注) glib「口達者な」 (Ustinov, Sir Peter, britannica.com)
(7−8)
A heavyweight in physical as well as political terms, Mori is known to the Japanese public as a keen rugby player with a penchant for making verbal gaffes.
〈政治的観点からのみならず身体的観点からも重量級である森(喜郎新首相)は、日本の人々には失言の気味ある熱心なラグビー競技者として知られている。〉
(New leader, old policies, U.S. News.com, 4/17/00)
なぜこのような文例が挙げられることは少ないのか、いや、避けられているのか。
それは恐らく、例えば(7−7)は次のように書き換え可能だからだ。
(7−7a)
Ustinov, a renowned raconteur, has received acclaim for his glib and humorous lectures and one-man shows.
(7−7)と(7−8)中の文頭の名詞句は、日本の学校英文法の世界では概ね、「beingの省略された《分詞構文》」と見なされるであろう(beingに導かれた《分詞構文》については[1−14], [5−12], [6−40], [7−10], [7−61]参照)。
分詞構文の注意すべき点
(3)beingの省略
beingやその完了形having beenが省略される場合がある。
[Being] unable to walk any farther, he sat down to take a rest.
(それ以上歩くことができず、彼は座って休んだ)
[Being] a student of science, he was not interested in politics.
(科学者だったので、彼は政治には関心がなかった)
(中原道喜『マスター 英文法』、p.398)
(下線は引用者)[7−30]
(「科学者だったので、彼は…」という《不思議な》解釈の濫觴については[1−14], [6−40]参照。また、[7−30]に引用した文例の訳文も参照。更に第二章第6節末参照)
文頭に位置する"a student of science"が《分詞構文》であれば、主辞の直後に位置しても、やはり《分詞構文》であるはずだが、その検証を迫られることがないような文例(主辞が代名詞であるような文例)が(ことによれば意図的に)選択されている(正直に言えば、私には確かなことは分からない)。主辞が例えば固有名詞であれば("[Being] a student of science, Tom was not interested in politics.")、"Tom, a student of science, was not interested in politics."という文中の"a student of science"の「正体」を検討せざるを得なくなるであろう。主辞に後続する位置にあるこのような名詞句は日本の学校英文法の世界では「同格要素」であると判断される(ただ[7−14]に記したように、各種学習用文法書の「同格」に関する記述は極めて貧困である。「英文を読む際に欠かせない」(綿貫陽・淀縄光洋・MARK F. PETERSEN『教師のためのロイヤル英文法』p.241)極めて重要な学習事項であるにもかかわらず、である。従って、ここで挙げるのに適当な文例を見つけ出すのさえ大事である)。該当する文例を挙げる。
The Dead Sea, a big lake in the Jordan valley, is not a sea.
(ヨルダン谷にある大きな湖、死海は海ではない)
(堀口・吉田『英語表現文法』[4] 同格(Apposition), p.338)(下線は引用者)
ここでは、"a big lake in the Jordan valley"は「同格要素」である。こうした文例が挙げられることが少ない理由はおそらく、今度は次のような文中の文頭の名詞句について判断を迫られるからであろうかと勝手に推測しておく。
(1)"A big lake in the Jordan valley, the Dead Sea is not a sea."(あるいは(2)"A big lake in the Jordan valley, the Dead Sea, is not a sea.")
(1)中の文頭の名詞句は、「beingの省略された《分詞構文》」と見なされることになり、(2)の場合は、おそらく「同格関係」が見出されることになる。何度か述べたように、「主格補語」についての語りも、「同格」についての語りも、「カンマを伴う分詞句」の了解に見合ったものになる以上、「主格補語」についても「同格」についても、各種学習用文法書に私の期待に応えるような記述を見出すことはできないことを私は承知している。私の判断を披瀝してこの節を終える。
"A student of science, he was not interested in politics." 中の文頭の名詞句"A student of science"は主辞"he"に対する並置要素(並置名詞句)であり、主辞が例えば固有名詞である場合に成立する"Tom, a student of science, was not interested in politics."という文中の"a student of science"も同じように主辞"Tom"に対する並置要素(並置名詞句)である。並置要素がその暗黙の主辞である名詞句の前後に出現し得ることについては私には答えようもない。なぜ、を問うことは文法を語ることを越えているからだ。言語の起源を語ることが想像を語ることでしかないように、ある言語事実についてなぜを問うことも多くの場合、想像を語ることにしかならないだろう。例えば、"Do it at once, you will never regret it."(CURME, Syntax, 31-1)という文について、副詞節を用いることをしないでなぜ命令文を用いるのかと問われても、私には答えようもない[7−31]。
(第七章 第3節 了)
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